ジェローム・K・ジェローム 『ボートの三人男』 丸谷才一 訳 (中公文庫)

ジェローム・K・ジェローム 
『ボートの三人男』 
丸谷才一 訳
 
中公文庫 C 16 

中央公論社 
昭和51年7月10日 初版
昭和58年9月10日 八版
286p
文庫判 並装 カバー 
定価380円 
表紙・扉: 白井晟一
カバー: 池田満寿夫 画



Jerome Klapka Jerome : Three Men in a Boat, 1889
邦訳初版は昭和44年、筑摩書房版『世界ユーモア文学全集』の一冊として刊行されました。本書はその文庫化です。


ジェローム ボートの三人男 01


カバー裏文:

「気鬱にとりつかれた三人の紳士が犬をお伴に、テムズ河をボートで漕ぎだした。歴史を秘めた町や村、城や森をたどりつつ、抱腹絶倒の珍事続出、愉快で滑稽、皮肉で珍妙な河の旅がつづく。イギリス独特の深い味わいをもつ、代表的な傑作ユーモア小説。」


内容:

ボートの三人男 犬は勘定に入れません
 第一章 
  三人の病弱者
  ジョージとハリスの悩み
  致命的な百七の病気にかかっている一人の男
  有効な処方箋
  過労が原因、故に休息が必要だということに全員賛成
  時化(しけ)で苦しむ一週間か?
  ジョージは河を提案する
  モンモランシーは反対する
  三対一の多数によって原案可決
 第二章
  プランについての議論
  晴れた夜のキャンプの「楽しさ」
  雨の夜のキャンプの「楽しさ」
  妥協案成立
  モンモランシーの第一印象
  この犬は地上に住むべくあまりにも善良なのではないか、という根拠のない懸念
  散会
 第三章
  プランを練る
  ハリスの仕事ぶり
  家長はどのようにして額を掛けるか
  ジョージが尤もなことを言う
  早朝に水浴びする楽しみ
  転覆したときに備えて
 第四章
  食料の問題
  大気にパラフィン油が充満することへの反対
  チーズを道づれにすることの有利性
  ある人妻の家出
  ふたたび、転覆したときに備えて
  ぼくが荷造りをする
  歯ブラシの意地わる
  ジョージとハリスが荷造りをする
  モンモランシーの悪行
  眠りにつく
 第五章
  P夫人が起してくれる
  のらくら者のジョージ
  天気予報のペテン
  ぼくたちの荷物
  ある少年の悪行
  民衆がぼくたちのまわりに集る
  威風堂々ウォータールーへ
  列車というような俗事については、南西鉄道は関心がない
  ボートに乗って水の上を
 第六章
  キングストン
  初期イギリス史についての手引き
  彫刻してある樫(かし)と生活についての手引き
  スティヴィングズ少年の非運
  骨董についての瞑想
  舵をとっていることを忘れる
  興味ふかい結果
  ハムトン・コートの迷路
  ガイドとしてのハリス
 第七章
  日曜日の服をまとったテムズ河
  河での服装について
  男たちにとってのチャンス
  ハリスにおける趣味の欠如
  ジョージのブレザー・コート
  最新流行の服を着た若い上流婦人との一日
  トマス夫人の墓
  墓と棺と髑髏を愛さない男
  ハリスの怒り
  ジョージと銀行とレモネードについてのハリスの意見
  彼、芸当を演ずる
 第八章
  ゆすり、たかり
  正しい追っぱらい方
  河岸土地所有者の利己的な無礼
  制札
  ハリスのキリスト教徒らしからぬ感情
  ハリスはいかにコミック・ソングを歌うか
  上流社会のパーティ
  二人の破廉恥な青年の恥ずべき行為
  下らない知識若干
  ジョージ、バンジョーを購入す
 第九章
  ジョージ、勤労へといざなわれる
  曳綱の邪教的本能
  あるボートの怪しからぬ行為
