狩々博士 『ドグラ・マグラの夢』

「…アアたまらない。遣り切れない。一緒に進化して来た連中は、身体中に刺を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、甲羅を被ったり、毒を吹いたりしているが、あんな片輪じみた、卑怯な、意気地のない真似をしなくとも、もっと正しい、囚われない、温柔(おとな)しい姿のまんまで、この地獄の中に落ち着いていられる工夫はないか知らん」
(夢野久作 「胎児の夢」 より)


狩々博士 
『ドグラ・マグラの夢
― 覚醒する夢野久作』


三一書房 
1971年10月31日 第1版第1刷発行
264p+33p 口絵(モノクロ)1葉
四六版 丸背クロス装上製本 貼函 
定価1,200円
装幀: 中村宏
口絵: 片山健



謎の人物(後述)「狩々博士」(ドグラ・マグラ研究所長)による、文体模写を交えつつ展開される、至れり尽せりの『ドグラマグラ』論です。本書のうち「第一章 久作九大訪問記」「第九章 堂廻目眩意識之迷宮」「一大附録 『ドグラ・マグラ』 英文梗概」が学研M文庫『伝奇ノ匣5 夢野久作 ドグラマグラ幻戯』(東雅夫 編)に採録されています。


狩々博士 ドグラマグラの夢 01


帯文:

「熱狂の真の意味
       埴谷雄高
 文学は、本来、人類の壮大なる夢にほかならないが、しかし、まぎれもなくそのような刻印を帯びた作品はまことに数少い。かかる作品はそれ自身人類史のなかの不思議な夢であるばかりでなく、それに触れるものに壮大な夢を必ず夢みさせるところの不思議な魂の連続性の魔力を備えている。恐らく熱狂の真の意味はここだけにしかないが、『ドグラ・マグラ』に対する熱狂的な註解書といえる本書『ドグラ・マグラの夢』はその稀有な例証である。」



狩々博士 ドグラマグラの夢 02


帯裏:

「私は覚悟を決めたのだ。『ドグラ・マグラ』を切ったり、越えたりするつもりは毛頭ないのだ。ただその胎内にいだかれて安らかな眠りを眠りたいだけなのだ。さよう、蟻地獄の中の祖述者として、スピノザの石の夢を夢みようと思うのである。
 とはいいながら、私を導いて方法意識を形成させた観念がなかったわけではないのだ。「適当の時代に、こうした研究を思い立つであろうキチガイ学者」の一人であるこの私のモットーはといえば、〈個別科学を胎生期において夢的に把え直すこと、即ち科学から魔術へ!〉という幾分色あせた願いなのであった。これが予期せずして一度現実のものとなるならば、斎藤寿八博士の〈概論〉に述べられたところの〈精神科学〉と本質的に一致するところとなるだろう。実証的事実を文学的に粉飾する一方、己が思弁をば逆に事実の形で提出するという倒錯的作品をねらった本書の存在理由はそこにあるといえるだろう。 (本書「序」より)」



狩々博士 ドグラマグラの夢 03


口絵は片山健画伯「呉一郎・モヨ子像」。
後に刊行された片山氏の画集『迷子の独楽』に収録されています。

見返しは「大正十四年 九州帝國大學醫學部及附屬醫院並ニ第一學生集會所平面圖」。

ところで、『薔薇の名前』の作者ウンベルト・エーコは、学生のためのハウツー本『論文作法』(而立書房、1991年)(※)で、論文はメタ言語で書かねばならない、プルーストについての論文をプルーストの文体で書いてはいけない、と、「批評的論述のきまりを重んじない」学生たちに忠告しています。「精神病患者のことを記述する精神病医は、精神病患者のように自分の考えを言い表したりはしない」。しかしさすがに次のように付け加えるのを忘れてはいません。
「もちろん、いわゆる精神病患者のように自己表現するのは正しくない、といっているのではない。彼らこそ然るべく自己表現している唯一の人びとだ、と君は確信することだって――しかも根拠をもって――できるであろう。」

※この邦訳(私の手元にあるのは1991年5月刊の第3刷です)はやや問題があるので、手放しではおすすめできかねます。一例をあげると、「ラヴェルは彼のために、左手でコンチェルトを書いたのだった」(p.175)という訳文がありますが、これは「左手のためのコンチェルトを」とあってしかるべきところです。
 
そういうわけで、本題に戻って、本書『ドグラ・マグラの夢』ですが、今から四十年以上前に書かれた本書が、「現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な文学的価値を有する発表である」(夢野久作『ドグラ・マグラ』より)のは、専門教育とやらを受けて育った〈国文学者〉が、こと〈文学〉に関しては、とんとシロウトである現状を鑑みれば、全くもって当然のことであるというべきです。
 
本書の著者である狩々博士ですが、ボルヘス+ビオイ=カサーレス(※)『天国・地獄百科』(書肆・風の薔薇、1982年11月刊)の奥付ページ「訳者について」に、
 
「斎藤博士(さいとうひろし)
一九三九年、石巻市に生まれる。京都大学法学部卒業。主な著訳書には、『ドグラ・マグラの夢』(三一書房、一九七一年)、ボルヘス+ビオイ=カサーレス『ブストス=ドメックのクロニクル』(国書刊行会、一九七七年)などがある。」
  
