渡辺照宏 『不動明王』 (朝日選書)

「真言主の下、涅哩底(ぬりち)の方に依って、
不動如来使あり、充満せる童子形にして、
慧刀と羂索(けんさく)とを持し、頂髪左の肩に垂れたり、
一目にして諦観し、威怒にして身に猛焰あり、
安住して磐石に在(いま)す、面門に水波の相あり。」

(『大日経入漫荼羅具縁真言品』)


渡辺照宏 
『不動明王』
 
朝日選書 35 

朝日新聞社 
1975年4月20日 第1刷発行
1986年1月10日 第9刷発行
230p
四六判 並装 カバー
定価820円
さしえ: 井上球二



挿絵(扉絵)図版2点。


渡辺照宏 不動明王


目次:

第一部 日本における不動尊信仰
 一、「お不動さま」
 二、インド仏教
 三、密教の由来
 四、弘法大師と不動尊
 五、広まる信者層
 六、平安文学にあらわれた不動尊
 七、不動尊の信者たち
 八、室町時代の不動尊
 九、近世の不動尊
 十、不動尊の種々相

第二部 不動尊の考察
 一、密教とは何か
 二、不動明王の本体
 三、『大日経』にみる不動尊
 四、十九観について
 五、不動尊の従者
 六、尊形の種々相
 七、大自在天の説話
 八、印契と真言
 九、本尊供養
 十、護摩

文献一覧
あとがき




◆本書より◆


「第一部」より:

「不動尊の護摩を修する行者は――少なくとも観念の上では――本尊と一体になるということから、慈慧大師良源は修法の時に、不動明王の姿に見えたといわれた。また、それよりも以前の時代に、慈覚大師円仁が唐において排仏の難に遇った際に、不動明王に変身して助かったという説話が『今昔物語』に出ていることも述べた。慈覚大師のこの説話は、『宇治拾遺物語』(第一七〇話)にも出ている。この物語集にはまた次のような説話第一七話を載せてある。
 ある修行者(名は記してない)が摂津の国に行き、夜になって他に泊まる場所がないので古寺のお堂に上って、不動尊のダラニを唱えていると、真夜中に百人ばかりがやがやと入ってきた。見るとみな異様な姿をした鬼である。みんな坐ったが、ひとりの鬼だけ坐る場所がなく、手にした灯火を修行者の前にかざして「おれの坐る場所に新しい不動尊がおいでになる。今夜だけは外にいて頂く」といって、修行者を片手でぶらさげてお堂の軒下におろした。やがて夜が明けて気がついてみると寺も元の道もなく、通りあわせた人にたずねたら、そこは九州の肥前であったという。」

「新勝寺の不動尊から御利益(ごりやく)を授けられた物語は数多く伝えられていて、「利生記(りしょうき)」という。その中でもっとも古いものは道誉貞把(じょうは)(一五一五―一五七四年)のそれであろう。
 この人は和泉国の人で、出家修行して、志を立て武蔵国の三縁山増上寺に学んだ。いったん帰郷して説法するため高座に登ったが、ことばにつまって恥をかいた。発憤して再び東国に学ぶうちに、ある時、成田不動尊に参り、三七(さんしち)二十一日のあいだ参籠して祈願した。夢うつつのまに不動明王が姿を現わし、利剣と鈍剣との二本をひっさげ「どちらを呑むか」とたずねた。「利剣を呑みます」と答えると、明王は利剣を彼の咽(のど)に突きさした。血を一升あまり吐き、一度死んでから生きかえったが、痛みはなかったという。それ以来、毎日多くの聖典を暗誦することができるようになり、密教をも含めて、仏教に広く通じ、学徳すぐれた高僧になった。」

「江戸時代から現在にいたるまで、成田不動尊の霊験の物語は無数にある。江戸時代の相撲力士、大工、火消しなどの物語は講談、芝居、絵本、読み本などで多く知られている。
 成田のみならず、関東だけでも日野市高幡の高幡山明王院金剛寺(高幡不動)、相模中郡の大山寺など、いずれも古い起源を有し、とくに江戸時代以来、不動尊の霊場として知られている。また、東京では目黒竜泉寺の目黒不動、目白新長谷寺の目白不動、小松川最勝寺の目黄不動、駒込南谷寺の目赤不動、世田谷教学院の目青不動を五不動といい、目黒、目白などは地名としても知られている。
 不動尊を五色に描きわけることは、平安時代に属する青不動(京都青蓮寺)、赤不動(高野山明王院)、黄不動(三井園城寺、京都曼珠院)などにも見られる。これは偶然にそうなったのではなくて、実はインドにすでにその起源がある。インドの密教で「金剛瑜伽者」を「チャンダ・マハーローシャナ」(暴悪大忿怒)と名づけ、それには黒不動・白不動・黄不動・赤不動・青不動の五がある。」



「第二部」より:

「不動明王は大日如来と一身同体である。大日如来とはビルシャナ仏のことで、宇宙ぜんたいの象徴である。歴史上の人物としての釈迦牟尼仏も、西方極楽浄土の阿弥陀仏も、その他のすべての仏陀も、みなビルシャナ仏の中に含まれている。われわれ人間もまた実はビルシャナ仏にほかならないのであるが、真理を悟らずに迷っているから凡夫なのである。およそ宇宙のありとあらゆるものの中で、ビルシャナ仏に属さないようなものは何ひとつない。
 万物を包容するビルシャナ仏の姿をわれわれ人間は想像することさえできない。ビルシャナ仏それ自身はすべての形態と思想とを超越している。しかしビルシャナ仏は慈悲を本願とするから、人間の眼にも見える姿として顕現する。それが円満な相好(そうごう)をそなえた仏陀の姿で、金剛界と胎蔵界との大日如来として表現される。
 しかし大日如来は崇高な仏陀であり、われわれ人間には近よりにくい。そこでボサツの姿を現わす。(中略)大日如来は般若ボサツとして顕現する。ボサツは柔和な容貌で、慈悲に富む。われわれはそれでもなお迷って救われないことが多い。(中略)そこでビルシャナ仏は、ボサツよりももっと強力で、きびしい姿を現わす。それが明王である。これを不動明王という。」
「大日如来は自性輪身(本体)、般若ボサツは正法輪身(説法する姿)、不動明王は教令輪身(如来の教えを実行する姿)である。これを三種輪身という。」

「明王は仏教の中でも密教経典に限って説かれていて、(中略)密教経典の中でも必ずしも明王というとは限らないが、東アジアに伝わる密教では教令輪身をすべて明王とよぶ習慣である。」
「「明」 vidya は呪文のことであるから、「明王」といえば「呪文をつかさどる王者」をさすとともに「呪文の中の王」すなわち「すぐれた呪文」をさすこともできる。」
「「明」はヴィデャー vidya の訳語である。この原語は「知識」、とくに「宗教的知識」、さらに人間生活に役立つ知識として「医学、医術」と「呪術、呪文」とを意味する。どちらも人間の不幸を滅し、幸福を増進するからである。」
「この「明」を身につけている人を「持明者」 vidyadhara という。」
「インドにおいては、仏教でも、ジナ教でも、バラモン教でも持明者の話がよく出てくる。持明者は第一には人間社会の賢者のことで、医術や呪文にすぐれたもののことをいう。魔法使いのこともある。その特色は「明」(=呪文)を知っている点である。第二には人間以外の一種の妖精で、男女の別があるが、自由に空中を飛び回り、姿を隠して、善いことも悪いこともする。彼らの愛嬌ある物語が仏教のジャータカにも、ジナ教やバラモン教の文学の中にもある。インドの民間信仰である。この第二類の持明者たちはお伽の国に住み、そこから人間社会に出向いてくる。これら持明者の王が「持明者の王」すなわち「明王」である。バラモン教のヴィシュヌ神も明王とよばれることがある。」

「淳祐(しゅんにゅう)(八九〇―九五三)は 菅原道真の孫にあたるが、身体が不自由のため、世間の表面に立たず、生涯、真言密教の研究に専心、多くの著書をのこした。『要尊道場観』二巻はその一つであるが、その中に「不動尊道場観」が示されてある。行者が本尊と一体になる次第を説く――
 「定印(じょういん)を結び(中略)、目を閉じて運心観想す。壇上に hum 字あり。字、変じて瑟瑟座(しつしつざ)(不動尊の台座)と成る。座の上に ham 字あり。字、変じて猛利なる智剣と成る。智剣、変じて即ち極大忿怒=聖者=不動尊と成る。」
 次に、如来拳印(中略)を結んで身体の七処(中略)を加持、続いて、十四の印契を結び、それぞれの真言を唱える。その次に、右手で拳を結び、頭頂から両足にいたるまで次々に十九ヵ所に置いて、本尊と一体に成る。そして次の「十九観」をする――
 「第一。この尊は大日如来の化身なりと観ず。――実相華台にすでに久しく成仏せるも、本願をもっての故に、如来の使者となりて、諸の正務を執持(しゅうじ)するなり。
 第二。明(みょう)(真言)の中に a, ro, ham, mam の四字あり。――三世の諸仏は皆、この四秘密より三身(自性身・受用身・応化身)を応現し、菩提樹の下に降魔成仏す。これ寂滅定=不動の義なり。
 第三。常に火生三昧に住す。――ram 字の智火、一切の障を焼きて大智火と成る。
 第四。童子形を現(げん)じ、身、卑しくして肥満なり。(中略)
 第五。頂に七莎髻あり。(中略)
 第六。左に一弁髪を垂る。(中略)
 第七。額に皺文あり。形、水波の如し。(中略)
 第八。左の一目を閉じ、右の一目を開く。(中略)
 第九。下歯、上の右唇を喫(か)み、下の左唇、外に翻じて出づ。(中略)
 第十。その口を緘閉す。(中略)
 第十一。右手に剣を執(と)る。(中略)
 第十二。左手に索を持つ――繋縛を表わす。(中略)
 第十三。行人の残食を喫(きっ)す。(中略)
 第十四。大磐石に坐す。(中略)
 第十五。色醜くして青黒なり。(中略)
 第十六。奮迅忿怒す。(中略)
 第十七。遍身に迦楼羅炎あり。(中略)
 第十八。変じて倶力迦羅と成り、剣を繞(めぐ)る。(中略)
 第十九。変じて二童子と作(な)り、行人に給使す。――一を矜迦羅と名づく。恭敬、小心の者なり。(中略)二を制吒迦と名づく。共に語り難き悪性の者なり(中略)。」

「行者は観想のうえで、この順序で次々にその姿を思い浮かべ、同時に自分がその姿になりきるのである。この観想においては、不動尊のほかに二童子がいるのではなく、不動尊自身が二童子となってその働きをするのである。」
























































































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