  曳く者と曳かれる者
  恋人たちのために
  老婦人の奇怪な失踪
  もっと急げ、もっと速度をゆるめて
  娘たちに曳かれる際の興奮
  水閘がないのか、あやかしの河なのか?
  水上の音楽
  助かった!
 第十章
  第一夜
  天幕の下で
  助けてくれという叫び
  湯沸しの抵抗をいかにして克服するか
  夕食
  高潔な心境
  求ム、南太平洋ニ近キ、快適ニシテ排水ノ設備ヨキ孤島
  ジョージの父の奇妙な体験
  眠れぬ夜
 第十一章
  むかしむかしジョージが朝早く起きたというお話
  ジョージとハリスとモンモランシーは冷たい河を嫌う
  J氏におけるヒロイズムと決断
  ジョージと彼のワイシャツ、教訓つきの物語
  料理人としてのハリス
  特に学校用として挿入された歴史的回顧
 第十二章
  ヘンリー八世とアン・ブリン
  恋人たちと同じ家に住むことの不利益
  イギリス国民の試煉のとき
  絵画的なものを求めて
  家なき大人
  ハリス、死を決意する
  天使がやって来る
  ハリスがとつぜん喜んだ結果
  ちょっとした夕食昼食
  高価な芥子(からし)
  恐ろしいビール
  メイドンヘッド
  帆走
  三人の漁師たち
  呪われた男たち
 第十三章
  マーロウ
  ビシャムの僧院
  メドメナム僧団の僧たち
  フォックステリアの破廉恥なる行為
  モンモランシー、老猫を殺害し得ると考える
  されどその結果は……
  マーロウからの出発
  威風堂々たる行列
  スチーム・ランチを困らせる法
  河水を飲むことへの拒否
  平和な犬
  ハリスおよびパイの異様な消滅
 第十四章
  ウォーグレイヴ
  蝋人形
  ソニング
  ぼくたちのシチュウ
  モンモランシーがからかう
  モンモランシーと湯沸しとの格闘
  ジョージのバンジョー
  反対に出会う
  アマチュア音楽における困難
  風笛演奏の練習
  夕食の後のハリスの悲しみ
  ジョージとぼくが散歩に出かける
  飢えかつ濡れて帰る
  ハリスの挙動不審
  ハリスと白鳥の物語
  ハリスの眠られぬ夜
 第十五章
  家政についての一考察
  仕事への愛
  河の古強者は何をするか、そして何をしたと語るか
  新しい世代の懐疑主義
  舟遊びの思い出
  筏に乗る
  ジョージのスタイル
  老いたる船頭の態度と方法
  静かに、そして平和に
  初心者
  平底舟
  悲しい事故
  友情の喜び
  わが最初の帆走
  なぜわれわれは溺死しなかったかという理由への推測
 第十六章
  レディング
  スチーム・ランチに曳いてもらう
  小さなボートどもの怪しからぬ振舞
  彼らはどんなふうにスチーム・ランチの邪魔をするか
  ジョージとハリス、またしても彼らの責務を回避する
  かなり陳腐な物語
  ストリートリーとゴアリング
 第十七章
  洗濯日
  魚と釣師
  釣りの技術について
  良心的な釣師
  魚についてのエピソード
 第十八章
  水閘(ロック)
  ジョージとぼくが写真に撮られた話
  ウォリングフォード
  ドーチェスター
  アビンドン
  一家族の首長
  難所
  河の空気がいかに人間の品性を毒するか
 第十九章
  オクスフォード
  モンモランシーの天国観
  貸しボートの美点と長所
  「テムズの誇り」号
  天候一変
  テムズの別の相
  愉快な夜ではない
  手に入れられないものへの憧れ
  楽しき雑談の果てに
  ジョージ、バンジョーを弾く
  悲しきメロディー
  またもや雨
  遁走
  夕食と乾杯

解説 (井上ひさし)



ジェローム ボートの三人男 02



◆本書より◆


「第一章」より:

「そのとき居たのは、ジョージとウィリアム・サミュエル・ハリスとぼくと三人、それに犬のモンモランシーである。三人はぼくの部屋で椅子に腰かけ、煙草をのみながら、どうも近ごろ具合がよくないということを喋りあっていた。具合がよくないというのは、もちろん医学的な見地から見ての話である。
 三人とも気分がすぐれないし、三人ともそのことをひどく気にしていた。ハリスはときどき、眩暈(めまい)を感じるし、自分で何をしているか判らないことがある、と言う。ジョージは、自分も眩暈を感じる、自分も何をしているか判らないことがある、と言う。ぼくはと言えば、どうも肝臓の調子がよくない。悪いのは肝臓だ、ということはよく判っていた。というのは、少し前に特許肝臓薬の広告を読んだばかりだったからで、それには肝臓がやられているときの徴候が詳しく書いてあったが、その徴候が全部ぼくにあるのだ。
 これは大変なことだ。でも、ぼくは今まで、特許をとっている薬の広告を読んで、おれはこの病気にやられている、しかも極めて猛烈に冒(おか)されている、という結論に到達しなかったことは一度もないのである。徴候として書いてあるものは、あらゆる場合、ぼくが今まで味わったことのある感じに、ぴたりと一致するのだ。
 ぼくはある日、大英博物館(ブリティッシュ・ミューゼアム)へ出かけたときのことを思い出す。ちょっと気分がすぐれなかったので――たぶん乾草熱だったと思う――手当てを調べに行ったのだ。まず書物を前に置いて、読むべき所を読んだ。それから、なんの気なしにページを繰って、遊び半分に、病気一般について研究しはじめたのであった。最初に頭をつっこんだのは何という病気の所だったか、すっかり忘れたけれども、とにかく恐しい、悲惨な結果をもたらす疾患だったと思う。ぼくはその病気の「前駆的症状」の項を半分も読まないうちに、おれはこいつにやられている、と考えたのだ。
 ぼくはしばしのあいだ、恐怖のあまり凍ったようになっていた。が、やがて、絶望のものうさのなかにあって、ふたたびページを繰り、チブスの所をあけた。徴候を読んだ。そしてぼくはチブスにかかっていることを発見したのだ。どうやら、何ヵ月も気がつかないでいたようである。それからぼくは、他にも何か病気にやられていないかしらと考えた。舞踏病のところをあけて見ると、予想どおりこれにもやられている。ぼくはすっかり面白くなって、徹底的に調べようと決心し、アルファベット順にはじめた。まず瘧(おこり)(Ague)の所を見ると、なりかけていることが判った。(中略)次に腎臓病(Bright's disease)。これはわりにお手やわらかなので、ほっとした。この病気に関する限り、ぼくはまだ数年間、生きていられそうであった。コレラ(Cholera)――これはひどくこじれている。ジフテリア(Diphtheria)――これは生れながらにかかっている。ぼくはアルファベット二十六文字の順を追って、几帳面(きちょうめん)に調べあげた。結局、かかっていないと結論をくだすことのできる病気は、ただ一つ膝蓋粘液腫(しつがいねんえきしゅ)だけであった。
 実を言うと、最初は、この病気にだけかかっていないことにかなり不満だった。なんとなく馬鹿にされているような気がしたのだ。一体なぜおれは、膝蓋粘液腫にだけはやられなかったのかしら? 膝蓋粘液腫のやつ、なぜこんな厭味な遠慮をしやがるんだろう? しかししばらく経つと、もう少し寛大な気持になった。おれはこれ以外の病気はぜんぶ所有してるんだからな、と反省し、鷹揚(おうよう)な心境になって、まあ、膝蓋粘液腫はなくても我慢しようと決心した。」
「ぼくは腰かけたまま、じっと瞑想にふけった。そして、医学的見地から見ておれは何という興味深い患者なのだろう、大学の医学部にとっておれは何という貴重な宝だろう、と考えた。学生たちは、ぼくをそばに置きさえすれば、大学病院になんかゆかなくてもすむ。何しろぼくは、体のなかに大学病院を一つかかえているようなものだからだ。」
「こうして、幸福で健康な人間として図書閲覧室にはいったぼくは、その部屋から、半身不随の病人となってよろめき出たのである。
 ぼくはかかりつけの医者へ行った。彼は昔からの友人で、ぼくが病気になったような気がするときにはいつも、無料で、脈搏を計ったり、舌を見たり、お天気の話をしたりしてくれるのである。」
「処方箋を読むと、それにはこうあった。

