河盛好蔵 『藤村のパリ』 (新潮文庫)

河盛好蔵 
『藤村のパリ』
 
新潮文庫 6539/か-4-4 

新潮社
平成12年9月1日 発行
399p
文庫判 並装 カバー
定価552円(税別)
カバー装画: 香月泰男


「本書の単行本は平成九年五月新潮社より刊行されました。」



河盛好蔵 藤村のパリ


カバー裏文:

「姪との「不倫」に苦悩した島崎藤村は、逃げるようにしてフランスへ渡った。折しも勃発した第一次世界大戦に濃く色どられた約三年間のパリ生活で、藤村は何を観、何を聴き、どんな事態を体験したのか? 下宿の女主人との関係は? 河上肇や藤田嗣治ら、パリの日本人たちとの交友は? 人間への好奇心、その飽くなき情熱が生き生きと蘇えらせる、藤村の歩いたパリ。読売文学賞受賞。」


内容:

藤村のパリ
 1~29
あとがき

解説 (清岡卓行)




◆本書より◆


「大正九年は私が三高に入学した年であるが、「エトランゼエ」は『朝日新聞』に連載され出したときから愛読した記憶がある。(中略)パリは憧(あこが)れの都であったから、胸を躍らせて読んだに違いない。爾来(じらい)このフランス紀行は私の嗜読(しどく)の書の一つになり、昭和三年の春に初めて渡仏したときにも、藤村が旅の鞄(かばん)のなかに芭蕉(ばしょう)を忍ばせたように、私は『エトランゼエ』を忍ばせ、パリの宿舎でくり返し読み耽(ふけ)ったものである。しかし『エトランゼエ』を愛読したのは私だけではなかった。例えば正宗(まさむね)白鳥は次のように書いている。
 (中略)
 《私は、かつて何気なく読流した島崎藤村氏の「エトランゼエ」を、新たに熟読して、こんなに含蓄の深いものであったかと、不思議に思っているくらいであった。氏の詩よりも一層深味のある詩であり、氏の小説よりも、人間の生存について思いに耽らされる小説であると云(い)っていい。この異郷滞在記によると、氏は、孤独のための、慰め難い無聊(ぶりょう)と、信じ難いほどの無刺戟(しげき)の果てに、ある幻影を生んでいる。その幻影(氏の所謂(いわゆる)エトランゼエ)は氏が、煤(すす)けた壁に向って、寂寞(せきばく)に閉されている時に、扉を叩(たた)きに来る。そして、氏の相手となって、旅の朝夕を慰めた。氏は、街上を散歩して珍しいものでも見つけると、早く下宿へ帰って、そこに自分を待っている幻影に向って、その話をして歓(よろこ)びを共にしようと思ったりした。この幻影は、こちらの云うことをよく聴いてくれるので、その前では何でも云えた。「自分の影法師のようでもあり、外からこっそりやって来るもののようであり、こうした長い旅の途中に隠れ潜んでいたもののようであり、私がエトランゼエを迎え入れる心持は一寸(ちょっと)説明することが出来なかった。唯(ただ)感ずることが出来た」と、藤村氏は云っている。「こんなことを書きつけたら、人は笑うだろうか」と、氏は気にかけて、その幻影の記述は少し漠然としているが、私は、藤村全作集うちでも、このあたりに最も心を惹(ひ)かれている。藤村氏は、他の小説のうちにも、譬喩(ひゆ)としておりおり幻影を用いているようだが、それは凡庸作家もたびたび用いる常套(じょうとう)であって「エトランゼエ」のなかのは、譬喩ではないのだ。それは、氏が当時交っていた在外の日本美術家や留学生よりも、氏に取ってはもっと現実性を有(も)っている幻影なのだ。》(「銷夏(しょうか)雑記」昭和六年七月二十二日、『読売新聞』)」

