メルヴィル 『白鯨 中』 阿部知二 訳 (岩波文庫)

「土曜の晩に肉市場に行ってみたまえ。何と多くの二本足の群が、ずらりと並ぶ四本足の屍を見つめていることか。その光景こそ、食人種をして身の毛もよだつ思をさせるに足るものでないか、食人種とは? だれが食人種でないというのか。」
(メルヴィル 『白鯨』 より)


メルヴィル 
『白鯨 中』 
阿部知二 訳

岩波文庫 5728-5730/赤 942 

岩波書店 
昭和32年3月5日 第1刷発行
昭和49年3月30日 第17刷発行
326p
文庫判 並装
定価★★★



上巻解説より:

「版画はシカゴ、レイクサイド・プレス版(一九三〇年)から使用した。」


全三冊。
本文中挿絵図版21点(カット13点、フルページ8点)。


メルヴィル 白鯨 中 01


帯文:

「白鯨に片足を奪われたエイハブ船長。彼は復讐の念にもえる。白鯨を追う捕鯨船ピークォド号は、海の男達の物語をのせて大洋を進む。」


目次:

四十二章 鯨の白きこと
四十三章 聴け
四十四章 海図
四十五章 宣誓供述書
四十六章 臆測
四十七章 索畳造り
四十八章 最初の追跡
四十九章 豺狼
五十章 エイハブの舟とその乗組フェデラー
五十一章 妖しき汐煙
五十二章 信天翁
五十三章 往訪
五十四章 タウン・ホー号の物語
五十五章 怪異なる鯨の絵について
五十六章 より誤謬少き鯨図及び捕鯨図
五十七章 油絵、鯨牙彫刻、木刻、鉄板彫り、石彫り、また山嶽や星座等の鯨について
五十八章 魚卵
五十九章 大烏賊
六十章 捕鯨索
六十一章 スタッブが鯨を斃す
六十二章 投槍
六十三章 叉柱
六十四章 スタッブの晩食
六十五章 美味としての鯨
六十六章 鮫退治
六十七章 鯨切り
六十八章 毛布皮
六十九章 葬式
七十章 スフィンクス
七十一章 ジェロボウム号の物語
七十二章 猿綱
七十三章 スタッブとフラスクとがせみ鯨を屠り、それについて談義する
七十四章 抹香鯨の頭――比較論
七十五章 せみ鯨の頭――比較論
七十六章 大槌
七十七章 ハイデルベルヒの大酒樽
七十八章 水貯めとバケツ
七十九章 大草原
八十章 胡桃
八十一章 ピークォド号、処女号と遭う
八十二章 捕鯨の名誉と光輝
八十三章 ヨナについての歴史的考察
八十四章 槍の長投
八十五章 噴泉
八十六章 尾
八十七章 大連合艦隊
八十八章 学校と教師たち
八十九章 仕止め鯨、はなれ鯨

訳註



メルヴィル 白鯨 中 02



◆本書より◆


「四十二章 鯨の白きこと」より:

「多くの自然物の場合には、たとえば大理石や椿や真珠などにみるように、白いということは気品を加え美しさを増し、おのずからなる徳をあらわしてかがやくようにも見え、多くの民族はこの色を何かしら高貴なものとして認めており、かの古のペグーの大蛮王たちすら、その権威をさまざまの美名を以て讃えたとき、「白象の王者」の名を最高としたし、今のシャムの王たちはその純白の象を帝王旗として翻えしており、(中略)また別の方面から眺めるならば、白色は昔から歓喜の表象とされ、ローマ人は祝祭の日を白い石でしめすことをしたし、また他の面の人間感情の象徴としては、この色は多くのいみじく崇高な事柄、――花嫁の純潔、老人の仁慈などのしるしとなり、(中略)さらに、もっとも厳粛な宗教の秘儀にあっても、白は神性の無垢と権威との象徴とされ、ペルシア拝火教徒たちは、祭壇にのぼる白色の焔の叉をもっとも神聖なものとし、ギリシア神話では大ジュピタ神こそ雪白の牡牛に身を変えたのであり、(中略)ローマ正教の聖なる儀式の中では、白は特に我らの主の受難を讃えるものとして用いられたのであり、ヨハネの夢幻の中では、白衣は罪贖われたものにあたえられており、二十四人の長老は白い衣をまといつつ、大きな白い御座に、羊毛のように白くかがやいて坐したもう、主なる神の前にひざまずくのである。しかも、かくも連想を積みかさね、美しい正しい崇厳なあらゆるものに結びつけても、この色彩の感銘の最奥のところには、何かしら捉えがたい性格のものが潜んでいて、あの紅の色が血汐に結んで脅かすよりも、もっと強い恐怖を以て心を打つのである。
 その性格のゆえに、われわれがこの白色を優しい連想から切りはなして、これを恐しい事物に結びつけながら思考するとき、その恐怖感をかぎりなく高めてゆく。極地の白熊や熱帯の白鮫を眼のあたり見るがよい。そのつやつやとした雪片のような白さが、彼らを超絶的な畏怖の対象としないではおかない。あの妖怪的な白色こそが、暴悪さよりももっと厭わしいものとして、彼らの黙々たる姿に、身の毛もよだつような妖美を差しそえる。」