  ビフテキ 一ポンド
  ビール 一パイント(六時間ごとに服用)
  散歩 十マイル(毎朝)
  就寝 正十一時(毎晩)
 小難しいことはいっさい頭に詰めこむな。

 ぼくはこの指図に従ったのだが、結果はすこぶる良好だった。(他人は迷惑したかもしれないけれども。)すなわち、ぼくは命びろいをし、そしてぼくの命はまだつづいているのである。
 肝臓薬の広告に話をもどすと、ぼくには肝臓をやられている徴候がはっきりとあった。そのなかで主なものは「総じて仕事をしたくなくなる」という奴である。
 このことのためぼくがどんなに辛(つら)い目に会ったかは、まったく筆紙につくしがたい。まだあどけない子供のころから、ぼくはこの徴候に絶えず悩まされてきたし、少年時代には一日だってこれを免れ得た日はなかった。家(うち)の人たちは、当時、問題は肝臓なのだということを知らなかった。そのころは今にくらべて、医学がまだまだ発達していなかったので、ぼくが怠け者だというふうに考えられたのである。
 「この怠け者め」
 と、ぼくはしょっちゅう、どやされたものである。
 「のらくらしてないで、さっさと仕事をしないか!」
 もちろん、家の人たちには、ぼくが病気だということが判っていなかったのだ。」



「第三章」より:

「ぼくたちが作った第一案は没にするしかなかった。必要として挙げただけの物を積みこんだら、ボートがテムズ河の上流でつかえてしまうのは明白だった。ぼくたちはリストをやぶき、顔を見合せた。
 ジョージが、
 「ぜんぜん間違ってたよ。入用なものを考えちゃ駄目なんだ。なくちゃ困るものだけ持ってゆくことにしよう」
 と言った。
 ジョージもときどき、ひどく分別のあることを言うから驚く。この意見はたいへん深い智恵にみちたものであるとぼくは思う。今の場合に関してだけではなく、ぼくたちが生活の河を旅する場合についても一般に正しいのである。なんと多くの人が、旅を楽しくするために必要だと考えて無用のがらくたをボートにつめこみ、みずからの身を危険にさらしていることだろうか。
 彼らは貧弱な小さな舟に、きれいな服や立派な住居をマストの高さまでつめこむのだ。」
「むやみに金がかかるだけで誰も面白がることがない娯楽、形式、流行、体裁、見栄――ああ、なんてくだらないことなんだ! 他人にどう思われるかという心配、ただ退屈するだけの贅沢、鼻についてしまった快楽、むかし犯罪者にかぶせた鉄の帽子のように、かぶると血を流し、頭がいたくなって気絶する虚しい外観、をつめこむのだ!
 厄介物である。諸君、こういう類(たぐい)のものはみんながらくたなのだ。そんな積荷は投げ捨ててしまえ。そんなものがあっては、ボートは重くて進めない。くたびれていて、オールもとれない。邪魔であり、危険である。一瞬たりとも、不安や心配を免れることができぬし、一瞬たりとも体をやすめ、ウトウトといい気持になることができない。浅瀬の上を軽やかに通りすぎる風の影、小波のなかに揺れ動く日の光のきらめき、岸辺に立って水面に影を写している大きな樹木、緑と金に輝く森、白と黄の百合、暗くふるえる藺や菅や野蘭(オーキス)や青い忘れな草を見まもる暇なんてありゃしない。
 がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要な物だけを積みこんで――生活の舟を軽やかにしたまえ。」
「こうすれば舟を進めるのが楽だし、簡単にはひっくり返らない。また、もしひっくり返っても、そう大したことはないのである。(中略)われわれには、働く時間も必要だが考える時間も必要だ。生活という日光を楽しみながら、一杯飲む時間も必要である。風の神がわれわれ人間の心の琴線(きんせん)をかきならして奏(かな)である風の音楽に、耳かたむける時間も必要である。それからまた……
 ごめんなさい。いったい話はどこまで行ったっけ?」



「第八章」より:

「河岸所有者の利己的態度は、年々歳々はげしくなった。こういう連中が思い通りに意を通せば、テムズ河はほとんど閉鎖状態である。事実、支流やせき返し水の場合には、本当に閉鎖状態になっているのである。河床には杭を打ちこみ、岸から岸へと鎖をわたし、大きな制札があらゆる樹木に打ちつけてある。ぼくはこういう制札を見ただけで、もうカッとなって、ぼくの天性のなかにあるあらゆる邪悪なものが目覚めて来る。こういう制札を一つ一つ取外し、それを打ちつけた男の頭をそいつで殴りつけたくなるのだ。そして、その男が死んじまったら、地面に埋め墓の上にその制札を墓石として立ててやろう――といった気持になる。
 ぼくがハリスにそう言うと、彼は、自分ならもっとひどい目に会わせてやると言った。制札を立てた男を殺すだけではまだ足りない。その男の全家族、友人および親戚(しんせき)全員をみな殺しにし、その男の家に放火するというのだ。これはどうも少し行き過ぎだと思ったので、ハリスにそう伝えると、彼は、
 「そんなことあるもんか。ああいう連中にはこれでぴったりなんだ。おれは焼跡に行ってコミック・ソングを歌ってやるつもりだ」
 ハリスがこういう血なまぐさいことを主張するのを聞いて、ぼくはすっかり厭になった。われわれは、正義をおこなうという本能を単なる復讐へと堕落させてはならないのである。ぼくは長い時間をかけて、ハリスがもう少しキリスト教徒らしい考え方をするように、ジュンジュンと説いて聞かせた。やっとのことで説得すると、それじゃあ友人と親類は勘弁してやるし、焼跡でコミック・ソングを歌うのもよしにしよう、と彼は約束した。」



「第十六章」より:

「だが、漕ぎだして一分もたたないうちに、流れに漂っている何か黒いものをジョージが発見し、そこへ漕ぎよせてみた。近づくとジョージが身をのりだし、それに手をかけた。とたんに悲鳴をあげて飛び退き、真青な顔になった。
 女の水死体なのである。それは軽やかに漂っていた。顔の感じはきれいで整っている。美人ではない。美人と呼ぶにしては顔立が少し老けているし、痩せてゆがんだ感じである。しかし、貧苦にやつれたあとがあるにもかかわらず、優しくて愛らしい顔である。とうとう苦痛が去ってしまったあとで病人の顔に時として訪れる、あの安らかさが、その顔にはあった。」
「あとになってから、この女の身の上が判った。もちろん、おきまりの俗っぽい悲劇である。彼女は愛し、そして欺(あざむ)かれた――というよりもむしろ自分自身を欺いたのかもしれない。とにかく彼女は罪を犯した。――ぼくたちのなかのある者がしょっちゅう犯しているように。彼女の家族と友人はもちろんショックを受け、憤慨し、彼女と縁を切った。
 一人で世間と戦わねばならなくなったため、汚辱の碾臼(ひきうす)を首にかけられたまま、彼女はしだいに低く低く沈んで行ったのだ。」
「ある日、苦痛と単調さとが彼女の目前に、今までよりももっと虚しいものとして立ちふさがり、嘲るような亡霊が彼女を脅かしたのであろう。彼女は友達に最後の哀願をこころみた。しかし彼らは勿体ぶった冷やかな態度で、この、罪を犯して追放された者のことをかえり見ようとはしなかったのだ。」
「彼女は終日、河のほとりの森をさ迷った。そして夕闇が迫り、灰いろの闇がそのローブを河面にひろげたとき、彼女は自分の悲しみと喜びを知っていてくれる寂寞(せきばく)たる流れへと身を投じたのだ。
 年老いた河はやさしい腕に彼女をいだき、彼女の疲れた頭を胸に抱きしめ、苦痛を取去ってやったのだ。
 このようにして彼女は、あらゆることにおいて罪を犯した――生において、死において罪を犯した。神様が彼女を救ってくださるように! そしてもっと他にも罪人(つみびと)がいるならば、あらゆる罪人たちを救ってくださるように!」



「第十九章」より:

「ハリスは手をグラスにもってゆきながら言った。
 「ぼくたちの今度の旅行は愉快だった。父なるテムズ河に心から感謝する。それにつけても、ぼくたちは、ちょうどいいときにテムズ河と別れたもんだ。《よくぞボートを逃げ出した三人男》のために乾杯!」
 後足で窓際に立ち、深い闇をのぞいていたモンモランシーは、短く吠えて、この乾杯の辞に同意を示した。」




こちらもご参照下さい:

ユゴー 『ライン河幻想紀行』 榊原晃三 編訳 (岩波文庫)
モーパッサン 『水の上』 吉江喬松・桜井成夫 訳 (岩波文庫)


































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

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将来の夢: 石ころ。

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