「藤村が、「せっかくパリにおいでになったものですから、よいものを見たり聞いたりしていらしってください。現代のヨーロッパで最も進歩したと言われる芸術の一つに触れてみてください」といって、河上肇(はじめ)と竹田省(さとる)の二人を三月二十一日(一九一四年)の土曜の晩に、ガヴォー音楽堂のドビュッシーの音楽会に案内することは、『エトランゼエ』にも『平和の巴里(パリ)』にも詳細に語られているが、このことは彼のパリ滞在中の一つのエヴェヌマンであった。」
「『エトランゼエ』を開いてみよう。
 《ドビュッシイ自身が演奏台に立って自分の作曲を自分で弾いて聞かせるようなことは巴里でもめったに得られない機会で、実は暮のクリスマスの前あたりから私の心掛けて置いたことだ。……
 私達はその音楽堂へ行って第一階のバルコニイの後部に陣取った。私はそこに音楽好きな人達の集まる内輪な席を見つけて置いた。
 ……やがて人々の視線は一斉に薄青い色の服を着けて演奏台の上に立った一人の婦人に集った。マラルメの詩(ドビュッシイ作曲)を独唱する為(ため)にパルドオ夫人という人が大きな洋琴(ピアノ)を背にして立った。その後方(うしろ)に深思するかの如(ごと)く洋琴の前に腰掛け、特色のある広い額の横顔を見せ、北部の仏蘭西(フランス)人の中によく見るような素朴な風采(ふうさい)の音楽者がパルドオ夫人の伴奏として、丁度三味せんで上方唄(うた)の合の手でも弾くように静かに、渋い暗示的な調子の音を出し始めた。その人がドビュッシイであった。バルドオ夫人が一曲を歌い終ると盛んな拍手が聴衆の間に起った。その時ドビュッシイは夫人の背後から簡単な会釈(えしゃく)をしたが、自分の音楽が聴衆の喝采(かっさい)の渦の中へ巻き込まれるのを迷惑がるかのように見えた。
 「いかにもあの音楽者は素朴な感じのする人ですね。西洋人のような気がしませんね。この分なら今夜は眠くならずに済みそうです。それにここへ集って居る人が好(よ)う御座んす。すべて気に入りました。」
 こう河上君は私に言うように成った。その晩ドビュッシイ自身はかずかずの自作の曲を心ゆくばかり弾いて聞かせたが、中でも六つばかりの小曲を集めた「ル・コアン・デ・ザンファン」〔「チルドレンス・コーナー」のこと〕は深く私の心を惹(ひ)いた。
 私達がガボオの音楽堂を出た頃は最早(もはや)大抵の店が戸を閉めて、珈琲(コーヒー)店なぞから射(さ)す強い灯の色だけが夜の街路に流れていた。蒸熱いほどの音楽堂から屋外へ出て見ると頬に触れる空気は冷たいとは言っても最早どことなく春らしかった。私達はマロニエの芽の出る頃の夜の息を吸いながら、乗合自動車のある広小路まで話し話し歩いた。巴里へ来ては国の方の空のように星を見つけることも稀(まれ)だ。でもその空を眺め眺め歩いて行くと、「小さな羊飼い」とか、「雪は踊りつつある」とか、「人形の窓の下の歌」とか、お伽話(とぎばなし)の清い深い情調を思わせるような小曲が私の耳について居た。私はあの大人の心をも子供の心をも誘うように夕方の林に小鳥の群が集って互に鳴騒いでいるような楽音をありありと耳の底に聞くことも出来た。あの音楽者の指が洋琴の鍵盤(けんばん)の極高い音の出る部分に集っているのをありありと眼に見ることも出来た。》」
「ところで、大田黒元雄著『ドビュッシイ評伝』(昭和二十六年五月、名曲堂)には、この晩の記事が出ているのである。
 《一九一四年の二月にドビュッシイは自分の作品を指揮するためにローマに行かなくてはならなかった。当時デューランに送った手紙には「まったく高の知れた金を稼ぐために」と書いてある。その演奏会はアウグステオで催された。オランダのヘーグとアムステルダムとで彼が二月二十八日と三月一日とに有名なコンツェルト・ゲボウの管絃学(かんげんがく)を指揮したのは、恐らくローマからの帰途であったろう。三月二十一日にサル・ガヴォーでその作品の演奏会が開かれた時に、彼は曲目を変更して「朽葉」、「沈める寺」、「亜麻色の髪の乙女」の三曲を演奏した。ニノン・ヴァランによって「ステファヌ・マラルメの三つの詩」が初演されたのもこの際のことである。マラルメの「ためいき」、「甲斐(かい)なき願い」および「扇子」に節づけたこれらの三曲は詩を忠実に表現しようとする試みにおいては成功しているけれども、歌曲としての効果には乏しい。しかもドビュッシイがこれらの作品に満足していたことは、こういうものはサン・ジャック街にはストックされていないといったことによって想像されよう。サン・ジャック街はスコラ・カントルムを意味する。従ってダンディやその弟子たちにはこういうものが書けないことを彼の言葉は仄(ほの)めかしているのである。》
 この記事のなかでまず私の気になるのは、マラルメの三つの詩を初めて独唱したのはニノン・ヴァランだったということである。藤村の記述のなかにあるパルドオ夫人というのはニノン・ヴァランのことであろうか。そういえば、『平和の巴里』のなかにある「音楽会の夜、其(その)他」、これは大正三年(一九一四)四月二十五日から八回にわたって『朝日新聞』に連載されたパリ通信であるが、それにはヴァラン・パルドオ夫人となっている。私としてはパルドオ夫人がニノン・ヴァランと同一人であると非常に都合がよいのである。というのは彼女はフランスの歌曲、とくにフォーレやドビュッシーの作品の歌手として非常な名声をえていたからである。のみならず彼女の独唱は私も若い時に(彼女の四十三歳の頃)幾度か聴き、SP盤ではあるがそのレコードも持っているからである。」

