『定本 柳田國男集 別卷第三 故郷七十年』 (新裝版)

「日本人の信仰のいちばん主な點は私は生れ更りといふことではないかと考へてゐる。」
(柳田國男 『故郷七十年』 より)


『定本 柳田國男集 
別卷第三 (新裝版)』

故郷七十年(増補版)

筑摩書房 
昭和46年3月20日 第1刷発行
521p 目次1p 人名索引6p 
口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 34 (8p):
「故郷七十年」の成り立ち(嘉治隆一)/赤穂の柳田・美郷のことなど(鈴木さえ子)/あるポイント(宮崎修二朗)/柳田先生の御教示(阪口保)/柳田先生の思い出(二)(山下久男)/次回配本/図版(モノクロ)4点



全31巻・別巻5巻。正字・正かな。


本書「あとがき」:

「○「故郷七十年」は、昭和三十三年一月八日から同年九月十四日まで、二百囘に亙つて神戸新聞に連載されたものである。神戸新聞社創立六十年記念の爲に、兵庫縣出身の著者が、嘉治隆一氏の慫慂により口述筆記せしめたものである。後、昭和三十四年十一月編集をかえて、單行本としてのじぎく文庫より出版された。本書は新聞發表當初の體裁を踏襲し、それに未發表の分を拾遺として附加した。
○本書は最初からの關係によつて嘉治隆一氏に編集を煩わした。」



本文中図版(モノクロ)1点。


柳田国男集 別三 故郷七十年


内容:

故郷七十年(改訂版)
 母の思ひ出に
 起筆の言葉
 故郷を離れたころ
 東京への旅
 東京の印象
 私の生家
 昌文小學校のことなど
 幼時の讀書
 布川のこと
 饑饉の體驗
 祖先のこと
 鈴の森神社
 兄嫁の思ひ出
 母の里
 家の壽命
 大庄屋の家に
 一人前の話
 同郷の人々
 丹波街道のこと
 匿名のこと
 街道すぢの昔
 父の伯州ゆき
 上坂と弟の頓智
 ズズ玉のこと
 引割麥のことにふれて
 麥つき唄から
 稻荷信仰のこと
 狐の思出から
 狐信仰のこと
 史學への反省
 辻川のみち
 田原といふ地名
 「ええぢやないか」の話
 父の歌など
 故郷の歌人
 鳥柴の木
 學問の本義
 囚人と兵隊
 嫁入道具の行列
 嫁盗み
 義太夫道德の責任
 男蝶女蝶
 言葉と選擧
 易しい言葉をふやす
 方言その他
 第二の濫讀時代
 北齋漫畫のことなど
 最初の文章
 ある神秘な暗示
 大塚戸の花火
 大利根の白帆
 イナサ(東南風)
 ヨナタマ(海靈)
 ナライの風・ダシの風・アイの風
 海のロマンス
 木地屋のこと
 木地師の葬法
 コケシ人形のこと
 オケシはいや
 河童考
 明石のカハカムロ
 駒ヶ岩の河太郎
 河童と虬
 但馬の鶴山
 播州人のユーモア
 神隱し
 「西播怪談實記」など
 夫婦喧嘩の仲裁
 母の長所
 大正文化と女の力
 「利根川圖志」のこと
 お茶の舟
 岡田武松君との初旅
 關東の播磨人
 一高水泳部の起り
 播州歸省
 信州の柳田家に入る
 九州の旅・北國の旅
 茶の話
 黑坂達三君のこと
 高田十郎君のことなど
 ピネロの全集
 外國人との交際
 郷土會と牧口常三郎
 父の死と自作のノリト
 谷中墓地の碑文
 慈恩寺の碑文
 柳田家の墓所
 亥の子
 豐の明り
 大師講
 アエノコト
 「竹馬餘事」
 遊歴兒童のこと
 湖處子の「歸省」
 歌口
 無題の歌
 文學の兩面
 頓阿の草庵集
 石坂素道さんのこと
 センゾクといふ所
 來世觀
 車兒(くるまご)
 有志家といふもの
 辻川の變化
 鈴木一族
 先祖になる
 西所の松岡
 兄の望郷心
 長兄の境涯
 二兄の心遣ひ
 寄宿舎生活の有難味
 坊ちやんクラスの出現
 丙畫展覽會
 柔道の稽古と「文學界」への寄稿
 就職
 兩親の急逝
 明治女學校と播州人
 柳井子の弟
 國木田獨歩の想ひ出
 町の學者
 龍土會のころ
 鴎外に知らる
 尾崎紅葉に會ふ
 泉鏡花
 江見水蔭
 余が出版事業
 甲寅叢書
 爐邊叢書
 「民間傳承」のことなど
 次兄、井上家に入る
 中川・井上・松岡三家の關係
 兄の歸省
 親の幸福
 兄嫁の急逝
 姫路時代
 次兄の逸話
 手賀沼の蛸釣り
 弟達のこと
 末弟靜雄の性癖
 わが家の特性
 露人ネフスキーのこと
 ネフスキーの功績
 ネフスキーのノート
 ネフスキーと宮古島語の發音
 おしら樣
 世界苦と孤島苦
 「採訪南島語彙稿」
 倭寇の遺跡など
 朝日新聞記者
 沖繩に渡る
 河上肇君
 国際聯盟本部で働く
 比嘉春潮君
 時勢と姿勢
 武士氣質
 「山の人生」
 自然主義小説のころ
 田山花袋の功罪
 花袋への好意
 苗字の研究
 地名の研究
 南方熊楠先生
 英人・本尊美
 英人スコットとの旅
 エリセーフ父子
 オランダ人の知り人
 田の字型の家
 生家にあつた子供の本
 賴母子のこと
 父の熊川舎塾監時代
 洒落の解る子供
 内閣文庫
 日蘭通交調査會
 快男子江川俊治
 太田陸郎君
 捕獲審檢所のころ
 臺灣から廣東へ
 シナ大陸旅行
 退官
 ジュネーヴの思ひ出
 イタリア・子安貝
 柳田家のはじめ
 各地の柳田族
 播州の柳田
 米の話と黑潮
 騎馬民族説への疑問
 穀靈信仰など
 赤米のこと
 ヨネ・コメ・クミ・クマなど
 日本の舟
 日本民族の起源
 筆をおくに臨みて

