ハーマン・メルヴィル 『幽霊船 他一篇』 坂下昇 訳 (岩波文庫)

「いいえ、ぼく、なんの変化もない方がいいのです」
(ハーマン・メルヴィル 「バートルビー」 より)


ハーマン・メルヴィル 
『幽霊船 他一篇』 
坂下昇 訳

岩波文庫 赤/32-308-5 

岩波書店 
1979年12月17日 第1刷発行
1980年7月20日 第2刷発行
262p
文庫判 並装
定価350円



Herman Melville: Benito Cereno, 1855, Bartleby, 1853


メルヴィル 幽霊船


帯文:

「無残な姿で漂流するスペイン船と病みほおけた船長。船上にたちこめるこの異様な気配の源は何か。再評価高い傑作ゴシック小説二篇。」


目次:

幽霊船(ベニート・セレーノ)
バートルビー

訳注
解説




◆本書より◆


「バートルビー」より:


「新聞広告に応募して、ある朝、私の事務所の閾(しきい)の上に、じっと動かぬ青年が立っていました。季節は夏のこととて、扉は開いていたのです。私はいまもあの姿を見る思いがする――清らげなまでの蒼白(あおじろ)さ、哀われを誘うほどの恭々(うやうや)しさ、癒(い)やし難いまでのやるせなさ! それがバートルビーだったのであります。」

「はじめ、バートルビーは世の常ならず大量の書き物をしました。まるで永い間写本そのものに餓えていたといわんばかりに、私の文書を腹くちるまでむさぼっているように見えました。これでは消化のための間合いもあったものじゃない。あたかも昼夜連続線上をつっぱしるが如く、昼は太陽、夜は灯火をたよりに、写しをやっている。彼のこの勉(いそしみ)と励(はげ)みに、せめて陽気さでも漂っていてくれたなら、私もその忠勤を大いなる歓びとしたのでしょうが、彼はただ書いて書いて書きつづけながら、ひたすら、沈黙し、色青ざめ、機械のようなのであります。」

「「なんの用でしょうか?」と、彼が言います。柔和にです。
 「写しだよ、写しだよ」と、私がせきこんで言いました。「みんなでこれから照合をするところだよ」――と、私は彼の方に四番目の写しを差し出す。
 「ぼく、そうしない方がいいのですが」と、彼が言い、おだやかに衝立ての後ろに消えました。
 数瞬、私は「塩の柱」と化してしまいました。(中略)ようやくわれに返ると、この不条理きわまる振舞いはどういうつもりだ、と詰めよったのです。
 「なにゆえに君は拒(こば)むのかね?」
 「ぼく、そうしない方がいいのですが」
 (中略)
 「これはだよ、君が自分で作った写しなんだ。それをみんなで照合しようというのだよ。それなら君の労力の節約にもなることだからね。だってそうだろ、一度の照合で君の写し四部がすんでしまうのだよ。これが普通の慣習なんだ、写本生ならば、自分の作った写しの照合を手伝う義務があるんだ。君、なんともしゃべらぬつもりかい? 答えなさい」
 「ぼく、そうしない方がいいのですが」と、彼が答えました。さわやかなること、天使長の吹く銀のらっぱの如き口調です。私にはこうとしか見えぬのです。つまり、私の陳述の一節一節をねんごろに思索し、その意味は完全に理解し、その抗(あらが)い難い結論には異論の唱えようはないと知りながらも、それと同時に、なにか卓越した思いに支配されているものだから、それで彼としてはああとしか答えられないのだと。」

「観察していると、この男は午餐(ディナー)に外へ出たことがない。それどころか、どこにだって出ていったことがない。いまに到るまで、といって私の知るところではだが、彼が私の事務所から一歩でも出たという事実はない。あの隅で、永遠の歩哨に就いている。」
「彼は午餐を食べたことがない。ならば、菜食主義者に違いない。いや、さにあらず、野菜だって食べたことがない、食うのはくるみしょうがだけ!」

「ああ、哀われな人の子よ、と私は考えます。悪意はなんにもないのだからな。慠(おご)った行いをするつもりがないことは明らかだ。あの桁外れの奇癖にしても、不作為のものであることはその相で十分に証(あかし)が立つ。(中略)ここで私に追い出されたら、十中八九、私ほどには甘くない傭い主にぶっつかり、あしざまに取扱われ、いずれは、恐らく、放り出されて惨めな餓え死にを迎えるしかあるまい。」

「私はこう憶測しました。つまり、無限の間、バートルビーは私の事務所で食事を食べ、着物を着、眠りを眠っていたに違いないと。それにしては、皿もなく、鏡もなく、ベッドもないのに、そうしていたことになる。(中略)そうなんだ、と私は考えました。もはや明白で疑うすべもない、バートルビーはここをわが家となし、わが身ひとりの「独身者の館(やかた)」を営みつつ、安逸のパラダイスを夢みているのだ。すると忽ち、私の念頭を掠めた思いがあります。ああ、ここに露わにされたもの、それは何という惨めな孤独と寂寥! 彼の貧しさの大いさよ! だが、その孤絶にいたっては、何という恐ろしさよ! 考えてもみよ。日曜ともなれば、ウォール街は人無き里。滅びの町ペトラ(石)だ! さらに、くる日くる日の夜は、あるものはただ虚空(こくう)のみ。(中略)それでいて、バートルビーはここにわが家を営んでいる。孤独をも衆生の賑わいと観ずる、ひとりぽっちの傍観者――いうなれば、昔カルタゴの廃墟にひとり佇(たたず)んだ、かのマリウスの清浄な変身!
 私の生涯で初めて、ある圧倒するような、突き刺すような憂欝が私を捉えていました。(中略)いまは、すべての人と人とを結ぶ人間の絆(きずな)が抗(あらが)い難くも私を陰欝の気へ曳きずってゆくのでした。」

「いま、この男にまつわりついているのを気がついていた、静寂な神秘のすべてが思い出されてきました。一つ、彼は答え以外に口をきいたことがない。一つ、時にはかなりな時間を自由にできたはずなのに、読書をしているところを見たことがない――いや、新聞すら読んでいない。一つ、あんなに永い間、衝立ての後ろの青じろい窓べに佇み、煉瓦の死に壁(盲壁)を見凝めている。彼が慈善の給食場にも、町の食堂にも足を運んだことがないことは私には確かだ。(中略)一つ、彼が誰なりや、いずこよりきたりしや、この世に身寄りがあるのかないのか、話そうとはしない。一つ、あれほどの窶(や)つれた青い面(おもて)をしながら、どこぞが悪いと訴えたこともない。ああ、一切に絶して思い出されてくるのは、彼の身辺に漂う、青ざめた――さあ、何と言っていいか? ――そう、青ざめた高ぶり、というよりは、峻烈な自己抑制をこめた、ある種の無我の風でした。」

「次の日、気がついてみると、バートルビーは自分の窓べに佇んだまま、例の死に壁(盲壁)の夢想に耽ったきり、なんにもしていません。なぜ書き物をしないのかと尋ねますと、もはや書き物は一切しないことに決定したのだというのです。」



「解説」より:

「人間の最も美しい、清浄な形は idiot savant (物を知る阿呆)だ、と彼はいう。」




本書をよんだ人はカフカの「家父の気がかり」「断食芸人」とエドワード・ゴーリーの絵本「うろんな客」もよむとよいです。








































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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