千葉文夫 『ファントマ幻想 ― 30年代パリのメディアと芸術家たち』

「わたしは犯罪だ。わたしは夜だ。わたしには顔がない。人に見せるべき顔はない。なぜなら夜は、そして犯罪は顔をもたないからだ。」
(ファントマ)


千葉文夫 
『ファントマ幻想
― 30年代パリのメディアと芸術家たち』


青土社 
1998年12月21日 第1刷印刷
1998年12月28日 第1刷発行
290p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円(税別)
装幀: 高麗隆彦



本書「あとがき」より:

「雑誌「現代思想」のために「逃げ去るファントマ」と題する原稿を書いたのは、もう十年近くも前のことになる。カトリーヌ・ソヴァージュのLPで「ファントマ哀歌」を最初に聞いて、クルト・ワイルが書いた曲にこんな歌があったのかという軽い驚きをおぼえたのがすべての出発点になっている。この歌の背景をさらに探ってゆくと、一九三三年のラジオの放送番組にたどりつき、そこではワイルのほかにロベール・デスノス、アントナン・アルトー、アレッホ・カルペンチエールなどが関係していることが見え、思いがけない人々の出会いがそこにあったことを知って、驚きはさらに強いものに変った。(中略)これを出発点として「ファントマ哀歌」の成立事情を徹底的に追求してみたらどうなるのかと考えはじめた。中心となる舞台は一九二〇年代後半から三〇年代前半のパリだが、ただしマスメディアの到来、そしてファシズムの予感のなかで、パリもまた変貌せざるをえない。」
「本書のなかで、アルトーに関する部分、デスノスに関する部分、あるいはまたシュルレアリスト的映画体験に相当する部分など、「現代思想」あるいは「ユリイカ」などの雑誌に発表した原稿がもとになっているものもあるが、一冊の本にまとめるにあたって、旧稿はすべて完全に書き改めることになった。」



本文中図版(モノクロ)多数。


千葉文夫 ファントマ幻想 01


帯文:

「複製技術時代の
犯罪王と
アヴァンギャルド

世界恐慌と
ファシズムの影が忍び寄る
シュルレアリズム分裂直後の
30年代パリ。
大衆小説から生まれて
映画化され、
アヴァンギャルドたちを熱狂させた
変幻自在の犯罪王ファントマを
草創期のラジオ放送が取り上げた。
番組を作ったのは四人の芸術家。
ナチを逃れ渡米途中のクルト・ワイル、
旅を経て精神病院に入るアルトー、
強制収容所で死ぬことになるデスノス、
キューバからの亡命者カルペンチエール。
マスメディアとディアスポラの世紀の
本番が始まる。」



帯背:

「メディアの世紀
を覆う影」



千葉文夫 ファントマ幻想 02


目次:

はじめに

主題1 
ファントマとは誰か
 ファントマ登場
 ファントマ神話

主題2
アヴァンギャルドとマスメディア
 ラジオ・デイズ
 パブリックな領域へ

主題3
犯行現場としてのパリ
 本文と挿絵
 リメイクの原理
 パリの神話

主題4
ワイヤレスの詩学
 電磁波空間のなかで
 同時遍在性の征服
 一九一三年、同時性の発明
 恐怖のTSF

  *

変奏1 空飛ぶファントマ
複製技術時代の作曲家――クルト・ワイル
 『ファントマ哀歌』のミステリー
 ワイル・ルネサンス
 大西洋横断飛行
 同時代の音楽、未来の聴衆
 わたしは船を待っている

変奏2 笑うファントマ
映画とラジオ――アントナン・アルトー
 ミイラのみずみずしい肉体
 残酷演劇としてのラジオ
 音楽、貧しき音楽
 映画の顔
 視覚的うなり音の魔術

間奏
シュルレアリスト的映画体験
 映画館の用法
 映画の世代
 夢のスクリーン

変奏3 歌うファントマ
フォノグラフ幻想――ロベール・デスノス
 起源のフォノグラフ
 夜の讃歌
 亡霊と歌姫
 海をわたって届く声

変奏4 海を渡るファントマ
パリのキューバ人――アレッホ・カルペンチエール
 一九二八年三月、ハバナ
 年代記作者
 キューバ音楽の後見人
 カンタータの記憶

おわりに
 怪物的オペラの構想
 サーカスの夢


あとがき
初出一覧



千葉文夫 ファントマ幻想 04



◆本書より◆


「はじめに」より:

  「静かにして……聞くがよい……
  犯罪者ファントマによる
  極悪非道の犯罪のすべてと
  そして何と、いまだに罰せられぬままにいる
  拷問と暴力事件の数々の
  陰鬱なる列挙を
   (『ファントマ哀歌』第一連)

 一九三三年秋のパリ。こんな始まりをもって怪人ファントマの犯罪の数々を謳いあげる声がラジオ放送の電波に乗って聞こえてくる。いうまでもなくファントマはこれより二十年ほど前、第一次世界大戦直前のフランスにあって爆発的人気を呼んだピエール・スヴェストル(一八七四―一九一四年)とマルセル・アラン(一八八五―一九六九年)の二人を作者とする連続読物の主人公だが、「犯罪王」「恐怖の支配者」「捕まえられぬ者」などの形容をもって名指されるこの悪の化身がラジオ番組という新たな形態のもとに、語り物の姿をまとってここに甦るのである。
 こうして歌いだされるファントマの物語は、シャンソンに近い形式をもって書かれている。二十五連の六行詩句にフィナーレが付け加えられる。すなわち全部合せて二百行足らずの七音綴の韻文という限られた分量の言葉では全三十二巻にのぼるファントマ・シリーズのすべてのエピソードを逐一追うというわけにはいかないはずだが、それでもラジオ放送の聴取者ベルタム卿の殺害あるいは大型客船ランカスター号の沈没事件を始めとして、すでにお馴染みの犯罪事件が次々と喚起されるのを聞くことになった。ファントマが犯した数々の血腥い犯罪事件の列挙、そしてまた犯罪王を追うジューヴ警部とこれを助ける「ラ・キャピタル」紙の新聞記者ファンドールの追跡劇を中心軸に据えながら、ファントマの娘エレーヌとファンドールの恋愛にも触れつつ、ファントマの手下たちの名をも刻み込んでみせるところなど、オリジナルの物語を踏まえつつ、これに簡潔な語り物の形式をあたえようとする作者の腕前のたしかさは疑いようがない。
 『ファントマ哀歌』と題されるこのテクストを書いたのはロベール・デスノス(一九〇〇―四五年)。一九二〇年代にはシュルレアリスム運動に加わり過激な言語遊戯を巧みにした詩人である。(中略)この時期の彼はラジオというメディアを場とする新たな試みにとりかかっていて、このラジオ番組のための仕事もそのような流れのなかで生れたものだった。」
「番組の制作にはデスノスのほかに、思いがけない人々が加わっている。そのひとりはこの番組のために作曲をした人物、つまり、この年の春、ナチスの脅威が決定的なものとなったドイツを脱出し、パリに滞在中のクルト・ワイル(一九〇〇―五〇年)である。(中略)ほかにアントナン・アルトー(一八九六―一九四八年)がファントマを演じて聴取者に戦慄を与えたというし、それにまた当時まだ二十代のアレッホ・カルペンチエール(一九〇四年―八〇年)が音楽ディレクターとして加わり音響効果を演出するなど制作陣のメンバーは超一流の豪華版だ。放送当時、この四人の名が一般の聴取者にどれほどのインパクトをもって受け止められたかは別として、少なくとも今日のわれわれにとって、彼ら四人が番組制作にかかわっている事実は『ファントマ哀歌』と題されたこのラジオ番組への興味を掻き立てるに十分であろう。」



「ファントマとは誰か」より:

「こうして、めくるめく変身の連続のなかで、要するに誰が誰だかわからなくなる状況がたえず引き起こされる結果になる。しかも、そのすべてを統括するのは単純きわまりないひとつの原理であるというべきで、要するに疑わしい人物、奇怪な人物、話題の人物、そのすべてはファントマの化身だということがどこかの地点で明かされることになるのだ。ファントマが小説の登場人物という本来の枠を抜け出し、夢魔的怪物となってその影をさらに大きく伸ばしてゆくその後のなりゆきは、自由自在に姿を変えるアンフォルムな存在としての登場人物の設定に深く関係しているように思われる。
 ディディエ・ブロンドは(中略)「マスクが王として君臨する」という簡潔な定式をもってこの変身の原理を要約している。つまりこの連続読物の真の主人公は限りなく複数化するマスクそのものであるというわけだ。」



