清水純一 『ルネサンスの偉大と頽廃 ― ブルーノの生涯と思想』 (岩波新書)

清水純一 
『ルネサンスの偉大と頽廃
― ブルーノの生涯と思想』
 
岩波新書 青版 825 

岩波書店 
1972年6月20日 第1刷発行
vi 210p 
新書判 並装
(定価記載なし)



本書「あとがき」より:

「本書執筆のおすすめを受けたのは、一昨年『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(創文社)を出版してから、しばらく後のことでした。ここ数年来私の主たる関心はむしろ千四百年代(クワトロチェント)に向けられているのですが、千五百年代(チンクェチェント)にたいする未練もむろん断ち切れているわけではないし、それにブルーノの思想をルネサンスから反宗教改革へと進む時代潮流のなかで浮彫してみたいというのは、かねてからの願いでもありましたので、まず千四百年代(クワトロチェント)ルネサンスの崩壊から筆を起して時代潮流の全貌を追い、ブルーノの時代に至り、その生涯と思想を叙説するという形式で本書を纏めてみました。
 プロカッチは、その『イタリア人の歴史』で、第四章に、1450-1550: Grandezza e decadenza (偉大と頽廃)、第五章に、1550-1600: Decadenza e Grandezza (頽廃と偉大)という章題を付しています。本書の標題もその驥尾に付した結果となったので、一言御諒承をえておきたいと思います。」



地図2点、章扉図版(モノクロ)5点。


清水純一 ルネサンスの偉大と頽廃


目次:

地図
 16世紀初頭のイタリア
 ブルーノ遍歴地図

Ⅰ 千四百年代(クワトロチェント)ルネサンスの崩壊
 ブルーノの処刑
 正統と異端
 フィレンツェの没落――ルネサンスの黄昏
 一四九二年
 ミラノの裏切り――内部の対立と外国勢力
 諸外国のイタリア侵略
 マキアヴェッリとイタリアの現実
 円熟せるルネサンス
 マキアヴェッリの変貌
 ミケランジェロ――彫刻と詩と
 調和的理想――分裂――統一

Ⅱ 反宗教改革の到来
 イタリアにおける宗教的危機意識
 政治的混乱と経済状態
 文化の拡散と保護者体制
 ラテン語と地方俗語
 ピエトロ・アレティーノ――千五百年代の不安
 トレント会議――ルネサンスと反宗教改革と
 千五百年代イタリア人の宗教意識
 福音主義の伝播
 最初のカトリック改革
 ワルデス派
 パウルス三世――カトリック改革から反宗教改革へ
 異端弾圧とニコデミズム

Ⅲ 異端精神の発酵
 ブルーノの教育
 ナポリ――異端思想の温床
 トマス神学から異端思想へ
 反時代精神
 異端の嫌疑と放浪の始まり
 ブルーノ思想の三つの源泉
 ウマネジモ
 魔術・錬金術・記憶術
 自然学
 新宇宙観への開眼

Ⅳ 彷徨の思想家
 ジュネーヴ→トルーズ→パリ
 ブルーノ思想の飛躍的発展
 イギリスへ
 オックスフォード事件
 コペルニクスの世界観とブルーノ
 宇宙論哲学の確立
 ロンドンの知的風土
 再びパリへ――二つの事件
 マールブルクからヴィッテンベルクへ
 プラハからフランクフルト、そして祖国へ

Ⅴ ウマニスタ、ブルーノ
 三世界の根源分割
 神の世界
 自然の世界
 人間の世界
 情念と理性
 自由へのあこがれ
 人間愛の提唱
 モチェニゴとブルーノ
 異端訊問

あとがき




◆本書より◆


「Ⅰ 1400 年代ルネサンスの崩壊」より:

「たしかに十六世紀イタリアには、千四百年代(クワトロチェント)ルネサンスにみられる溌剌として健康な時代精神は失せていた。興隆の意気に燃えた自由創造の精神にも翳りがみえはじめていた。その点で十六世紀をルネサンスのデカダンスとする説に私も賛成である。しかし爛熟の美はまた何物にも替えがたい魅力をもつ。十六世紀がルネサンスの黄昏であるにしても、その残照はあまりにも美しい。残照に映える花園は美しい。瞳をこらしてみるならば、この花園には無数の醜が蠢いているであろう。頽廃の汚物が散乱し、腐敗した臭気が紛々としているでもあろう。しかし黄昏れながらもルネサンスはなお多彩な花を咲かせていた。「毒ある花園」と呼ばれた、まさしくその名にふさわしいイタリアの姿であった。」


