柳田国男 『遠野物語』 (新潮文庫)

「おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも」
(柳田国男)


柳田国男 
『遠野物語』
 
新潮文庫 2146/草 四七 A 

新潮社
昭和48年9月30日 発行
昭和54年8月10日 14刷
228p 「文字づかいについて」1p 
巻頭折込地図1葉
文庫判 並装 カバー
定価220円
カバー: 田渕俊夫



「遠野物語」本文と「初版序文」は「文語文」なので新字・旧かな、昭和10年の再版時に追加された「再版覚書」、「遠野物語拾遺」、折口信夫による「後記」は「口語文」なので新字・新かな表記です。
「遠野物語」中に図3点。


柳田国男 遠野物語 01


カバー裏文:

「日本民俗学のメッカ遠野郷は現在の岩手県遠野市周辺にあたる。本書は、その遠野地方に、今なお語り伝えられている山男、山女、天狗、オシラサマ、オクナイサマなどの民間信仰、異聞怪談に視点をあて採集整理したもので、特異な素材と流麗な文体によって物語の幻想的世界にまで達している――。日本民俗学の先駆者柳田国男の愛と情熱が行間に溢れる民俗洞察の書である。」


目次:

初版序文
再版覚書

遠野物語
遠野物語拾遺

後記 (折口信夫)
解説 (山本健吉)
年譜
索引



柳田国男 遠野物語 02



◆本書より◆


「初版序文」より:

「此(この)話はすべて遠野(とほの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪(たづ)ね来(きた)り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじようず)には非(あら)ざれども誠実なる人なり。自分も亦(また)一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷(ごう)には此類の物語猶(なほ)数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之(これ)を語りて平地人を戦慄(せんりつ)せしめよ。此書の如(ごと)きは陳勝呉広(ちんしようごこう)のみ。」


「遠野物語」より:

 山々の奥には山人住めり。栃内(とちない)村和野(わの)の佐々木嘉兵衛(かへえ)と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此(この)翁(おきな)若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遙(はる)かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳(くしけづ)りて居たり。顔の色極(きは)めて白し。不敵の男なれば直(ただち)に銃(つつ)を差し向けて打ち放せしに弾(たま)に応じて倒れたり。其処(そこ)に馳(か)け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験(しるし)にせばやと思ひて其髪をいさゝか切り取り、之を綰(わが)ねて懐(ふところ)に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程(ほど)にて耐へ難く睡眠を催しければ、暫(しばら)く物蔭(ものかげ)に立寄りてまどろみたり。其間夢と現(うつつ)との境のやうなる時に、是(これ)も丈(たけ)の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽(たちま)ち睡(ねむり)は覚めたり。山男なるべしと云へり。」

 黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)と云ふ所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまゝ行方(ゆくへ)を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集(あつま)りてありし処へ、極めて老いさらぼひて其女帰り来れり。如何(いか)にして帰つて来たかと問へば人々に逢ひたかりし故帰りしなり。さらば又行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。其日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆(ばばあ)が帰つて来さうな日なりと云ふ。」

一八 ザシキワラシ又女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりといふことを久しく言伝へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴(みな)れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方(こなた)へ来(きた)る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。此(これ)から何処(どこ)へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍〃(やや)離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も亦(また)年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。」
二〇 此兇変(きようへん)の前には色々の前兆ありき。男ども刈置(かりお)きたる秣(まぐさ)を出すとて三ツ歯の鍬(くは)にて掻(か)きまはせしに、大なる蛇(へび)を見出(みいだ)したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣(あじか)に何荷(なんが)とも無くありたりといへり。」

二二 佐々木氏の曽祖母(そうそぼ)年よりて死去せし時、棺に取納め親族の者集り来て其夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心の為離縁せられたる婦人も亦(また)其中に在りき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡(いろり)の両側に坐り、母人は旁(かたはら)に炭籠(すみかご)を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡(な)くなりし老女なり。平生腰かゞみて衣物の裾(すそ)の引ずるを、三角に取上げて前に縫附けてありしが、まざまざとその通りにて、縞目(しまめ)にも見覚えあり。あなやと思ふ間も無く、二人の女の坐れる炉の脇(わき)を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打臥(うちふ)したる座敷の方へ近より行くと思ふ程に、かの狂女のけたゝましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。其余の人々は此声に睡(ねむり)を覚(さま)し只(ただ)打驚くばかりなりしと云へり。
    *マーテルリンクの「侵入者」を想ひ起さしむ。」

