モーパッサン 『水の上』 吉江喬松・桜井成夫 訳 (岩波文庫)

「さる若い、美しい婦人が、ある日、どういうきっかけからか忘れたが、月の光にあてられるのは、日射病などよりも、はるかに危険である、といった。その人のいうには、美しい夜に出歩いて、知らぬ間に月の光にあてられる、そうなれば、断じて治りっこない、一生狂人になってしまう、それも、監禁を必要とするほどの兇暴な狂人ではなくて、おとなしいけれど、長期間にわたる、一種特別な発狂状態に陥る、どんなことについても、もう常人のようには考えなくなる、と。」
(モーパッサン 『水の上』 より)


モーパッサン 
『水の上』 
吉江喬松・桜井成夫 訳
 
岩波文庫 赤/32-550-9 

岩波書店
1955年9月25日 第1刷発行
1990年3月8日 第5刷発行
185p
文庫判 並装 カバー
定価360円(本体350円)
カバー: 中野達彦



本書「新訳の後に」(山内義雄)より:

「吉江博士の『水の上』の訳がはじめて公にされたのが大正二年であることは、その後これを岩波文庫に収録するにあたり、初版そのまま巻末に収載した「『水の上』とモーパッサンの晩年」の日付の明らかにするところである。」
「今度岩波書店出版部は『水の上』の新訳出版を計画し、それについての相談をうけた私は、かつて吉江博士の教え子であり、現早大教授である桜井成夫君に委嘱し、博士の訳文を自由に参考した上での新稿作製のことを思いついた。すなわち、ここにおくる吉江・桜井共訳『水の上』一巻である。」



モーパッサン 水の上


カバーそで文:

「晩年の心境がうかがわれるヨットでの地中海旅行記。アルプスの遠望、鉄仮面が幽閉された城塞等数々の情景が巧みな筆致で描かれる。」


目次:

一 錨はあげられた
 黎明の静寂
 出帆準備
 アルプス氷河の曙光
 艇長ベルナール
 彼の義弟レーモン
 エストレルの艶美な姿
 レランの島々
 海上の孤独の喜び
 「海の支配者」風
 サン・トノラ島
 パガニーニの遺骸
 カンヌの投錨地
二 カンヌ
 王公崇拝者の群
 パリ貴婦人間の音楽家への愛好
 文士の追求
 詩人と小説家
 ラ・クロワゼットの遊歩場
 ヨーロッパの花の墓場
 ばらの花に飾られる「死」の女王
 海上より見たる夜の町
 共同食卓での会話
 神に関する概念
 人間の快楽
 万物の単調無変化
 人間の無力
 芸術観
 絵画と文芸
 芸術に対する要求
 海上の孤独と虚無観
 バゼーヌ将軍の脱走譚
 フランス艦隊
 戦争論
三 アゲエ(一)
 空漠たる夜の海の沈黙
 夜間海上の幻
 万物の卑俗に対する嫌悪の情
 万物に対する獣的な享楽
 本能の生活
 美しいアゲエ湾
 山頂にて見たる恋人らの姿
 心をそそられる光景
 湾上の新月
 岸辺に立つ恋の二人
 月光の神秘力
 月光と詩人
四 アゲエ(二)
 心中の叫び声
 絶望と苛責と悔恨
 作家の第二視覚
 文士の心理
 二つの魂
 心の二重性
 陰惨な日の思い出
 街上の老婆
 雨中の遊猟
 小屋のなかの病人母子
 東方の国の楽しい生活
 翼ある夢想
 海上の釣の楽しみ
 地中海の美しい魚
 エーテルの強い力
 意識の異常な働き
 想念の戦場
 不可抗力を持つ優越者
五 サン・ラファエル
 教会前の群衆
 人間の醜悪
 原始人の壮美
 群衆心理
 チェスターフィールド卿の手紙
 隠れ沼
 夕陽の神秘
 冷血動物
六 サン・トロペ
 湾内の風と船の疾走
 モール人の国
 地中海土地会社
 サン・トロペの町
 老水夫たち
 二人の老書記
 いわゆる「牢獄の生活」
 手紙に対する嫌悪と恐れ
 世上の交際
 孤独の悩み
 商店外交員の会話
 フランス人のタイプ
 変通自在
 婦人に対する慇懃の情
 談話とは何か
 機智
 歴史上の実例
 男女の差別
七 ラ・ヴェルヌ修道院
 水流の自在な姿
 穴のなかの人間の生活
 隠者
 森林中の不思議な老夫婦
 貴族の娘と下士官との恋
 ラ・ヴェルヌ修道院
 山谿と大樹林の光景
 廃墟の感じ
 森林の悲劇
 老妻の死
八 モンテ・カルロ
 電報に接した心持
 外洋の巨浪
 ボート波にさらわる
 モナコ公国
 寛大な裁判
 殺人事件
 犯人への年金附与
 王城とカジノ
 賭博者の群
 アゲエ湾で見たる恋人たち
 終結