「五月二十八日付の『朝日新聞』に、「異郷の春」という藤村のパリ通信が掲載された。長いことちゅうちょしていたような春が急に駆け足でやって来たことを、当地に在留する画家の山本鼎(かなえ)が「マロニエの花が咲いたら」と、ながい冬のあいだによく言った、そのマロニエの花もようやく咲きだしたkとおを、復活祭の前あたりから、ポツポツもえだしたプラターヌの新芽が一日一日とその葉を大きくし、色を濃くして、はや町々は若葉の世界になったことなぞを報じただけのものであるが、その最後は次のような報告で結ばれている。《この節、一人の不思議な婦人が毎日のように町々をうろうろしております。白痴だと申すことです。私の宿の人達は戯(たわむ)れに「カロリイン夫人」という名をつけました。「カロリイン夫人」は大きな紅(あか)い薔薇(ばら)の花のついた帽子を冠(かぶ)り、白い手袋をはめ、朝から晩までこの界隈(かいわい)を往(い)ったり来たりしております。私はその何を待つかと他目(よそめ)には思われるような婦人の姿をこのブウルヴァルの並木のかげに、共同の腰掛の上に、時には公園前の銅像のあるあたりに見かけます。そして曾(かつ)て仙台へ行った時には「白馬鹿(ばか)」というのに逢(あ)い、小諸(こもろ)では「銀馬鹿」というのに逢ったことを思い出して、馬鹿の一人たりともこの世に不思議な位置に立っていないものは無いことなぞを思いました。》」