五五 川には川童(かつぱ)多く住めり。猿(さる)ヶ石川(いしがは)殊(こと)に多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕(はら)みたる者あり。生れし子は斬(き)り刻みて一升樽(だる)に入れ、土中に埋めたり。其形極(きは)めて醜怪なるものなりき。女の壻(むこ)の里は新張(にひばり)村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人に其始終を語れり。かの家の者一同ある日畠(はたけ)に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀(みぎは)に踞(うづくま)りてにこにこと笑ひてあり。次の日は昼の休に亦(また)此事あり。斯(か)くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり。始めには壻が浜の方へ駄賃附(だちんづけ)に行きたる留守をのみ窺(うかが)ひたりしが、後には壻と寝たる夜さへ来るやうになれり。川童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集りて之(これ)を守れども何の甲斐(かひ)も無く、壻の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何(いか)にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽(うまふね)に水をたゝへ其中にて産(う)まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水掻(みづかき)あり。此娘の母も亦曽(かつ)て川童の子を産みしことありと云ふ。」

六三 小国(をぐに)の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ろどん)なりき。この妻ある日門(かど)の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗(ふき)を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝(いぶか)しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き雞(にはとり)多く遊べり。其庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舎(うまや)ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終(つひ)に玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀(ぜんわん)をあまた取出したり。奥の座敷には火鉢(ひばち)ありて鉄瓶(てつびん)の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしや山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。(中略)遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。」

六九 今の土淵村には大同(だいどう)と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おほほらまんのじよう)と云ふ。此(この)人の養母名はおひで、八十を超(こ)えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇(へび)を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、終(つひ)に馬と夫婦に成れり。或(ある)夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて泣きゐたりしを、父は之(これ)を悪(にく)みて斧(をの)を以て後より馬の首を切り落せしに、忽(たちま)ち娘は其首に乗りたるまゝ天に昇り去れり。オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。」

九九 土淵(つちぶち)村の助役北川清と云ふ人の家は字火石(あざひいし)に在り。(中略)清の弟に福二と云ふ人は海岸の田ノ浜へ壻(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おほつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出(い)でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪(なみ)の打つ渚(なぎさ)なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々(はるばる)と船越(ふなこし)村の方へ行く崎の洞(ほら)ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此(これ)も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が壻に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此(この)人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛(かはい)くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言うとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(をうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩(わづら)ひたりと云へり。」

一〇一 旅人豊間根(とよまね)村を過ぎ、夜更(よふ)け疲れたれば、知音(ちいん)の者の家に燈火の見ゆるを幸(さいはひ)に、入りて休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何(いか)にせんかと思ひし所なり、暫(しばら)くの間頼むと云ひて主人は人を喚(よ)びに行きたり。迷惑千万(せんばん)なる話なれど是非も無く、囲炉裡(いろり)の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむくむくと起直る。胆(きも)潰(つぶ)れたれど心を鎮(しづ)め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐の如(ごと)き物あり、面(つら)をさし入れて頻(しきり)に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め窃(ひそ)かに家の外に出で、背戸(せど)の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立(つまだ)てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之(これ)を打ち殺したり。」

一〇六 海岸の山田にては蜃気楼(しんきろう)年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ。見馴(みな)れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年毎(としごと)に家の形など聊(いささか)も違うこと無しと云へり。」

一一一 山口、飯豊(いひで)、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡(ひわたり)、青笹(あをざさ)の字中沢並に土淵村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず蓮台野と云ふ地あり。昔は六十を超(こ)えたる老人はすべて此(この)蓮台野へ追ひ遣(や)るの習(ならひ)ありき。老人は徒(いたづら)に死んで了(しま)ふこともならぬ故(ゆゑ)に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。その為に今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。」

一一七 昔々これもある所にトゝとガゝと、娘の嫁に行く支度(したく)を買ひに町へ出で行くとて戸を鎖(とざ)し、誰が来ても明けるなよ、はァと答へたれば出でたり。昼の頃ヤマハゝ来(きた)りて娘を取りて食ひ、娘の皮を被(かぶ)り娘になりて居る。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門(かど)の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ来たりし色々の支度の物を見せて娘の悦(よろこ)ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鶏羽ばたきして、糠屋(ぬかや)の隅(すみ)ッ子見ろぢや、けゝうと啼(な)く。はて常に変りたる鶏の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハゝのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするとき又啼く。其声は、おりこひめこを載せなえでヤマハゝのせた、けゝうと聞ゆ。之を繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハゝを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。」