「もちろん、通常の心理にとっては、この白色という現象は、さなくても恐しいものにさらに恐しさを加える力の隋一のものとは認知されておらず、たとえ一部の人々にとってはひたすらこの一事にこそ――特に、これが沈黙または遍満性に近い何らかの形に於てあらわれているときにこそ、恐怖の源は在るのだとしても――想像力に欠けた心の人にとっては、少しも恐いものとおもわれぬ、ということは私も承知している。この二つの個条で私がいいたいことは、おそらく次の例によってそれぞれ説き明されるであろう。
 第一。異域の岸辺に近づいてゆくときの船乗りが、もし深夜に浪が砕ける音を耳にしたとすれば、不寝番をはじめることはもちろんだが、そのときの危惧感は、ただ全能力を緊張させるだけのことである。しかしこれとまったく同様の状況の下で、彼が吊床から呼び起されて見張りするとき、船が走っているところのその深夜の海は一面の乳白色――まわりの岬角から波立つ白熊の群がぞろぞろと泳ぎ寄ってくるような色だったとすれば、彼は声なき怪異の恐怖に襲われ、経帷子をきた幻影さながらの白い海は、本物の幽霊のような戦慄にさそうだろう。(中略)しかも、「そりゃ、わっしを びくっ とさせたのは、隠岩にぶつかることなんかじゃなくて、あのぞっとする白さでしたよ」と君に告げる船乗りはあるだろうか?
 第二。ペルー土着のインディアンにとっては、四六時中雪の天蓋をかぶるアンデス連山も、まずおそらく、あんなおそろしく高いところがいつ見ても物すごく凍っているわと呆れ、あんな人里はなれた淋しいところで行倒れたら何と恐いこったろうと思うくらいのもので、恐怖感というようなものは持ち合わすまい。西部の辺境の住民らもよくそれに似たもので、涯しもない曠原が吹き流れる雪におおわれ、眼が眩めくようなただ一色の白さを妨げる一樹一枝の影もないのを眺めても、大体無頓着なものだ。だが南氷洋の光景に眼をみはる水夫は、同じわけにはゆかぬ。時として霜雪と大気との作用が魔性の手品を使い、なかば破船の身の彼が打ちふるえながら見るものはその苦境に希望と慰めとをあたえる虹ならで、削ったような氷の標柱、ひび割れた十字架が立ち並ぶ茫漠たる墓原の景色である。」

「しかし今のところ未だわれわれは、この白色の呪文を解いてはおらず、どうしてこれほどの力で魂に迫るかを究めてはおらない。さてさらに奇しく畏るべきことは何かといえば――われわれが見てきたように、それは霊的なものの意味深い象徴、いや、キリスト的な神の衣そのものですらあり、しかも同時に、まさに人類にとってもっとも恐しいものに強烈さを与える力となる、ということである。」



「四十七章 索畳(なわだたみ)造り」より:

「曇り日の蒸暑い午後、水夫たちは、甲板のあちこちをものうげにぶらついたり、鉛色した海波の彼方をぼんやりと眺めわたしたりしていた。クィークェグと私とは、短艇の縛索(しばりづな)とするところの「叩き索畳」というやつをつくっていた。すべてのもののたたずまいは、ただ静かにひそやかに、しかも何ものかの気配が感じられ、空気の中には夢見心を誘うものがひそんでおり、物をいわぬ水夫らは、おのおの自分のうちの見えざる自我に融けこんでいるという様子だった。
 私はいそがしく索畳をつくりながらも、クィークェグの家来か小姓のように従っていた。私は長い経(たていと)の目の中に緯(よこいと)を、手を梭(おさ)にして通したり戻したりしていたし、クィークェグは傍に立って、ひっきりなく重い樫棒を糸の中に差しこみながら、ぼんやりと波の上をながめ、ぼんやりと上の空で糸の目を叩いていた。鉛と海とのうえに、まことにものうい夢心地がただよい、ただそれを破るものは時折りの樫棒の鈍い音ばかりで、これは「時の流れの機織(はたおり)」で、私自身もつまり運命の機を機械的に織りつづける梭でしかないのだとおもわれるのだった。ここに固定した経の筋があり、ただ単調な不変な往き戻りの振子運動をするほかはなく、その振子の動きとてただ緯と交るということのほかに芸もない。この経は必然の道だ。だからおれは、おのれの手でおのれの梭を差しこみ、この不変の経の中にわが運命を織りこんで行っているのだ、と私はおもう。さてクィークェグのぞんざいな機械的な樫棒は、糸の目を、時に斜に時に横様(よこざま)に、時に強く時に弱く叩きつづける。この決めの打撃のぞんざいさに従って、織物全体の出来上り様(ざま)はそれぞれ千差万別というところだ。(中略)このぞんざいな暢気な棒がつまり、偶然だな、――ああ偶然と自由意志と必然、――決して仲が悪くはないところの三者が、繩をあざなうように働きあうのだな、などとおもう。その終局の道筋を微動だもさせようとせぬ真直な必然の経――間がな振子のように動くが、それもただ終局への結着を固めさせるだけのこと。だが自由意志はやはり自由におのれの梭を糸目の中に差しこむ。ところで偶然は、そのふざけは真直な必然の経にしばられ、横からは自由意志に動きを制せられるが、また一方からいえばその二者を制して、事件の最後の形を叩き上げてしまう。」