「『エトランゼエ』の次の章百三は、読み返す度に心を動かされる私の最も愛読する一章である。高村の前掲の本(引用者注: 高村真夫『欧洲美術巡礼記』)のなかに「モデル銘々伝」と題する一章があって、日本人の画家になじみの深い十一人のモデルのことが語られているが、そのなかの一人にイヴォンヌというモデルがいる。少し長いがその全文をまず紹介したい。
 《ファルゲール館の二階の便所の隣室にイヴォンヌと云う美しい女が住んだ事があった。彼女は或(ある)時代日本のアーチストX君の情婦(アミ)として暫らく此室に同棲(どうせい)して居たのである。私が毎朝の用足しに上って行くと、必らずしゃがれた声で調子外れに唄って居るのを聞いた。彼女の歌は素敵に拙(つたな)いもので、全く音律を為(な)して居なかった。恐らく鼻唄にもなって居ない様である。彼女は目が醒(さ)めると直ぐに床の中で唄い出す。そして彼女の情人が拵らえてくれる朝めしの出来るのを待って居るのである。彼女の顔は日本の芸者に似たような表情を持っていた。そして彼女の小さな味噌(みそ)ッ歯は、少なからず彼女の顔に愛嬌(あいきょう)を添えていた。彼女の頭髪はフランスの若い伝法女に屡々(しばしば)見るように、お河童(かっぱ)に短く切下げられてあった。彼女は嘗(かつ)て女記者をして居た事があるそうで、文章も筆跡も仲々美麗であった。彼女は流行なぞを無視して情人の手ずから縫うてくれた変った様式の服なぞ平気で着て歩いて居たが、そんな者がまた彼女の風采(ふうさい)によく似合って、頗(すこぶ)る異彩を放っていた。彼女は其美貌(びぼう)と才気とを持って一時はカルチエ・ラタンに其名を知られて居たそうであるが、永い間のボヘミヤン的生活がすっかり身に浸(し)みて、飽く事を知らぬ本能の耽溺(たんでき)に、酒を呑(の)み、コカインを嗅(か)いで全く健康を害し、頭も体も目茶々々にして仕舞った。コカインの中毒で段々ヒステリックになって、仕舞には彼女の情人からも紙屑(かみくず)の如く捨てられたのである。其後彼女を助くる人もなくなり、彼女が嘗ては女王の如く権威を振ったカフェ・ロトンドに来ても、誰一人顧みる人もなく、瘠(や)せたる野良(のら)犬の如く憐(あわ)れに窶(やつ)れて居た。彼女が未(ま)だX君と同棲して居った頃である。同人のK君が新しい彫刻のアトリエを借りた祝いに、吾々五六人が招かれた事があった。彼女もX君と同行して来て、而して男八九人の中で唯一人の女王として彼女は大いに持てて居た。そして思うさまはしゃいだ。食事がすんでから、若いフランスのアーチストとタンゴなぞ踊り廻って浮かれて居たが、紀念の写真を撮る事になって、主人のK君がカメラを据付け、フォーカスを定めて居る時、私の傍にふざけた姿勢をして坐(すわ)って居た彼女は、急に訳もなく泣き出した。人々は皆怪しんだが、その理由は分らなかった。彼女の泣声は段々大きくなって、仕舞には二階へ上って寝台の上で長い間泣通した。一座は白らけ切って仕舞った。同行したX君は非常に困って、漸(ようや)くだまして連れて帰って行ったのである。彼女は其時分から徐々病的の発作が始まって居たのであった。彼女は其後全く零落(おちぶ)れて、旧知の人々を頼って縋(すが)ろうとしたけれ共、誰も顧みる人はなかった。其後間もなく彼女はとうとう本物の気狂いになって、巴里市の慈善癲狂院(てんきょういん)に入れられて仕舞った。原因は多分コカインの中毒であろうと云われていた。ああ憐(あわ)れなる美しきイヴォンヌ。》
 このなかでX氏と呼ばれているのは藤田嗣治ではないだろうか。自分で手ずから縫った変った様式の服を情婦(アミ)に着せたというのは藤田以外には考えられないからである。イヴォンヌは当時の日本人画家の間でよく知られていたらしく、正宗得三郎も『画家と巴里』に収められた「トックの女」という随筆のなかで次のようなエピソードを伝えている。
 《このイヴォンヌはモデルの中では一寸と珍らしい秀(ひい)でたものを持っていた女であった。審(くわ)しくは分らないが、モデル達の話では、生れは白耳義(ベルギー)であるが、多少独乙(ドイツ)の血統も混じていると云う事だ。女学校まで登ったが、男が出来て小児まであげた。それを棄(す)てて巴里に出たのが最後、日々の放浪生活に馴(な)れるに従って、とりかえしのつかぬ身となった。戦争前は独逸(ドイツ)人の経営していた新聞社の女記者をしていたが、戦争開始と共に新聞は廃刊する。その後モデルの群に投じていた。その才分と負け嫌いの気質は何時(いつ)となくモデルの監督かの如く幅を利(き)かしていた。よくKなぞの処に来て、ヴェルレーヌの詩と、ボードレールの詩はこんなに感情が、激したのと、寂しさとの違いだと身振をしながら、朗読したり、感奮して、泣き倒れた事もあった。
 正月K達の会合のあった時は、男装したり又、埃及(エジプト)風俗をして夜通(よどお)しタンゴを踊ったり、唄ったり、独りで波濤(はとう)の如く、少しも静まる事がなかった。こんな時は彼女は屹度(きっと)、コカインかアシッシュを嗅いでいた。
 彼女の発狂はこの劇薬の為(た)めと云っていい。白耳義が戦に破れると共に、彼女の父母は行くえ不明となり、彼女の放浪生活は、定まった宿さえなかった。一週間はあちら、一日はこの友と、男や女の友の宿を廻っていたが、余り放逸なので成丈(なるたけ)人は彼女を敬遠する様になった。
