『定本 柳田國男集 第二十七卷 後狩詞記 山島民譚集 他』 (新裝版)

「我々の祖先がまだ荒野の小動物の如く無力であつた頃、最も自然なる危害の囘避法は、只ぢつとして潜んで居ることであつた。小鳥や兎などには依然として此風がある。蜘蛛なども手を觸れるとすぐにさうする。又人間の子供でも恐ろしい物には目をつぶり身を潜めるやうな擧動が自然に現はれる。殊に外部の危害が奮鬪して克ち、奔つて遁げ避けること能はざる過大なもの、目に見え遠く望むことの出來ぬものに對しては、出來るだけ靜かに小さくなつて居て、それを遣り過さうとしたのは動物以来の智能であつた。」
(柳田國男 「忌と物忌の話」 より)


『定本 柳田國男集 
第二十七卷 (新裝版)』

後狩詞記 山島民譚集 他

筑摩書房 
昭和45年8月20日 第1刷発行
452p 目次2p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 27 (8p):
叔父柳田國男への回想(木越二郎)/終戦のころ(丸山久子)/俳諧(市原豊太)/柳田先生と赤米の蒐集(浜田秀男)/柳叟先生と連句(一)(宇田零雨)/次回配本



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


本書「あとがき」より:

「○「後狩詞記」は、明治四十二年三月、非賣品として自版されたものである。後昭和二十六年十月、實業之日本社より、著者の喜壽記念として覆刊された。
○「山島民譚集(一)」は、大正三年七月、甲寅叢書の第三冊として甲寅叢書刊行所より發行。後昭和十七年十一月、創元社から再版序を加えて日本文化名著選の一冊として再刊。
○「山島民譚集(二)」は、未刊の自筆稿本である。」



本文中図版14点。


柳田国男集 二十七


内容 (初出):

後狩詞記――日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實
 序
 土地の名目
 狩ことば
 狩の作法
 色々の口傳
 附録

山島民譚集(一)
 小序
 再版序
 河童駒引
 馬蹄石

山島民譚集(二) (草案稿本)
 第三 大太法師
 第四 姥神
 第五 榎の杖
 第六 八百比丘尼

俗聖沿革史 (大正十年一月~五月、中央佛教五卷一號~五號)
 一 三州の俗聖
 二 阿彌陀の聖
 三 勸進聖
 四 勸進の元祖と末流
 五 廻國聖と遊行聖
 六 高野聖
 七 高野聖と呉服聖
 八 三昧聖
 九 鉦打と謂ふヒジリ
 一〇 遊行上人と鉦打
 一一 鉦打の鉦
 一二 遊行派と空也派
賽の河原の話 (大正十一年四月、中央佛教六卷四號)
子安の石像 (明治四十四年七月、考古學雜誌一卷十一號)
地藏の新和讃 (大正二年四月、郷土研究一卷二號)
地藏殿の苗字 (大正二年六月、郷土研究一卷四號)
水引地藏 (大正二年十一月、郷土研究一卷九號)
廻り地藏 (大正三年五月、郷土研究二卷三號)
子安地藏 (大正三年八月、郷土研究二卷六號)
黑地藏白地藏 (大正四年一月、郷土研究二卷十一號)
掛神の信仰に就て (明治四十四年十一月、佛教史學一編八號)
忌と物忌の話 (昭和八年五月、土の香五十號)
勝善神 (明治四十五年六月、考古學雜誌二卷十號)
猿廻しの話 (大正九年一月、教育畫報九卷五號)
繪馬と馬 (昭和五年一月八日、アサヒグラフ十四卷二號)
板繪沿革 (昭和十六年五月、造形藝術三卷五號)
龍王と水の神 (昭和十六年十月、國學院雜誌四十七卷十號)
片葉蘆考 (大正三年六月、郷土研究二卷四號)
諸國の片葉の蘆 (大正五年一月、郷土研究三卷十號)
七難の揃毛 (大正六年三月、郷土研究四卷十二號)
民俗覺書 (昭和十二年十月、多磨五卷十號)
所謂特殊部落ノ種類 (大正二年五月、國家學會雜誌二十七卷五號)
木地屋物語 (明治四十四年一月、文章世界六卷一號)
木地屋土着の一二例 (大正二年五月、郷土研究一卷五號)
マタギと云ふ部落 (大正五年十二月、郷土研究四卷九號)
竹籠を作る者 (大正二年十二月、郷土研究一卷十號)

