『中島敦全集 3』 (ちくま文庫)

「氏の文章は、だから、他人の眼には如何に奇怪にうつろうとも、氏自らにとっては、他の何物をもっても之にかえることのできない、唯一無二の表現術なのである。」
(中島敦 「鏡花氏の文章」 より)


『中島敦全集 3』
弟子 李陵 名人伝 ほか
ちくま文庫 な-14-3 

筑摩書房 
1993年5月24日 第1刷発行
485p 編集付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,000円(本体971円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 土方久功「生ッ白クナイ道化」



「編集付記」より:

「一、作品は著者生前刊行の作品集の形に準拠して配列した。
一、決定版『中島敦全集』未収録の書簡を新たに収める他、習作、遺稿、歌稿、日記等を収録し、著者の全貌が見られるように集成した。
一、本文には新漢字・新仮名づかいを採用した。また、ルビを多く付して読みやすさを配慮した。
一、東西古今、多方面にわたる人名、故事、難語句には小口注を付して鑑賞の資とした。」



本書「解題」より:

「第三巻には、中島敦がもう数ヵ月健康に恵まれていれば実現していたであろう第三冊目の作品集に収録されるべき作品を中心に編成した。(中略)それに、篋底に沈め置かれて生前活字にされることのなかった未完成の〔遺稿〕五編、および小説以外の〔雑纂〕〔断片〕の雑稿である。中島敦の仕事としてはこれらの他に大学卒業論文「耽美派の研究」(中略)と、翻訳(中略)四編、その他、(中略)文学的雑記帳としての「ノート」がある。文庫版という性格から、この全集には割愛したが、関心ある読者は筑摩版第二次全集第三巻を参照されたい。」


「弟子」直筆原稿写真1点。「断片」と年譜は二段組です。


中島敦全集 三


帯文:

「新編集・オリジナル文庫版全集
全3巻完結!
詩魂の稀なる顕現……。「弟子」「李陵」「名人伝」「章魚木の下で」他遺稿・断片等を収録。」



目次:

弟子
李陵
名人伝
章魚木の下で

〔遺稿〕
 北方行
 プウルの傍で
 無題
 セトナ皇子(仮題)
 妖氛録

〔雜纂〕
 文芸部部史
 「校友会雑誌」第三百二十二号 編輯後記より
 新古今集と藤原良経
 鏡花氏の文章
 十年
 「学苑」第五号 編輯室雑記
 どのスポーツが好きか
 「学苑」第七号 後記
 お国自慢
 「学苑」第八号 編輯後記
 「学苑」第十二号 後記

〔断片〕
 断片

中島家家系図
中島敦年譜

解説 (日野啓三)
解題 (勝又浩)




◆本書より◆


「李陵」より:

「要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲する所を書上げて見て始めて判然する底(てい)のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書現すことの要求の方が、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現れないのである。自分が長い間頭の中で画いて来た構想が、史といえるものか、彼にも自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とに角そういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、就中(なかんずく)己自身にとって、)という点については、自信があった。」


「名人伝」より:

「趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都に住む紀昌(きしょう)という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。」
「飛衛(ひえい)は新入の門人に、先(ま)ず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織(はたおり)台の下に潜り込んで、其処(そこ)に仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往来するのを じっと 瞬かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人(おっと)に覗かれては困るという。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑(おか)しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽(あわた)だしく往返する牽挺(まねき)が睫毛(まつげ)を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼は漸く機の下から匍出(はいだ)す。最早、鋭利な錐(きり)の先を以て瞼を突かれても、まばたきをせぬ迄になっていた。(中略)彼の瞼は最早それを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はクワッと大きく見開かれた儘である。竟(つい)に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛(くも)が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衛に之を告げた。
 それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみでは未だ射(しゃ)を授けるに足りぬ。次には、視ることを学べ。」
「紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱(しらみ)を一匹探し出して、之を己が髪の毛を以て繋いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨(にら)み暮らすことにした。毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。初め、勿論それは一匹の虱に過ぎない。二三日たっても、依然として虱である。所が、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれが ほん の少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終りには、明らかに蚕(かいこ)ほどの大きさに見えて来た。虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り変る。熙々として照っていた春の陽は何時(いつ)か烈しい夏の光に変り、澄んだ秋空を高く雁が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙(みぞれ)が落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下った有吻類(ゆうふんるい)・催痒性(さいようせい)の小節足動物を見続けた。(中略)早くも三年の月日が流れた。或日ふと気が付くと、窓の虱が馬の様な大きさに見えていた。占(し)めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘の如く、雞は城楼と見える。雀躍して家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角(えんかく)の弧(ゆみ)に朔蓬(さくほう)の簳(やがら)をつがえて之を射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さえ断(き)れぬ。」

「気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷(ひど)くよぼよぼの爺さんである。」
「紀昌は直ぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆(うしつ)の弓も粛慎(しゅくしん)の矢もいらぬ。
 丁度彼等の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶(とんび)が悠々と輪を画いていた。その胡麻(ごま)粒ほどに小さく見える姿を暫く見上げていた甘蠅(かんよう)が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月の如くに引絞って ひょう と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて来るではないか。
 紀昌は慄然(りつぜん)とした。今にして始めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。

 九年の間、紀昌は此の老名人の許に留まった。その間如何なる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
 九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍(せいかん)な面魂は何処(どこ)かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶(でく)の如く愚者の如き容貌に変っている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。之でこそ初めて天下の名人だ。我儕(われら)の如き、足下(あしもと)にも及ぶものでないと。」
「所が紀昌は一向に其の要望に応えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携えて行った楊幹麻筋の弓も何処かへ棄てて来た様子である。其の わけ を訊ねた一人に答えて、紀昌は懶(ものう)げに言った。至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。」

「既に早く射を離れた彼の心は、益々枯淡虚静の域にはいって行ったようである。木偶の如き顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる。」というのが老名人晩年の述懐である。
 甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去った。」



「鏡花氏の文章」より:

「実にかくの如く突兀・奇峭にして、又絢爛を極めた言葉の豪奢な織物でなくては、とても、氏の内なる美しい幻想を――奇怪な心象風景を――写し出すことは出来ないのである。氏の文章は、だから、他人の眼には如何に奇怪にうつろうとも、氏自らにとっては、他の何物をもっても之にかえることのできない、唯一無二の表現術なのである。」




こちらもご参照下さい:

『中島敦全集 1』 (ちくま文庫)
井筒俊彦 『意識と本質』 (岩波文庫)

































































































































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趣味: 図書館ごっこ。

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将来の夢: 石ころ。

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