故郷七十年拾遺
 中央に出た人たち
 先祖の話
 兄嫁の後半生
 次兄死後の悲劇
 南天莊歌集
 大屋の横行話
 野鳥雜記
 小鳥日記
 堅石、姫堅石
 幕末の裏面史
 攝津三田の精神生活
 キリスト教に一時傾く
 再び文學界のこと
 一葉女史のこと
 賀古鶴所
 藤村との疎隔
 藤村の詩「椰子の實」
 眞字本曾我物語
 安居院神道集
 郷土會記録
 牧口君入信の動機
 常陸風土記から
 各地の掠奪婚
 裸體と文明
 主婦權の確立
 竹葉寅一郎のこと
 宮武外骨
 土と心を耕しつゝ(江渡幸三郎)
 ロバート・ホール博士など
 コンラッドのこと
 色々の外人との附合
 地方講演の二、三
 生家の祖父、眞繼立齋のこと
 祖母、松岡小鶴のこと
 實父、松岡操のこと
 遠い親戚と近い姻戚

内容細目
あとがき
人名索引




◆本書より◆


「鈴の森神社」より:

「明治初年まで相應な暮しをしたのだが、維新の大變革の時には、じつに豫期せざる家の變動でもあり父の惱みも激しかつたらしく、一時はひどい神經衰弱に陷つたともきいてゐる。」
「父が明治維新の戸惑ひ? のためひどい神經衰弱になつたことで私は思ひ出すことがある。私の家の裏の竹藪をへだてた北の道端にある在井堂といつて足利時代の本だといはれる「峯相記」にも出てくる空井戸のある藥師堂があつたが、ある夏の夜座敷牢から出して蚊帳の中に寢ませてゐた父が急に行方不明になり手をつくして八方捜したところ、この井戸の中に父は入つてゐたといふことを聞いたことがある。」



「稻荷信仰のこと」より:

「例へば、私のゐる町に久兵衞さんといふ話好きの古老がゐて、私の通つてゐる鍼灸院で、こんな話をしてくれたことがあつた。ある晩大工の某が、近くの稻荷さんのほとりを通つてゐると、狐が踊つてゐて、しきりに「あいつ、今夜は遲いな」と語り合つてゐた。やがて遲刻して到着したのは、大工の家の飼猫で「今夜はおカユが熱くつて……」といひわけをしながら、いつしよになつて踊つてゐた。大工が歸宅してみると、成程その夜は冬至か何かで、各戸ともおカユを炊く日であつた。」


「狐の思出から」より:

「毎夜臺畑の所で狐が鳴くので、家族は顏を見合せて不思議なことだと語り合つてゐたのであるが、じつは隣家つまり私の家の大家(小川といつた)の下男が狐の穴を埋めたため、狐が困つて「クオオ、クオオ」といふ風に鳴いてゐたわけであつた。さうしたある日の晝下り、家の裏手からふと臺畑の方へ目をやつた私は凝然と立ちすくんでしまつた。そこに二匹の狐が坐つてゐてそれが私の方を見てゐるやうに感ぜられたのである。何の理由もなく、體の動けなくなる思ひであつたが、その翌日隣りの野澤藤四郎といふ主人が突然發狂してその妻女を斬り殺し、さらに西隣りの主人小川虎之助の許へ赴いて、矢庭に斬りつけるといふ事件が發生したのである。この事件が狐の穴を埋めた祟りであらうといふ近所の人々の通説になつて、子供心に恐怖心に捉はれたものであつた。」


「ある神秘な暗示」より:

「何かにちよつと書いたこともあつたが、こんな出來事もあつた。小川家のいちばん奧の方に少し綺麗な土藏が建てられてをり、その前に二十坪ばかりの平地があつて、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠の新しいのがあつた。聞いてみると、小川といふ家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して來た偉いお醫者さんであつた。その人のお母さんになる老媼を祀つたのがこの石の祠だといふ話で、つまりお祖母さんを屋敷の神樣として祀つてあるわけである。
 この祠の中がどうなつてゐるのか、いたづらだつた十四歳の私は一度石の扉をあけたいと思つてゐた。たしか春の日だつたと思ふ。人に見つかれば叱られるので、誰もゐない時恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらゐの大きさの、じつに綺麗な蠟石の珠が一つをさまつてゐた。その珠をことん(引用者注: 「ことん」に傍点)とはめ込むやうに石が彫つてあつた。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういふわけか中風で寢てからその珠をしよつちゆう撫でまはしてをつたさうだ。それで後にこのおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいゝといつて、孫に當る人がその祠の中に收めたのだとか。そのころとしてはずゐぶん新しい考へ方であつた。
 その美しい珠をそうつと覗いたとき、フーッと興奮してしまつて、何ともいへない妙な氣持になつて、どうしてさうしたのか今でもわからないが、私はしやがんだまゝよく晴れた靑い空を見上げたのだつた。するとお星樣が見えるのだ。今も鮮やかに覺えてゐるが、じつに澄み切つた靑い空で、そこにたしかに數十の星を見たのである。」
「今考へ直してみても、あれはたしかに異常心理だつたと思ふ。だれもゐない所で、御幣か鏡が入つてゐるんだらうと思つてあけたところ、そんなきれいな珠があつたので、非常に強く感動したものらしい。もしもだれかそこにもう一人、人がゐたら背中をどやされて眼をさまされたやうな、そんなぼんやりした氣分になつてゐるその時に、突然高い空で鵯がピーッと鳴いて通つた。さうしたらその拍子に身がギュッと引きしまつて、初めて人心地がついたのだつた。あの時に鵯が鳴かなかつたら、私はあのまゝ氣が變になつてゐたんぢやないかと思ふのである。」



「ヨナタマ(海靈)」より:

「沖繩では昔からシガリナミ(海嘯)の記憶が強いためか、この話が大海嘯(おほつなみ)に結びついて殘つてゐる。本島にも宮古の離島來間(くるま)にも殘つてゐるが、その中で有名なのは「宮古島舊史」に記録されてゐる話である。
 昔、伊良部島の下地といふ村の者がヨナタマといふ魚を釣つた。この魚は人のやうな顏をもつた魚で、よくものをいふ魚だと傳へられてゐた。漁師はあまり珍しいので、明日まで保存して人々に見せて樂しまうと思ひ、炭火をおこしこれを炙つて乾かしてゐた。ところがその晩おそくなつてから隣家に母親と泊つてゐた子供が、急に大聲で泣き出して、どうしても伊良部村へ歸らうといふ。夜半だからといつて、母親がいろいろとなだめすかしてもいつかうにきかず、ますます泣き叫ぶのだつた。仕方なく、母親は子供を抱いて外に出ると、どうしたことか、子供がしつかりと母親にしがみついてふるへてゐる。母親もどうしたのかと怪しく思つてゐると、遠い沖の方から、
 ヨナタマ、ヨナタマ、どうして歸りが遲いのか
といふ聲が聞えて來た。すると隣家の炭火の上で背中を炙られてゐたヨナタマが、
 今、炭火の上にのせられて半夜も炙り乾かされてゐるのだ。早く迎へをよこしてくれ
と答へてゐる。これをきいて母子は吃驚仰天し、恐ろしくなつて伊良部村に歸つた。翌朝、昨晩の村へ行つて見ると、一夜のうちに大海嘯にのまれて村中跡形もなく洗ひつくされてゐた。」
「ヨナタマの罰を受けて村中が流されてしまつたといふのは、ヨナタマは海靈ですなはち海の神の罰を受けたといふことで、このヨナタマからヨナが海といふ言葉と同じではなからうかと思ふのである。」



「ナライの風・ダシの風・アイの風」より:

「それから日本海岸に春から夏にかけて吹く風に、ダシといふのがある。海岸線に直角に陸地から沖へ吹く風で、ダシといふのは船を出す意味だらうと思ふ。
 もう一つ面白いのはアイの風といふのがある。(中略)これは海から陸に向つていろいろなものを打ちつけて來る風で、ダシとは反對の風である。アイまたはアユといふが、なぜアユといふのかよくは分らないが、ごちそうすることをアエルといつたり、饗應の饗をアエと訓む、あれと同じではないかと思ふ。海がいろいろの珍しいものを打寄せることをアユまたはアエルといふやうな用語があつて、それを約束する風であるゆゑにアユの風と名づけはじめたのではないか。」
「この風が吹けばうれしいことばかりで一方では船が入つて來る、砂濱にはいろいろの物が吹き寄せられて生活をうるほしてくれる、人々の喜ぶ風だつた。」
「昔は漂流物の拾得は今よりはるかに大きな生産事業であつたに違ひない。」



「海のロマンス」より:

「播磨灘を出て瀬戸内海を旅してみると、波打際まで木が生えてゐる島などがあつて、本當に昔がなつかしく偲ばれるのである。崖が崩れてゐれば崩れた際まで草木が靑く茂つてゐて、もし何かのはずみで海に流れ出るとそのまゝ流木となつてしまひ、しまひにはどこかに漂着する。流木といへば紀州の沖でも、山形、秋田あたりの沖でも聞く話だが、何年かに一遍ぐるつと囘つて來る流木があるといふ。年經てまはりに苔や藻が生え、それに小さな魚などがびつしりとついてゐる。小魚がついてゐるためか、それをまた鰹などの大きな魚の群が後から追ひかけてゐる。何處にも漂着しないらしく、たしかにあの木にちがひないと思ふ流木を見かけるといふ話であるが、この話など風と潮流の生んだ日本の海岸の一つのロマンスであらう。
 かういふ風や潮流に關係深い日本の平民生活の歴史を書くのには、どうしても本島だけでなく、小さな島々、例へば鹿兒島と奄美大島との間にある川邊十島などといふ小さな島のことなども調べてみなければならない。
 島とは名ばかりの、何にも生えない所で、人々は朝起きると必ず一ぺん島の周圍を見てまはるといふ所がある。親代々の一つの習性となつて朝毎に寄り物を探してゐるのである。たまには椰子の實なども流れついたこともあるらしく、琉球などでも貴重なものになつてゐる。よほど遠くから來るのであらうが、椰子の實の流れる區域はずつと北の、津輕海峡に流れついたことも記録に殘つてゐる。南の方では長崎縣のある有名な漁港で海底が淺くなつて困つたことがある。よく調べてみるとどこからか珊瑚礁のかけらが潮で運ばれて來て、少しづゝ溜つて港を淺くしたことが解つた。」