訳註
『水の上』とモーパッサンの晩年 (吉江喬松)
新訳の後に (山内義雄)




◆本書より◆


「私がぐっすりと眠っていると、艇長のベルナールが、窓に砂つぶてを投げつけた。私は、窓をあけた。とたんに、顔に、胸に、いや魂のなかにまで、夜の快い冷気を受けた。空は、澄んで、青味をおび、星の光がゆらめいているので、まるで生きもののように見えた。
 壁の下に立っていた水夫が、いった。
 「上天気ですぜ、旦那」
 「風は、どうだ?」
 「沖へ吹いています」
 「よし、じゃ今行くぞ」
 半時間ほどして、私は、大股で海岸をおりて行った。水平線が、白(しら)みかけていた。私は、遠くアンジュ湾のかなたに、ニースの燈火を望み、さらに遠くに、ヴィルフランシュの廻転燈台を眺めやっていた。
 私の前には、アンティブの町が晴れ行く闇のなかにぼんやりと浮んでいて、そこの二つの塔が、ヴォーバンの築いた古い城壁に今もとりかこまれている、円錐形のその町の上に、高くそびえていた。
 往来には、数匹の犬と、幾人かの人影――起きぬけの労働者たちだ。港では、波止場に沿うて、小帆船(タルタス)がごくゆるやかにゆれ、動くか動かないほどの水が、ぴしゃぴしゃとかすかな音を立てているばかりだった。とき折には、繋留索のつっぱる響か、小舟が親船の胴っぱらにふれあう音。船も、岸壁も、海そのものも、金粉を散らしたような蒼空のもとに、また、突堤につっ立って、ささやかな港内を見張っている小さな燈台の眼の下に、寝入っているように見える。
 向うの、アルドゥーアン建設の工事場の正面に、私は、火光のきらめくのを認め、物の動く気配を感じ、人声をきいた。みんなが、私を待っているのだ。「ベラミ」号は、出帆の用意ができているのだった。」

「実際、ときによると、私は、死にたいと思うほど、存在するものに対して嫌悪を感ずることがある。風景や、人間の顔や、思想の千篇一律な単調さには、とてもはげしい苦痛すら感ずる。宇宙の凡庸さが、私を驚かして反撥心を起させるし、万物の卑小さが、不快さで私の心を満たすし、人間の貧弱さが、私を叩きのめしてしまう。
 またときによると、これとは反対に、私は、動物のように、万物を享楽する。仕事のために傷められて、誇大狂的になった、不安な私の精神が、われわれ人間には及びもつかないさまざまな希望に飛びつき、やがて、それの空しさを悟って、ふたたび万物を蔑(さげす)むことになるにしても、一方、私の野獣のような肉体は、生命のあらゆる甘酔に陶然とするのだ。私は、鳥のように空を愛する、うろつきまわる狼のように森を愛する、羚羊(かもしか)のように岩山を愛する。草深いところを愛して、馬のように、そこをかけめぐり、そこに寝ころぶ。澄んだ水を愛して、魚のように、そこを泳ぐ。私は、あらゆる種類の動物に共通な何かが――下等動物のあらゆる本能、あらゆる混沌とした欲望に似た何かが、身うちにうごめくのをおぼえる。私は、君ら人間のようにではなく、彼ら動物のように、この現世を愛する。」

