岡谷公二 『南海漂泊 ― 土方久功の生涯』

岡谷公二 
『南海漂泊
― 土方久功の生涯』


河出書房新社 
1990年8月20日 初版印刷
1990年8月30日 初版発行
214p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 渋川育由
カバー写真: 吉田則之
カバー裏: 土方久功画「浴」



本書「あとがき」より:

「私は、西欧の中の、南にかかわった人たちの系譜に長い間関心を抱き続けてきた。それは、私自身、体質的に南を好み、沖縄を含め、南へ旅する機会が多かったからであろう。最初はゴーギャンだった。それからランボー、アルトー、レリス……。南の問題とは、文明のありようの問題である。西欧には「腐った理性しかない」というアルトーの呪詛は、今なお生きているということができる。」
「極言すれば、戦前の日本において、真に南の問題を生きたのは、土方久功ただ一人だけだったのである。」
「南洋群島で十四年、ボルネオで一年暮したこの特異な彫刻家・民族誌学者の軌跡は、大正から昭和にかけての日本の社会の鮮やかな陰画、と私の眼には映る。その土方久功が、ごく最近まで無名に近い存在だったことは象徴的だ。」
「このたぐいまれな日本人の存在を、できるだけ多くの方々に知っていただきたい、という念願から、私はこの本を書いた。」



地図1点。


岡谷公二 南海漂泊 01


帯文:

「「私が育った東京よ
お別れの時が来たようだ」
昭和初年、文明の生活に絶望して
ひとり、ミクロネシアの孤島へ旅立って
いった彫刻家土方久功(ひじかたひさかつ)の自由で熱い生涯。」



岡谷公二 南海漂泊 02


目次:

一、パラオへ
二、貴顕の家
三、美校時代
四、築地小劇場
五、「南洋行キ次第」
六、公学校の教え子たち
七、南洋閑日月
八、絶海の孤島サテワヌ
九、「十年振リデ見ル日本ノ火」
十、中島敦とともに
十一、ボルネオへ
十二、静かな晩年

土方久功の著作
あとがき



岡谷公二 南海漂泊 03



◆本書より◆


「二、貴顕の家」より:

「久功(ひさかつ)は、二つ違いの兄と、時折、小石川林町の伯父久元の邸へも遊びに行って、邸内の漾錦(ようきん)池という沼池で釣をした。広い邸内には、年老いた伯父と、その長男の嫁と、直系の孫久敬(与志)がひっそりと暮していた。与志は、久功からすれば従兄の子だが、年齢は上で、兄と同年だった。」

「両親にとって、彼は、ききわけのよい、いい子だった。いや、いい子にさせられたのだ。
  「自分は小さい時から中の子として先づ親に『甘ったれること』を拒まれた。……親は自分をおだて、自分に虚偽と虚栄とを教えることによって、『甘ったれること』を拒んだのであった」
 と、久功(ひさかつ)は二十二歳の時の日記の一節に記している。そして「永くも欺かれて来た過去に虚偽と虚栄とをまざまざと感じる」に至った時、「母に背かねばならなかった」とし、「自分は永い間不自然故に孝行者であった償ひとして、今極めて自然な不孝者となったことを悲しみながら何うすることも出来ない」と付け加えている。」
「その南洋行とは、殺し続けてきた久功の自分の、一生に一度の大きな爆発だった、と言えるかもしれない。」



「三、美校時代」より: 

「たしかに、つきつめて考えれば、彼には、芸術の世界以外に進むべき道は残されていなかった。それは、世間の言うまともな人生に背をむけることによって、真の人生に達しうるかもしれない道であり、世間でのマイナスをプラスに転化できるほとんど唯一の世界だったのだから。」

「すでに大正十一年の日記の中で、久功は、学校での制作のほかに、自分で勝手に小さな作品を作っている時の方が、「より自由な気持で仕事をする」ことができ、「より強い興味に引かれる」としたあとで、次のように記している。
  「自分は学校の仕事の時、如何に知的約束の為に小さな(無意味な――或はより大切なものを殺す様な)凹凸を作り、機械的模写を強いられて居るか。内在する美は作者によって見出され、創造され、表現されるのである。智的神通力によって見る血脈筋肉乃至骨格ではない。この誤謬には、或る客体を通して芸術を生み出す場合に多くの人が不知のうちに陥ってゆく。斯うして芸術が単なる再現に終って行くのである。自分が用ゐる或る客体は、再現される為ではなく、それを透かして主体が生み出される所の手段であり、材料である」
 久功は、学校での教育同様、学生たちの出品が期待されている官展にも、早くから失望していた。」
「彼は勿論、帝展には一度も出品しなかった。また出品したとしても、入選は覚束なかったであろう。写実で叩きあげた審査員の目に、彼の彫刻は素人芸としか見えなかったにちがいないのだから。このように彼は早くから、官展に背を向け、在野の孤独な道をゆくよう運命づけられていたのである。」



「四、築地小劇場」より:

「久功にとっても、築地小劇場は、あきらかに青春の一ページであった。」
「しかし久功は、社会主義思想の勃興とともに次第に左傾化してゆく築地小劇場のありようには不満だった。彼は民衆というものをてんから信用していなかったからである。」

「久功の詩は、その彫刻や絵とそれほど区別すべきものではなかった。彼自身、彫刻が本職で、詩は余技とは考えていなかった。すべてが本職であり、すべてが余技であった。彼はその時その時の切実な表現の欲求に従ったにすぎない。」



「五、「南洋行キ次第」」より:

「一体に久功ほど天候、気候に敏感な人間は珍しい。彼の「私は何よりもひどく天候に左右されるやうです。……私が朝起きて、其日の天候に挨拶するとき、その一瞬に私は天候の指示通りに服従させられて了ふやうです」という言葉は、文字通りに受け取らねばならない。そのことを如実に示すのは、日記の中の驚くほど詳細な天候についての記述である。その上、天候のことしか書かれていない日さえ間々ある。まるで天候が人生のすべてであり、それに何一つ付け加える必要はない、とでもいったようだ。実際、寒く暗い日は、彼自身精神的に死んでしまうのであり、雨は、彼の「心臓を萎へしめる」のであった。」
「南方へ赴いた人たちは、まず生理的に熱帯を求めたのであり、久功もその例外ではない。」

「久功を南洋の夢へと最初に誘いこんだのは、ゴーギャンのタヒチ紀行『ノア・ノア』である。」
「久功が最初に読んだ『ノア・ノア』の訳書は、大正二年に『白樺』同人の小泉鉄が、「白樺叢書」の一冊として、洛陽堂から出版したものだった。」
「彼の「素人主義」や専門家嫌い、自己に対する忠実さの中には、あきらかに『白樺』が影を落している。」
「尤も彼は『白樺』に手放しで傾倒していたわけではなかった。」
「彼は実篤に代表されるような、性善説にもとづく楽観的な人間観にはついてゆくことができなかった。また「人間と他の生物を等価値に置いて」(谷川健一)、人間の自我にどこかで多寡をくくっているような眼、十四年の南洋生活で研ぎ澄まされることになる眼を、すでにこの頃から養い育ててもいたのである。」

「彼を突き動かしたのは、(中略)発つ前に書いた長詩「青い海に浮ぶ」の中で歌われているような、熱帯の太陽の下で「今まで身に積もった着物を一枚ぬぎ、そして又一枚ぬぎすてること」への願望であり、原始の光と風の中に自分をさらしたいという欲求であったろう。」



「十、中島敦とともに」より:

「昭和十六年二月一日から、久功は、三ヶ月余にわたる長期出張の旅に出た。」
「中島敦が、それまで勤めていた横浜高等女学校をやめ、南洋庁地方課に所属する国語編修書記として、コロールに赴任してきたのは、久功が長旅から戻って間もない七月六日のことだった。」
「敦は、赴任早々、大腸カタルや、デング熱を患って散々だった上、役人生活になじむことができず、役所の中で孤立していた。」
「たぶん久功は、敦よりももっと役人に不向きな人間であったろう。(中略)彼にとって、役人の世界は、不可解なことばかりであった。
  「私ハ若イ人タチガ商業組合ダ信用組合ダ無尽ダ利廻リダ…… ナンダカダト云フノヲ聞イテ居ルト、マルデ自分ニハ解ラナイ『大人』ノ世界ガアッテ、遠クノ方カラ、其ノ世界ヲノゾキ見シタ様ナ、快不快ヲ越エタ、ロマンチックナ感覚ヲ覚エルノガ常デアル」(「日記」)
 久功はこんな風に言う。余りに大きな相違が、嫌悪よりも驚きを呼びさます様が髣髴としていて、興味深い。二人に共通する、このような周囲との違和が、久功と敦を結びつけたのである。」



「十一、ボルネオへ」より:

「軍人の世界は、役人の世界以上に、彼の肌には合わなかった。この世界の基本である階級制度が信じられず、命令することも、命令されることも大嫌いだったからである。」


「十二、静かな晩年」より:

「久功の彫刻にかこまれていると、あたりの空気が澄んで、明るく、椰子の乾いた葉風が吹き通ってゆくようだ。そこには気負いや衒い、虚勢や嫌味、自己を偽ったそらぞらしさ、陰湿さやとげとげしさといったものは微塵もない。彼は、自分の愛するものだけを、己の心に忠実に従って表現した。これは、いわばすべての芸術の初心である。しかし画壇、彫刻壇という世界は、往々にしてこうした初心をかき乱し、枯渇させてしまう。彼は、そのような世界に背を向けたことで、この単純さと透明さと明るさを手に入れた。」
「代表作の一つである「間の抜けた闘争」をはじめ、彼の作品にはユーモラスなものが多い。(中略)ユーモアは彼の彫刻の大きな特色である。日本の彫刻には、ユーモアという面がきわめて乏しく、その点でも久功の存在はユニークである。そのユーモアは、この世界に対する彼の距離と、醒めた眼から生れてくるらしい。」

「久功は、頑ななまでに南洋だけを主題とした。(中略)彼は、出発点からそうだったように、また、変わらぬ芸術観だったように、単に内心の欲求に従ったにすぎない。それは、別の言い方をすれば、南洋生活が彼にとって唯一の真の現実だった、ということである。この、彼の心の中の現実は、地中深く埋もれた或る種の鉱物のように、時間の層におおわれてゆけばゆくほど、密度と輝きを加えていった。彼の作品が回顧の甘い毒に冒されることなく、いつまでもみずみずしさを失わなかったのはそのためであろう。」

「鳥が塒に帰るように、彼の思いは、いつでもそこへ帰っていった。彼は、木犀の甘い匂いを嗅いだだけで、南洋のさまざまな果実の思い出が、溢れるようにして迫ってくる、という風だった。それは、記憶というには余りにも生々しく、その一方、周囲の世界、高度成長期にむかって真一文字につき進んでゆく日本の現実とは、なんのかかわりもなかった。それは、夢であるがゆえに、そしてその分だけ、彼にとってかけがえのない現実となったのである。実際、彼には動く必要などどこにもなかったのだ。いや、むしろ動いてはならなかった。彼はじっと静かにして、この記憶を孵化させさえすればよかったのだから……。」






























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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