郷土研究小篇 (二十三篇)
 上野中之條の口碑 (大正三年四月、郷土研究二卷二號)
 ツク舞について (大正三年八月、郷土研究二卷六號)
 高見山近傍の口碑 (大正五年五月、郷土研究四卷二號)
 淀橋の橋姫祭 (大正二年十二月、郷土研究一卷十號)
 上げ山の風習 (大正五年五月、郷土研究四卷二號)
 蛙の居らぬ池 (大正五年二月、郷土研究三卷十一號)
 鯨の位牌の話 (大正二年四月、郷土研究一卷二號)
 馬力神 (大正二年十月、郷土研究一卷八號)
 隣の姥 (大正三年四月、郷土研究二卷二號)
 京都の耳塚の史實 (大正六年三月、郷土研究四卷十二號)
 坐頭制度の末路 (大正三年九月、郷土研究二卷七號)
 白い鷄 (大正三年十月、郷土研究二卷八號)
 神符降臨の話 (大正四年六月、郷土研究三卷四號)
 三家分流の古傳 (大正四年七月、郷土研究三卷五號)
 木曾山中の境塚 (大正四年八月、郷土研究三卷六號)
 御札降り年代記 (大正四年十月、郷土研究三卷八號)
 鮭と兄弟と (大正五年十月、郷土研究四卷七號)
 小さな峠の上から (大正五年三月、郷土研究三卷十二號)
 沓掛の信仰 (大正六年三月、郷土研究四卷十二號)
 人丸の社 (大正六年三月、郷土研究四卷十二號)
 神佛を盗むこと (大正六年三月、郷土研究四卷十二號)

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「地藏の新和讃」より:

「此頃牛込邊へ來る親子伴三人の女乞食は、かの二本榎の親子地藏の縁起を和讃にして諷つて來る。今迄は何の氣も附かずに、大慈大悲の地藏尊惡趣に出現なしたまひ云々の昔からの物かと思つて居たが、よく聞くと斯んなことを言つて居る。頃は明治の四十二年、霜月二十日の夜半とかや、噂も高輪ほど近き、二本榎の何とかにと言ふのである。さても此和讃は誰が作つたものか。又如何にして乙女乞食にそれを諷はせるに至つたか。東京にもまだ妙な世界がある。田舎の諸君は御存知もあるまいが、二本榎の話と云ふのは、たしか船長をしてゐる主人の留守に、其家に來て妻子五人を慘殺した者があつた。主人は悲歎の餘りに五體の石地藏を造つて供養をしたのである。其が和讃になつて新しい哀傷を催すのはまだ此菩薩の法力の衰へない證據である。」


「忌と物忌の話」より:

「兎も角も是れだけの材料によつても忌といふ語の古い心持は大よそは推測し得られる。即ち普通人の普通にして居る事を、特に志す所あつて避けるのが忌である。避けなければ災が身に及び、又は弘く人の世に及ぶことを恐れたる戒愼である。もう少し今風に説明するならば人間の生活には屡〃遭遇し、又方法を以て之を免れ得る不時の災害の原因を、斯ういふ行爲不行爲に在るものゝ如く、解して居た時代が曾てあつたのである。從うて人が此種の苦しい手段によつて、其の災害を避けようとしたのであつた。等しく人類の欲求ではあるが、是はまじなひや唱へごとの積極的に好事の出現を招致せんとしたのとは正反對に、只ぢつとして居て凶事の不出現を期し望んだのであつた。此の如き風習の起原は、率直に物を考へる人ならば容易く之を見つけることが出來る。我々の祖先がまだ荒野の小動物の如く無力であつた頃、最も自然なる危害の囘避法は、只ぢつとして潜んで居ることであつた。小鳥や兎などには依然として此風がある。蜘蛛なども手を觸れるとすぐにさうする。又人間の子供でも恐ろしい物には目をつぶり身を潜めるやうな擧動が自然に現はれる。殊に外部の危害が奮鬪して克ち、奔つて遁げ避けること能はざる過大なもの、目に見え遠く望むことの出來ぬものに對しては、出來るだけ靜かに小さくなつて居て、それを遣り過さうとしたのは動物以来の智能であつた。」


「繪馬と馬」より:

「馬で無いエマには一體どういふものがあるか。最も普通に誰でも知つて居るのは、目薬屋の看板と共通な御藥師堂の眼の額、平假字の「め」の字を左右から八つ、又は十二も書いた印象的なものもある。
 足利の水使さまなどの下の病を禱るエマは、全面に女の帶から下を畫いて居る。あるひは同處大手神社には手だけを描いたエマもある。あるひはこれを繪で無しに、木彫にして納めて居る例がある。男鹿の赤神山の山門などでは、仁王の石像も埋もれるばかりに、木で作つた無數の手と足とが持つて來て積んである。
 西洋でもカトリックの古い寺院に蠟細工の手足や乳房などを、盛んに奉納してあるのは同じ目的で、何れも其部分に病苦のある者が、斯うすればよくなるものと信じてすることである。(中略)「納め奉る」が決して贈呈の意味で無かつたことは、單にこれだけの例からでも想像することが出來る。」



「板繪沿革」より:

「蛇の祟りだといふと蛇の畫をかくのみか、時としては其まん中に色靑ざめた娘の姿をかき、殺生の罰だといふときは水中の魚などを數多寫生に描いて額にして上げる。つまりは現在切に心の中に思ひ惱むことを、其ままに繪にして置けば人ばかりか、神樣佛樣をも動かすだらうと思つて居たのである。」