 それでもこのイヴォンヌには姉弟(きょうだい)以上の差のある少年隊の恋人がいた。その話しは余りに長くなるので避けるが。
 何日(いつ)かセルビヤ〔彼女の友人のモデル〕と二人連れで来ていた時、一枚の写真を落したので、そっと拾って見ると、ヘルメット型の軍帽姿の美少年の肖像であった。
 イヴォンヌは恥しそうにもせず、これは自分のアミイだと云って、サックに入れた事がある。》
 藤村はこのイヴォンヌと藤田嗣治の画室で初めて遇(あ)った。その頃の彼女はまだまだ元気だった。しかし時を置いて行き逢(あ)う度に彼女は衰えていた。その衰え方のあまりの激しさに藤村は驚かされるようになった。多くの無知で卑(いや)しげなモデルに比べたら、彼女の顔や風采にはその窶れた中でもどこかに人の心をひく床しさがあった。同時に、彼女の激しい衰え方は一種の恐怖をすら誘うような性質のものであった。
 あるとき藤村はイヴォンヌと藤田の三人でモン・パルナッスの並木町を歩いたことがあった。着のみ着のままのような彼女の変った服装や、その褪(あ)せた色から発散する頽廃(たいはい)した感じなぞは、通りすがりの男や女の目をひいたほどであった。しかし彼女はそんなことには無関心で、藤村たちと一緒に静かに歩いていた。やがて彼らは小さいカフェで暖かいコーヒーを飲むことになったが、何を思い出したのか、イヴォンヌは飲みさしのコーヒー茶碗(ちゃわん)を前に置いて突然泣出すので、彼らはその店にも長く休んではいられなかった。彼らはイヴォンヌを誘って、モン・パルナッスの通りからリュクサンブール公園の前に出た。四月の下旬から五月にかけてのパリの最も楽しい季節で、彼らの行く先には春らしい日の光の中に群がり戯(たわむ)れる子供たちも多かった。イヴォンヌはさっきのカフェで啜泣(すすりな)きしたのも忘れたかのように、子供たちの遊ぶさまに眺め入りながら笑った。「この世がつくづく厭(いや)になったようです」と藤田は藤村に言って見せた。
 藤村がイヴォンヌと連れ立って公園を歩いたのはこの時だけであったが、その頃のイヴォンヌは、強いコカインから起る幻覚を何よりの歓(よろこ)びとして、公園からの帰り途にもあの劇薬を買うことを藤田にねだっていた。彼女は盗んでも飲みたくなるほどのコカインの耽溺者であった。
 あるとき藤村は藤田の画室を訪ねたことがあった。藤田は自分で意匠した機織(はたお)り器具の柱に何かの模様を彫刻していた。画室にはイヴォンヌもいて、彼女は隅の方にある寝台の上に寝そべりながら、沈鬱(ちんうつ)な目付をしてそれを眺めていた。藤田は馳走(ちそう)振りに、イヴォンヌに言いつけて、フランスの詩を朗読させようとした。
 《藤田君にそれを言われると、イヴォンヌの眼は輝いて来たように見えた。……彼女のように廃頽(たいはい)の底に沈んでいるものはいずれ刺激的な破格な詩でも選びそうに思われたからである。ところが彼女の取出して来たものは「ロオトンド」の珈琲(コーヒー)店あたりで持てはやされそうな新奇なものではなくて、古い古い詩集であった。ずっと娘の時からでも持って来たような手摺(てず)れた本であった。彼女はその中からヴィニイの詩を一つ読んで聞かせた。それから更に古い詩集の頁(ページ)を繰って、今度はラマルチンの詩を読みはじめた。無垢(むく)でまじりけの少い娘時代でも思い出したような涙が、そのうちにイヴォンヌの顔を流れて来た。藤田君は寝台に腰掛けて聞き、私は壁の側の椅子(いす)に腰掛けて聞いていたが、蒼(あお)ざめたうちにもどこかにまだ紅味(あかみ)の残ったような彼女の頬を伝う涙は膝(ひざ)の上にひろげた古本の紙の上に落ちた。彼女は読んで聞かせるにも耐えられなくなったという風で、読みさしのラマルチンの詩を閉じたかと思うと、いきなりその詩集を寝台の方へ叩(たた)きつけた。
 その時ほどイヴォンヌらしいイヴォンヌを私も見たことがなかった。彼女をよく見ると、私はいろいろなものを発見する思いをした。彼女の生命はある一点に向って注ぎ集まろうとするもののようであった。すべてのことはその一点に凝り、熱し、また凍り、そして他を顧みることも忘れ果てるもののようであった。彼女には無邪気な女らしささえ最早失われているように見えた。
 ……彼女はあの酒と言うよりも薬に近いアシッシュの力を借りて、一時の人工的な楽園に浮かれることもあるが、酔がさめた後では余計に沈んでしまうともいう。「憐れな美しきイヴォンヌ」と高村君はこの女のことを言ったが、こんな女の末は果してどうなるだろう。旅に来ればいろいろな人を見るものだと思った》と藤村は書いている。私は藤村をわが国の近代詩の流れのなかではラマルチーヌと同じ位置にある詩人であると思っているが、イヴォンヌはそんな偉い詩人の前で、詩を朗読したとは夢にも思わなかったに違いない。」




こちらもご参照下さい:

平出隆 『伊良子清白』























































































































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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