「木地師の葬法」より:

「明治四十四年、私は岐阜縣にゆき、木地屋の話をきゝながら歩いたことがあつた。郡上(ぐじよう)八幡に出て一泊した時、郡長が來て、私は警察上りで木地屋の山荒しにさんざん閉口した苦い經驗をもつてゐるといひながら、こんな事件の話をしてくれた。
 伊勢の宮川の下流で警察署長をしてゐた時に、ずつと上流のところで、アンペラのやうなムシロに包んだ死骸が一つ出て來た。上手に絡めてしばつてあり、そこに一つ小刀がさしてあつた。なかなか紐が解けなくて大變な犯罪事件といふことになつた。ところが一人ごく老功な警察官がゐて、
 「えゝ、こりや、あれぢやありませんよ、木地屋です」といつたとか。何故分つたかといふとそこが面白い。
 木地屋の葬法は普通とはちがつて棺桶を使はないらしい。アンペラのやうに綺麗に編んだムシロで屍體を包み、上を幾重にも括り、その上にお守りにサスガ(小刀)を一本つけて置く。その小刀を見れば木地屋かどうかといふことがすぐ判るのだといふ話であつた。木地屋の小刀は刃のつき方が普通とちがつてゐる。普通の人の使ふのは、こちらの右の下に刃がついてゐるのに、木地屋のは木材を刳りやすくするため、刃が左の下についてゐるから、すぐ見分けがつくといふのである。珍らしいことゝ思つて聞いたわけである。」



「河童考」より:

「後に内閣文庫を探してゐたら、同じ水虎考略といひながら四冊本になつたのが見つかつた。一冊はもとのそれを入れ、あとの三冊は九州の書生さんが、興に乘じて方々からの話を集めたもので、書翰體になつてゐた。多くは九州の話だつたが、それは面白い本であつた。九州のは群をなしてゐて、一匹で獨立してゐるのはない。極端な場合には馬の足型だけの水溜りがあれば千匹もゐるなどといふことまでいふ。とにかく狹い所に群をなしてゐるものらしい。東北もしくは關東地方もさうだがこちらは一つ一つ獨立してゐて大變違つてゐた。」


「亥の子」より:

「私の子供のころ播州では亥の子といふ行事が盛んであつた。」
「新藁で束を拵へ、その中に竹とか茗荷などの、中の虚ろな生の植物を堅く卷き込み、それに取手の輪をつけた「スボ」といふものを作る。子供たちはみなこれをもつて、調子をそろへてぽおーんぽおーんと地面を叩く。中には植物が入つてゐるのでよけいに良い音がひゞいて、子供たちは自然に興奮してしまふのだつた。
 「亥の子餅くれんこ、くれん家の嬶は、鬼うめ、蛇うめ、角のはえた子うめ」
 さう歌ひながら村の道を練るわけであつた。」



「來世觀」より:

「日本人の信仰のいちばん主な點は私は生れ更りといふことではないかと考へてゐる。」


「車兒(くるまご)」より:

「もとは小學校などで、子供達が頭を互ひに見せ合つて、眞中にギリギリ(つむじ)が二つあると、二度生れた、生れ更りだといひあつたものである。」
「たびたび生れ更る觀念としてはクルマゴ(車兒)といふことがある。子供が生れて一年たゝないうちに死んで、その翌年また生れることがあると、かういふことをクルマゴといふ。中にはクルマゴ十二人目だなんて話もあるほどで、(中略)生れても氣に入らんからまた歸つて、また出直す、さういふクルクルまはつて生れて來るのが、クルマゴと呼ばれる理由にほかならない。(中略)これは生れ更りといふことを誰もごく普通にみてゐたことがよく分る。」



「泉鏡花」より:

「大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが「おい上らないか」と呼んだので、窓に手をかけ一氣に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないので、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思ひ込むやうになつてしまつた。泉君の「湯島詣」といふ小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方「あんないゝ氣持になつた時はなかつたね」などといつてくれたので、こちらもつい嬉しくなつて暇さへあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以來、學校を出てから後も、ずつと交際してきたのである。」


「「山の人生」」より:

「私が法制局の參事官になつたのは、明治三十五年の二月で、大正三年までゐたのだから、私のいちばん若い盛りの時をそこで過したわけである。仕事としてはどれもみな威張つたり、得意になつたりするのに足るやうなものばかりであつたが、たつた一つだけ、皆の嫌ふ仕事があつた。それは特赦に關する事務を扱ふことであつた。
 大赦の方は一律に何々の罪の者は赦すといふお觸れが一つ出れば、それでいゝのだからことは簡單であるが、これに反して特赦の方は個々の犯罪自身をよく調べて、再犯のおそれがないとか、情状酌量をするとか、一つ一つ定まつた標準に照らしてみなければならない。だから關係資料を年百年中讀んでゐなければならないし、時によると新規に出來た政府の方針で、少し特赦にしてみようなどゝいふ氣持に副つてことを處理しなければならぬことがある。それでいつも新參の參事官に押しつける習慣になつてゐた。ところが私だけはそれを面白がつて、いつまでもその仕事をやつてゐて他人にまはさうとしなかつた。
 文字を早く讀むことに馴れてゐたので、私としてはそんなにこの仕事を重荷に思はなかつたせゐもあるが、それよりも私は内容そのものに興味をもつたのである。事件の内容そのものに心をひかれて、もとの豫審調書からみていつた。一つの事件が、六寸とか八寸とか、たまには一尺近い厚さにとぢてあつたものもある。それをみてゆくのであるから、興味のない者には嫌な仕事であつたが、私は好きなために熱心に眼を通した。そして面白い話を知ると、どうしても他人に話したくて仕方がなくなるものである。
 私に「山の人生」といふ本がある。何故書かれたか、主旨がどうも分らないといつた人があるが、無理もない話で、じつは法制局で知つた珍しい話を喋りたくてたまらないものだから、そんな本を書きはじめたわけであつた。」
「「山に埋もれたる人生ある事」といふ題で、私のいちばん印象の深かつた人殺しの刑事事件を二つ續けて書いたのであるが、本の終りには「山男」といふものゝ研究は人類學上必要だといふことを書いたので、二つの別々の要素が「山の人生」といふ一つの本にまとめられてゐるため、讀む人に不思議な感を與へたのである。
 第一の話は、かつて非常な饑饉の年に、西美濃の山の中で炭を燒く男が、子供二人を鉞(まさかり)できり殺したことがあつた。自分の男の子と、どういふものか一人は育ててゐた小娘でともに十二、三歳になる子供であつた。炭は賣れず、里に行つても一合の米も手に入らない。最後の日にも手ぶらで歸つてきて、飢ゑきつてゐる子供の顏を見るのがつらさに、小屋の奧へ行つて晝寢をしてしまつた。眼がさめてみると、小屋の口いつぱいに夕日がさしてゐた。秋の末のことであつたといふ。二人の子供がその日當りの所にしやがんで一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いてゐた。そして「もう死にたいからこれで殺してくれ」といつたさうである。そして小屋の入口の敷居の上を枕にして臥たさうである。親の方はくらくらして、何の考へもなく二人の首をきつてしまつた。その後でおそろしくなり、死ぬことができなくて、一人で里へ降りて自首したといふのである。じつに悲慘な話でこれくらゐ私の心を動かした特赦事件はなかつた。
 同じ頃、先の話と同じやうな悲しい事件がもう一つあつた。九州の或村の女が、ある男と大變仲良くなつたが親が許さぬので二人で逃げた。どうにか世の中へ出てみたが、病氣をしたり、いろいろ不幸にあつたりして貧乏のために食へなくなつた。子供も出來たが、どうしやうもないので、恥を忍んで非常な山の中の生れ故郷へ歸つて行つた。しかし身寄りの者は死んでゐないし、笑ひ嘲ける人ばかり多かつた。すごすごとまた町に歸らうとしたが、男は病身でとても働ける身込みはなかつた。子供を負ぶつて引返して來る山道で、下に瀧が落ちてゐるところへ來かゝつた。夫婦で、もう世の中へ歸つたつて仕方がないから、三人で死なうぢやないかと、三人の身體を帶で一つに縛つて、瀧壺に向つて思ひ切つて飛び込んでしまつた。ところが女だけが水の中へ落ち込んだものらしく、しばらくして生き返つてしまつた。助かつて岸に上つてみると、亭主の方も死に損つたと見え、もう一度首をくゝつて死んでゐた。小さい子供は崖の途中の樹のてつぺんに引つ掛つて死んでゐた。つまり落ち方が良かつたのか、惡かつたのか、後の二人が死んでゐるのに、自分だけ助かつてゐたといふわけである。
 その時の心理はわれわれには判らないが、やはり當人はもう死にたくなくなるものらしく、一人で自首して出た。子供は無意志なので殺人罪が成り立ち、何でも十二年といふ長い刑に處せられた。しかしあまりにも品行が正しくて殊勝だし、環境も憐むべきものであり、再犯のおそれは無論ないから、特赦にしてやつてくれといつて、私から印を捺して申し出た。」
「この二つの犯罪を見ると、まことに可哀想な事實であつた。私は誰かに話したくて、舊友の田山花袋に話したが、そんなことは滅多にない話で、餘り奇抜すぎるし、事實が深刻なので、文學とか小説とかに出來ないといつて、聞き流してしまつた。」