「人が心の中の思ひを力強くする爲に、之を繪にして永く殘る形にして置かうとすることは、獨り繪馬だけではなく、繪といふものゝ全般の起原であつたかも知れぬ。」

「それから最後に今一つ、忘れ難い逸話がある。是は福島縣の海に近い農村で、或男が稻刈りに出て居て手負猪に襲はれたことがあつた。其時他の男女は皆樹に登つて避けたが、たつた一人遁げそこなつて溝の中に突伏し、牙でしたゝかに臀を切られた。漸く療治をして疵は治つたが、其時の打撃からすつかり元氣を失ひ、久しくぶらぶらとして居たさうである。其男が自分で考へ出して繪師を賴み、大きな繪馬をかゝせて村の社に納めたのは、富士の卷狩で仁田四郎忠常が、野猪の背に乘つて劍を以て退治する所であつたといふ。その心持は私にもほゞわかるやうに思つた。
 繪馬を神に上げたいと思ふ動機と、今でも小説に挿畫を入れ、物語を舞にまふやうな風習とは、本來は一つの起りではなかつたらうか。言葉はまだ我々の心の中のものを、同じ強さではつきりと言ひあらはすことが出來ない。人に效果が無いことは神樣にも亦屆かぬかも知れぬ。それを補充し又は代表するのが古い世から行はれた繪馬では無かつたらうか。板に繪を描いて納めて、馬を獻上したつもりになれないことは、昔の人でも知つて居たらう。寧ろ力が許すならば、馬でもさし上げようものといふ心持を、斯うして畫にして少しでも有效にしたのでは無いか。」



「木地屋物語」より:

「風が吹けば家に居り波が高ければ岸を去る平地の我々に取つて、動くのは心ばかりのやうに思はれるが山の中へ行けば雲が峯を渡り水が流れて里へ出るのも極めて顯著なる事實である、動かざること山の如しとは云ふけれども山の中では物が皆動いて居る、其中でも人はよく動く、鳥獸は元の在處に歸るが人は永久に去年の小屋を見棄て行く、數千年來定住を求め(中略)た我々であるけれどもまだ身の中には制し難い漂泊性がある、(中略)炭燒木挽が同じ山で二囘の活計を立てることは先づ珍しい、谷川で岩魚を釣る人は小さい所帶を背負て歩行き到る處の樹の蔭に寢るのである、内田貢氏の話に或人は深山の谿間で妻子を連れた釣人を見た、木の下で子供に本を教へて居たと云ふ、彼等にも村と家とがあるのかは知らぬが其生活はよほどジプシイに似て居る、伊能嘉矩氏の話では早池峯山の中腹には岩穴に小屋を掛けて住んで居る者があつた、暫くして行つて見たら殘らず立退いて居た、又今西龍君の郷里美濃の揖斐郡の池田地方では毎年冬になると間の山の乞食と云ふ者が何處からとも無く遣つて來た、此者は只の物貰ひと違ひ食物の外家具でも衣類でも何でも欲しがる故に色々な物ねだりをする子供を丸で間の山の乞食のやうだと云つたさうである、間の山とは近江境などの山地のことであらうか、自分の思ふには此乞食は多分木地屋であらう、深山で雪の深い爲に仕事をすることが出來ず、冬の間は出て來て人の惠を求める者もあるのであらう、木地屋の本國は近江の南境の山であるが近代は全國の隅々迄も分散して、中には歸ることを忘れてしまつた者が多い、もとは決して賤民では無いが彼等も時としては自分の由緒を記憶して居らぬ、況や平地の人には此珍しい生活の片端をも知らぬ者が多いであらう、玆に私の知つて居る限を話して見よう、冬の夜には似つかはしい物語である。」

「馬鹿なことを言ふやうであるが、自分はつくづくと髭が生えて居るのが殘念に思ふ、諸國の木地屋はきつと珍しい深山の見聞を澤山に持つて居るに違ないが、折角暇を潰し骨を折つて山中に入り彼等の在處を突き止めても、彼等は恐くは永年の習慣の惰性で隱れまはつて逢つて呉れぬであらう、又漸くの事で彼等と爐の縁で對坐する機會があつても或は苦笑し或はもじもじして何も話しては呉れぬであらう、天地寥廓たる冬の夜などに彼等が聞いた瀧の音風の音の神秘は我々に取つては殆とゼネガムビヤの古傳説と同じ位に縁遠いものである、實際何十代の山の中の生活の間には如何に鷹揚な彼等にも傳へずには居られぬ色々の不思議があつたらう、又彼等には不思議とも思はぬやうな有りふれた事柄でもきつと氣の遠くなる程耳新しい話が澤山あるに違ないが殆と聞き出す手段が無い、實際彼等の面會する人又は物の中でボタンの附いた筒袖を着て居る我々仲間ほど縁の少ない氣味の惡い心の置ける相手方は外にはあるまいから何と云つても仕方がない、木地屋の中にも一人位は歴史家があつてもよさゝうなものだ。」


























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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