「月は、詩人たちを飄々とさまよわせるし、彼らを美妙なものにも、滑稽なものにもする。それは、また、恋人たちの愛情に、ルムコルフのコイルが電流に与えるほどの効果を及ぼすのである。日光のもとでは、尋常な恋をする人も、月光のもとでは、狂おしい恋をする。
 さる若い、美しい婦人が、ある日、どういうきっかけからか忘れたが、月の光にあてられるのは、日射病などよりも、はるかに危険である、といった。その人のいうには、美しい夜に出歩いて、知らぬ間に月の光にあてられる、そうなれば、断じて治りっこない、一生狂人になってしまう、それも、監禁を必要とするほどの兇暴な狂人ではなくて、おとなしいけれど、長期間にわたる、一種特別な発狂状態に陥る、どんなことについても、もう常人のようには考えなくなる、と。」

「緑の沼沢地のさなかに、水中に生えた木立の豊かな緑のなかに、河は、両岸の間を奥深く流れ入っている。その両岸は、木々の緑に、丈(たけ)高く見通しのきかない木の葉に、一面蔽われているので、近くの山々も、ほとんど見えない。」
「脚の長くぶらさがった鳥が、尖った嘴を空へのばして、蘆間から飛び立つ。また、大きい、ずんぐりした鳥が、重そうな飛び方で、岸から岸へと移る。それから、もっと小さくて敏捷な鳥が、水きりの小石さながら、河面すれすれに掠め去る。(中略)この深い河の周辺いたるところ、この平地全体、山々の麓まで、さらに水あり、といった感じがする。それは、眠っているようで、しかも生きている、人目をあざむく沼の水。広々として明るい水の面に、空が映り、雲が掠めすぎ、異様な藺(い)の叢(むら)が、あちこちに、にょきにょきと生えている。生命が朽ち、死が醗酵する、澄んだ、豊かな水、熱病と瘴気をはぐくむ水、精気であると同時に毒気でもある水、不思議な腐敗物の上に拡がって、心をひきつける美しい水。ここで吸う空気は、何ともいえず気持がよいが、人をとろりとさせて、不気味でもある。これら広々とした静かな沼沢を仕切っている堤という堤の上に、生い茂っている草むらという草むらのなかに、ぬらぬらする、いやらしい冷血動物の群が、うごめき、のそのそし、はねまわり、逼いまわっている。私は、人から敬遠され、こわがられている、これらこそこそと逃げ隠れる冷血動物が好きだ。それらは、私には、何か神聖なものに思われるのだ。」
「この世にめぐまれている色、人を陶然とさせる魅惑的な、さまざまな色がすべて、睡蓮の一枚の葉のまわりに、実に美妙に染めあげられ、目のさめるほどみごとで、無限の陰影をたたえているかに見える。あらゆる赤、あらゆるばら色、あらゆる黄色、あらゆる青、あらゆる緑、あらゆる紫が、そこに、僅かな水たまりのなかにある。そこに、空も、空間も、夢も、すべてが映り、飛び行く鳥の影が映る。それに、ほかにもまだ、何だかわからないが、何かがある、日没どきの沼のなかには。そこに、私は、うかがい知るべくもない神秘の漠とした啓示のようなものを感ずる。原始的生命の本原的な息吹を感ずる。原始的生命とは、恐らく、日暮れに沼沢から立ちのぼるガスのあぶくだったのだろう。」