「南方熊楠先生」より:

「大勢の人とつきあつて來たが、その中でも紀州の南方熊楠といふ學者は變つてゐた。」
「明治四十四年の春先、親友の松本烝治が、どこかへ旅行しようといひ出したので、紀州方面へ行つて南方氏を訪ねて見ようといふことになつた。乘物がまだ不自由なころで、大阪から人力車を傭つて田邊まで行つた。東京からお目にかゝりに來ましたといつて訪ねて行つたが、會つてくれない。そして細君を通じて「何れこちらから伺ふ」といふ返事であつた。夕食を濟まして大分經つてから、もう來さうなものだといつてゐると、女中がいえもう見えてゐるのです。しかし初めての人に會ふのはきまりが惡いからといつて、帳場で酒を飲んでいらつしやるのですといふことであつた。そのうち、すつかり醉つぱらつてやつて來た。少し酒が入ると面倒になるらしく、松本を見て、こいつの親爺は知つてゐる、松本莊一郎で、いつか撲つたことがあるといふやうなことをいひ出した。よく撲つたといふ癖があるらしいが、松本はたゞ苦笑ひをしてゐた。感心なことには、いつまで飲んでも同じことは一囘もくり返さなかつたことである。しかしこのときは大切な學問上のことは何もいはなかつた。
 一晩しか泊れないので、翌日挨拶に私一人で行くと、細君が困つた顏をしてゐる。そして僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顏を出したつて仕方がない、話さへできればいゝだらうといつて、搔卷(かいまき)の袖口をあけてその奧から話をした。こんなふうにとにかく變つた人であつた。年百年中、裸で暮してゐた。」



「生家にあつた子供の本」より:

「その他に妙な本があつた。八犬傳の原本でその第六篇ではなかつたかと思ふ。舟蟲といふ女の出て來る所からはじまつて、十冊だか八冊かあつた。それを何遍讀んだかわからない。」


「藤村の詩「椰子の實」」より:

「僕が二十一の頃だつたか、(中略)少し身體を惡くして三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖崎に一ヶ月靜養してゐたことがある。
 海岸を散歩すると、椰子の實が流れて來るのを見附けることがある。暴風のあつた翌朝など殊にそれが多い。椰子の實と、それから藻玉(もだま)といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一つの鞘に繋つて漂着して居る。シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでいぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。それが伊良湖岬へ、南の海の果てから流れて來る。殊に椰子の流れて來るのは實に嬉しかつた。一つは壊れて流れて來たが、一つの方はそのまま完全な姿で流れついて來た。
 東京へ歸つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでたものだから、歸つて來るなり直ぐ私はその話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といふことになつた。明治二十八年か九年か、一寸はつきりしないが、まだ大學に居るころだつた。するとそれが、非常に吟じ易い歌になつて、島崎君の新體詩といふと、必ずそれが人の口の端に上るといふやうなことになつてしまつた。
 この間も若山牧水の一番好いお弟子の大悟法(だいごぼふ)君といふのがやつて來て、「あんたが藤村に話してやつたつて本當ですか」と聞くものだから、初めてこの昔話を發表したわけであつた。」






















































































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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