「フォノグラフ幻想」より:

  「ある日パリで噴水が
  突然歌いはじめた
  人々は驚いた
  このコンコルド広場のシレーヌに
  閉じ込められていた囚われの王が
  泣いていたのだとは知らずして
   (『ファントマ哀歌』第八連)

 『哀歌』第八連はファントマ・シリーズ第五巻『ファントマに囚われた王』の挿話に対応するものである。ヘッセ=ワイマール王国なる架空国の王フレデリック=クリスチャン二世は愛人殺害の嫌疑をかけられ、パリから姿を消すが、この瞬間からコンコルドの広場の噴水から毎晩歌が聞こえるようになったという物語であり、噴水から歌だけが聞こえるという設定はことに詩人好みのものなのか、ジャン・コクトーもまたこの挿話に対応する詩を書いている。
 映画といいフォノグラフといい、メディアという表現にはうまく収まりきれない剰余部分を多分に抱え持っている。つまり情報の伝達という言い方では回収しきれない何かがそこにあるという印象があるからだろう。スクリーンの背後に人が隠れているのではないかと疑ったり、あるいはまた蓄音機のなかに小さな人間が隠れているのではないかと想像する発明初期の人々の心性のありようは、かならずしも科学的知識の欠如とか素朴さには還元しえぬものなのではないか。録画もしくは録音再生装置の発明に到る流れのどこか深い部分には死者の再生というほの暗い欲望が隠れているにちがいない。」

「現実派シャンソンの歌い手としてその名を残したイヴォンヌ・ジョルジュにデスノスが報われぬ愛を捧げたのは有名な話である。「ジョルジュは何を歌っても挽歌になる」とは塚本邦雄(『薔薇色のゴリラ』)の表現であるが、たしかに「水夫の歌」、「ナントの鐘」、「行ってしまいなさい」などの残された録音がつくりあげるこの歌手のイメージは何とも暗いものだ。録音を通して聞こえてくるのは、歌とも語りともつかない、両者の中間にあるような独自のスタイルであるが、たとえば「行ってしまいなさい」にあっては、pars (行ってしまいなさい)……と繰り返し命令形で歌われる部分が生み出す変則的リズム、またこの歌の後半部で、ほとんど崩れ落ちなんとするように低く呟かれる衰弱した声の異様さなどは容易に真似などできぬ種類のものであるにちがいない。今日の基準からするならば、これはなおも商品として通用する声なのだろうか。むしろフォノグラフとレコードが完全に商業化される以前の時代に存在していた種族の生き残りがここにいるというべきではないのか。生ける亡霊の声と形容するならば、あまりにも誇張がすぎるにせよ、「彼女ほど口笛で野次られた歌手は珍しい」という指摘もまた理解できる気がするのは、決して現代風ではないそのスタイルがあまりにもパセティックな情念の世界に深く沈潜してしまって、場合によっては舞台と聴衆のあいだの交流を切断することがあったのではないかと想像されるからである。ただしデスノスにとってみれば、まさにこのような歌い手の暗い特性のうちにこそ魅惑のありかがあったというべきだろう。」




Yvonne George - Pars




La Complainte de Fantômas
By Robert Desnos (1933)
Translation by M. Lapin (2009)
http://www.fantomas-lives.com/fanto5e.htm


Desnos et Ferre ensemble
La Complainte de Fantômas (1960)
http://www.24601.fr/sl/20080821118-desnos-et-ferre-sont-dans-un-bateau/



千葉文夫 ファントマ幻想 03


The Vampires (1915) Part 2: The Ring That Kills





こちらもご参照下さい:

『定本 久生十蘭全集 11』
アントナン・アルトー 『神の裁きと訣別するため』 宇野邦一 訳
『ブラッサイ 夜のパリ』 飯島耕一 訳
































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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