「ある執念深い賭博師が、勝負運の悪い日に、つい国王に対して不敬な言葉を吐いたので、勅令により追放の目にあった。
 一ヵ月の間、彼は、(中略)この「禁断の楽園」のまわりをうろついた。だが、とうとうある日、思いきって、国境を越えるや、三十秒で国の中心に達し、カジノへ入ろうとした。ところが、不意に、一人の役人が、彼を引きとめた。
 「あなたは、追放になっているのではありませんか?」
 「そうです。でも、すぐ次の列車で立ちますよ」
 「ああ! そうですか、それなら結構、入ってもよろしいです」
 それからは毎週、彼は、やってくる。そのつど、同じ役人が、同じ訊問をし、彼の方も、同じ答えをする。」
「ところが、つい近年に、極めて重大な、未曽有の事件が、この王国に起った。」
「ある男が、生粋のモナコ人が(中略)、腹立ちまぎれに、その女房を殺してしまったのだ。
 ああ! 別に理由もなく、もっともらしい口実もなくて、殺したのだ。国中が、わき立った。
 最高法院が、召集されて、この異例の事件(殺人犯などは、かつてこの国であったためしがないのだ)を裁判した。そして、不幸な男は、満場一致で死刑を宣告された。
 憤怒されていた国王も、判決に御批准を与えた。
 あとは、ただもう罪人を処刑するばかりだった。ところが、そこに、一つの故障が生じた。この国には、死刑執行人もいなければ、断頭台もなかったのである。
 さて、どうしたらよかろう? 国王は、外務大臣の意見に従って、フランス政府に、首斬り役人とその道具との借用方を交渉しはじめた。
 パリの内閣では、長い評議が行われた。結局、その回答として、道具と係の役人との移動費の見つもりを送った。総額一万六千フランにのぼった。
 モナコ国王は、刑の執行には大分金がかかると思った。実際、この殺人犯には、それほどの値打ちもありはしない。」
「そこで、国王は、ふたたび最高法院を召集して、この難件の審理をゆだねた。
 一同は、長いこと協議したが、何らの実行方法をも発見できなかった。とうとう法院長が、死一等を減じて、終身刑にしようと提議した。そして、その処置が、とられた。
 ところが、この国には、牢獄がなかった。それで、それを一つ設けねばならなかった。さらに、看守が、一人任命されて、その囚人を引きとった。
 半年の間は、万事順調に行った。囚人は、監房の藁蒲団の上で、一日中眠りほうけていたし、牢番の方でも、戸口の椅子に腰かけて、旅行者たちが通るのを眺めながら、居眠りしていた。
 だが、国王は、しまりやなのだ。(中略)この看守の俸給が、王家の予算には重い負担となっていたのである。
 最初国王は、顔をしかめただけだったが、これがいつまでつづくことかと考えつくと(中略)、司法大臣に対して、この出費の削除策を講ずべきことを警告した。
 大臣は、法院長に相談をした。その結果、二人は、看守という官職を廃止することにきめた。こうして、囚人は、自分ひとりで自分の監視をするようにしむけられたのだから、いずれ脱獄するのは必定、そうなれば、問題は、四方八方円満に解決するだろう。
 そこで、(中略)宮廷の膳部係の一人が、朝夕、罪人の食事を運ぶだけの役目を仰せつかった。けれど、罪人は、自分の自由をとりもどそうとは、少しも企てなかった。
 ところで、ある日のこと、彼に食事をとどけるのを忘れていると、彼の方から、のそのそと出向いてきて、それを催促した。それからというものは、膳部係に足を運ばせまいと、食事どきに、自分の方から御殿へやってきて、仕丁たちといっしょに食事をする習慣となり、そのうち、彼らと友だちとなった。
 昼食ののちには、彼は、ぶらぶらとモンテ・カルロまで散歩するのだった。ときには、カジノに入って、緑布の賭博台に五フランほどかけることもあった。一もうけしたときには、評判のホテルで御馳走を奮発し、それから、牢屋へ帰って、内側から入念に鍵をかけた。
 彼は、ただの一度も外泊することはなかった。
 事態は、受刑者にとってではなく、裁判官たちにとって、面倒になってきた。
 法院が、またもや召集されて、罪人にモナコ国外への退去をすすめることにきまった。
 この判決がいいわたされたとき、彼はあっさりと答えた。
 「御冗談でございましょう。(中略)私は、死刑の宣告を受けましたが、あなた方の方で、刑の執行をなさらなかったまでのこと。私は、一言(ひとこと)も文句を申しませんでした。それから、終身刑にされて、看守の手に引きわたされましたが、その牢番もとりあげられてしまいました。それでも、私は、何にも申しませんでした。
 今日はまた、私をこの国から追い出そうとなさいます。ああ! 平(ひら)に御免をこうむります。私は、囚人です。あなた方の囚人です。あなた方に裁かれて罪の宣告を受けた囚人です。私は、忠実に刑に服します。私は、ここにとどまります」
 最高法院は、狼狽した。国王は、激怒して、何とか処置するよう命じた。
 ふたたび評議が、はじめられた。
 そこで、罪人が、国外に出て生活するなら、六百フランの年金を支給しよう、ということに話がきまった。
 彼は、承諾した。
 彼は、旧主君の国から五分ほどのところに、ささやかな地所を借りて、幾らか野菜をつくりながら、そして君主面するやつらを馬鹿にしながら、そこで幸福に暮している。」




こちらもご参照下さい:

ユゴー 『ライン河幻想紀行』 榊原晃三 編訳 (岩波文庫)
ジェローム・K・ジェローム 『ボートの三人男』 丸谷才一 訳 (中公文庫)

































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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将来の夢: 石ころ。

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