「Ⅱ 反宗教改革の到来」より:

「チェルリーニも、ミケランジェロも、自我(エゴ)の強烈さ、その自我(エゴ)を剥き出しにして恥じないことにかけては瞠目すべきものがあるが、アレティーノのエゴイストぶりも徹底していた。裏切りと罵しられようと、追従とわらわれようと、自分の利益のためには既成のモラルなど平然と見棄てて顧みなかった。そのかれを支えたものはただ一つの強烈な自我(エゴ)、自分の能力にたいする自惚ともいうべき自信のみであったように思われる。「俺はカエサルのように皇帝でもなければホメロスのように詩人でもない。だが俺は有名だ。そして俺自身の文体をもち、俺だけの国をもっている。なぜならば俺は真実らしく装ったりはしない、ありのままを描くからだ。」」


「Ⅲ 異端精神の発酵」より:

「当時の人々が魔術・錬金術の教祖トリスメギストスに寄せた関心と憧憬は非常なものであった。これには一つの誤解も原因となっていたのだが。――その誤解というのは実はヘレニズム時代の編纂である『ヘルメス原典』をきわめて太古の、プラトンよりもはるか以前の時代の書物であると考えたために、トリスメギストスは人類最古最高の知を伝える者として尊敬された――そのためにトリスメギストスは、しばしば絵画にも描かれ、神聖な聖堂の内部に祀られさえする。シエナの大聖堂を訪れた人は、内陣の中央に十二人の巫子たちにとりまかれたトリスメギストスの巨大なモザイク像を見出すであろう。」


「Ⅳ 彷徨の思想家」より:

「ブルーノの中心問題は無限であった。しかし無限そのものを問題にするのではない。無限はつねに有限に切してあり、有限のなかにある。有限のなかに有限を超越するものとしてある。無限が哲学の対象となりうるのはそのかぎりにおいてである。なぜならば、人間は本来有限のものであり、有限を介してしか無限を認識しえぬからである。神は神であり、即ち無限そのものであるが故に、まさしくそのことによって、ブルーノの思索の直接の焦点とはなりえなかったのである。神の無限は、人間の思考能力の限界を超越した存在であるが故に、自然を超えた信仰の問題であり、したがって、「それを信じないものにとっては、不可能であり無に等しいものなのである。」そして云う。「至高最善の原理については云々するまい。それはわれわれの思慮の外にあるからである。」
 ではわれわれ人間が知り論じうるものとは何か。それは人間の考察能力の限界を超えぬものでしかない。宇宙の無限はその限界である。それは超越者たる無限そのものではないが、たんなる有限の延長でもない。いわば無限と有限との切点にある。この切点において、有限のなかに無限そのものが映っている。自然のなかに映りでた神である。ブルーノはこれを、宇宙霊(anima del mondo)とよぶ。「ここでわれわれは一つの観念にまで登りつくことができたのである。その観念とはわれわれの考察をうけつけぬ、かの至高最善の原理のことではない。宇宙霊である。宇宙霊は万物の活動力、生命として、万物のなかに存在している。それによって万物は(数限りない個体に分たれながら)究極的には一つになっている。この一性を知ることが、あらゆる哲学の、あらゆる自然考察の究極目的なのである。」」
「無限なる宇宙はわれわれの目を真の無限者へと開かせた。そこに直知されたものが宇宙霊である。ブルーノの宇宙論哲学の核心はこの宇宙霊にある。」

「「哲学的自由の尊重のために、私がひたすら守ってきたものは、目を閉じることなくはっきりと見開け、という教えであった。……それ故に私は見た真実を隠そうとはせず、それを赤裸々に表明することを怖れない。光と闇、知と無知との戦いが永劫に続けられるように、憎悪、口論、騒擾、攻撃は到る処で繰り返され、しばしば生命さえもが脅かされる。それは愚かしく粗野な大衆によるだけでなしに無知の元兇ともいうべき学者たちによってさえ惹起されるのである。」そしてかれは、真実を蔽おうとする奴隷根性、それを助長する宗教的対立を、哲学的自由の敵として弾劾する。さらに法王にたいしても宗教的対立の根源として批判の矢を向けることを躊躇しない。ブルーノの人間愛は、こうしてかれに「英雄的狂気」の新しい戦いをつづけさせるのである。」




こちらもご参照下さい:

ブルーノ 『無限、宇宙および諸世界について』 清水純一 訳 (岩波文庫)
Frances Yates 『Giordano Bruno and the Hermetic Tradition』








































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