「四十九章 豺狼」より:

「われわれが人生と呼ぶところの、このあやしくもごてごてとした出入りにおいて、時として奇妙なことには、ある人間は、この全宇宙を一場の大きな冗談だと考え、しかもそこにふくまれた意味合などはほとんど見当もつかず、結局だれの知ったことでもないし、おれさえ我慢すりゃいいんだ、と決めてしまうのである。しかしそれだからといって、少しもがっかりするでもなく、何事に頭を悩ますというのでもない。彼はあらゆる事件、あらゆる主義、信条、理論、可見不可見のあらゆる艱難、それらがどんなにごつごつしていようとも、ぐっと鵜呑みにしてしまう。(中略)ちっぽけな苦労とか患らいごととか、前途たちまち暗澹となることとか、生命の危害とか、それらはおろか、死そのものさえ、彼にとっては、見も知らぬどこのど奴か分らぬ悪戯ものに、油断をねらって小気味よくぴしゃりと張られたか、愛嬌まじりに横っ腹をどやされたことくらいにしかひびかない。さてこういった類の妙な気まぐれというものは、もっともひどい患難の時に、そして真剣の極致にやってくるものであるからして、今しがたまでこの上もなく重大だとおもわれていたことが、なんだ冗談ごとのかけらだったのか、というようなことになる。この放埓でのんきな、楽天的なやけくそな哲学を生むものとしては、捕鯨の危難に及ぶものもない。したがって私としても、かような心持を以て、このピークォド号の全航海と、白鯨追跡を眺めるものだ。」


「五十八章 魚卵」より:

「クロゼット群島から北東に進んだとき、船は一面の鯡の卵の海に乗り入ったが、その小さな黄色の物質は、せみ鯨が好んで食うものだ。それは何リーグも何リーグも、船のまわりに波打っており、まるで黄金に熟れた穂麦の大平原を航しているような心地だった。」

「ああ、愚かな人間よ、ノアの洪水はまだ退いてはおらない。まだ、うるわしき世界の三分の二を蔽っている。」

「海の狡智を考えてみよ。そのもっとも恐ろしい生物は、水底に潜ってほとんど姿を見せず、陰険にも、世にも美麗な藍青の色の下にひそんでいる。また、鮫の多くの種類の優美に彩られた姿態に見るように、海のもっとも残忍な種族の多くの、悪魔的にかがやく美について考えてもみよ。さらにまた、海の全生物がたがいに食み合い、世界開闢の時この方永劫の戦争を行っていることに見るごとき、完全食人主義について考えてもみよ。
 これらすべてを考えた上で、この緑にして優しくもっとも穏和なる大地を顧み、そして海と陸との二者を比べてみよ。諸君の内面に、何ものか或るふしぎな近似物を見出さないだろうか。というのは、この恐ろしい大洋が緑の大地を取りかこむごとくに、われら人間の霊魂の中にも、平和と歓喜にみちた一個のタヒチ島があり、しかも、なかば知られざるあらゆる恐怖に ひし と巻かれているのだ。神よ、人々を守りたまえ。その島から飛び出すなかれ。ふたたびは帰れぬであろうから。」



「六十五章 美味としての鯨」より:

「疑うべくもなく、牛を最初に殺した人間は、人殺し同様に見られ、おそらくは絞首刑になったろう。まして、もし牛群によって審問されたとするならば、逃れっこはなく、その罪状は当然に人殺しと同じものとされたにちがいない。土曜の晩に肉市場に行ってみたまえ。何と多くの二本足の群が、ずらりと並ぶ四本足の屍を見つめていることか。その光景こそ、食人種をして身の毛もよだつ思をさせるに足るものでないか、食人種とは? だれが食人種でないというのか。」


メルヴィル 白鯨 中 03


メルヴィル 白鯨 中 04


メルヴィル 白鯨 中 05




こちらもご参照下さい:

メルヴィル 『白鯨 上』 阿部知二 訳 (岩波文庫)
メルヴィル 『白鯨 下』 阿部知二 訳 (岩波文庫)


























































































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