「遠野物語拾遺」より:

二九 鱒沢(ますざわ)村のお鍋(なべ)が淵というのも、やはり同じ猿ヶ石川の流れにある淵である。昔阿曽沼家(あそぬまけ)の時代に此(この)村の領主の妾(めかけ)が、主人の戦死を聞いて幼な子を抱(かか)えて、入水して死んだ処と言い伝えて居る。淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などには其(その)岩の上に、白い衣裳(いしょう)の婦人が現われて、髪を梳(す)いて居るのを見ることがあった。今から二十五年前程の大水の際にも、之(これ)を見た者が二三人もあった。

三〇 小友(おとも)村字上鮎貝(かみあゆかい)に、上鮎貝という家がある。此家全盛の頃の事という。家におせんという下女が居た。おせんは毎日々々後の山に往って居たが、其うちに還って来なくなった。此女にはまだ乳を飲む児があって、母を慕うて泣くので、山の麓(ふもと)に連れて行って置くと、折々出ては乳を飲ませた。それが何日かを過ぎて後は、子供を連れて行っても出なくなった。そうして遠くの方から、おれは蛇体(じゃたい)になったから、いくら自分の生んだ児でも、人間を見ると食いたくなる。最早(もはや)二度と爰(ここ)へは連れて来るなと言った。そうして乳飲児(ちのみご)ももう行きたがらなくなった。それから二十日ばかりすると、大雨風があって洪水が出た。上鮎貝の家は本屋と小屋との間が川になってしまった。其時おせんは其出水に乗って、蛇体となって小友川に流れ出て、氷口(すがくち)の淵で元の女の姿になって見せたが、忽(たちま)ち又水の底に沈んでしまったそうである。それから其淵をおせんが淵と謂(い)い、おせんの入った山をば蛇洞(じゃどう)と謂う。上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎と謂う。蛇洞には今尚(なお)小沼が残って居る位だから、そう古い時代の話では無かろうとは、同じ村の松田新五郎氏の談である。

三一 前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。其石の上へ時々女が現われ、又沼の中では機(はた)を織る梭(ひ)の音がしたという話であるが、今はどうか知らぬ。元禄(げんろく)頃のことらしくいうが、時の殿様に松川姫という美しい姫君があった。年頃になってから軽い咳(せき)の出る病気で、兎角(とかく)ふさいでばかり居られたが、或時突然と此沼を見に行きたいと言われる。家来や侍女が幾ら止めても聴入れずに、駕籠(かご)に乗って此沼の岸に来て、笑(え)みを含みつつ立って見て居られたが、いきなり水の中に沈んでしまった。そうして駕籠の中には蛇(じゃ)の鱗(うろこ)を残して行ったとも物語られる。」

一八〇 数年前、栗橋村分(ぶん)の長根という部落でヒラクゾの某という若い娘が、畑の草を取って居ながら、何事か嬉しそうに独言(ひとりごと)を言って笑って居るので、一緒に行った者が気を附けて見て居ると、何か柴(しば)のような物が娘の内股(うちまた)の辺で頭を突き上げて動いて居る。それは山かがしであったから、人を呼んで打ち殺したと謂う。」

二〇三 遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来て居た。或日生家に還(かえ)ろうとして、町はずれの鶯崎(うぐいすざき)にさしかかると、土橋の上に一疋(ぴき)の狐が居て、夢中になって川を覗(のぞ)き込んで居る。忍び足をして静かに其傍(そば)へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳(は)ね上がり、川の中に飛びこんで遁(に)げて行った。勇吉は独笑(ひとりわら)いをしながらあるいて居ると、俄(にわ)かに日が暮れて路が真闇(まっくら)になる。是は不思議だ、まだ日の暮れるには早過ぎる。是は気を附けなくては飛んだ目に遭(あ)うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んで居た。そうすると其処(そこ)へ人が通りかかって、お前は何をして居る。狐に誑(たぶらか)されて居るのでは無いか。さあ俺と一緒にあべと言う。ほんとにと思って其人に附いてあるいて居ると、何だか体中が妙につめたい。と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡(ぬ)れに濡れて居りおまけに懐には馬の糞(ふん)が入れてあって、同行の人はもう居なかったという。」




こちらもご参照下さい:

佐々木喜善 『聴耳草紙』 (ちくま文庫)
























































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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