と、ありますが、そんなことはどうでもよいです。

※これは、ボルヘスとビオイを足すとカサーレスになるという式ではなくて、ボルヘスとビオイ=カサーレスの共著であることを表しているようです。しかしそんなこともどうでもよいです。


目次:



第一章 久作九大訪問記
 新聞記者としての久作が九大の医学部の博士
 達との接触を通じて、黎明期の日本精神病学
 をいかに吸収したかを解明するが、それは同
 時に正木・若林のモデル探しともなっている。

第二章 姪の浜の怪人
 ジャクソン、クレッチュマー、ユング等の所
 説を援用しつつ、夢と夢遊発作と狂気をつな
 ぐ本質的共通線をさぐり、久作の〈心理遺伝
 論〉との関連性を究明する。

第三章 続キチガイ地獄外道祭文
 〈キチガイ地獄外道祭文〉の成立についての
 考察と、新版・告発チョンガレ節の展開。

第四章 胎児の夢
 〈胎児の夢〉の敷衍解釈と母親の心について
 言及する。

第五章 脳髄論
 脳髄の進化と身心相関についての考察。

第六章 久作余話
 戸倉万五郎の談話形式による作者夢野久作の
 日常。

第七章 万五郎の談話内容に関する精神科学的観察
 夢野久作に関する『ドグラ・マグラ』を中心
 とした漫談的パトグラフィーの試み。

第八章 大正という時代
 大正十二年の関東大震災が『ドグラ・マグラ』
 に落した影の拾集。大正版狂人烈伝抄、さら
 にはそれに関連する『ドグラ・マグラ』標題
 考を掲げる。

第九章 堂廻目眩意識之迷宮
 荒筋の整理とドウドウメグリ拾いと輪廻転生。
 そして世界文学における『ドグラ・マグラ』
 の精神感応的位置。

第十章 囚人第七号
 自閉と愛に関する考察、あるいは天才夢野久
 作の病因論。

一大附録 『ドグラ・マグラ』英文梗概 (監修・由良君美)
 


狩々博士 ドグラマグラの夢 04



◆本書より◆


「序」より:

「私は狂人をしらない。たまさかに町ですれちがう漂泊者に畏怖のまなざしを投げかけることはあっても、医者達の散文的な報告に接すると、外側から患者をながめたところで何になるかと考えて、病院を訪問するという気持も挫けてしまうのである。それが結果的には自分を〈魔の山〉から遠ざけていることにもなっているらしいのだ。
 しかし私の中にいつのまにやら「何かしらうつむいた黒い影が住み」ついていたのは事実である。それはあたかも太陽が中天高く昇った時、小さくなって濃くなった地上の影が、鳶がスーッと頭上をかすめたすきに身体に潜り込んできて、そのままいすわったかのようなのだ。
 そんなある日、九州の博多の里の香椎村にこもっていたという夢野久作が目の前に現われたのである。私の中の影はみるみる息づいて、時には久作そのもののように爆発するまでになった。
 〈他者〉――この言葉に私はそれまでどれだけこの小さい頭を悩ませ続けて来たことだろうか。聞くところによれば、〈他者〉の存在に関しては哲学界においても未だに結着がついていないというではないか。久作にめぐりあって私の覚悟はきまったのだった。私はいすわるのだ、影と二人でもろもろの〈他者〉達の中に。
 そうなのだ。久作の残した狂気の軌跡をなぞることによって私は慰められてある。「夢野さんはこのへんが少し変なんじゃないの」と生前に感想をもらした友人達の数は少くない。
 何たる至福!
 自家薬籠中の狂気!
 確かに久作は〈あちら側〉をのぞいたはずなのである。わがうちなる久作にかかずらわるのが、私の最大にして最小の言語に対する信頼なのである。」



上記引用文中、「何かしらうつむいた黒い影が住み」とあるのは、三一書房版『夢野久作全集』第四巻月報所収の中井英夫「狂気のあかし」からの引用であります。


以下、括弧(「 」)内は本書(『ドグラマグラの夢』)からの引用であります。

第一章では、『ドグラ・マグラ』の二人の博士たちのモデル――九州帝国大学医学部の榊保三郎博士とそのライバル高山正雄博士が登場し、呉秀三(「後世末長く伝えられるべきその業績はといえば、精神病者に対する偏見の今日よりはるかに強かった明治時代において、この偏見に抗して患者の人権を尊重し、近代的施設をつくって治療の道を開き、一般の啓蒙につくした点でありましょう」)、パラケルスス(「十六世紀当時なおも医家の間で絶大な影響力を有しておりましたガレンの古代医学書を徹底的に攻撃し、「実験と観察による治療」を提唱した革新的人物でありましたが(中略)服装に無頓着で(中略)ゾンザイな言葉を使ったり、ラテン語の常識であった時代に堂々とドイツ語で、しかも従来の型を破った文体で俗語や方言を混じえて執筆したり(以下略)」)、解剖学者ドン・ベザリウス(「子供の頃からねずみや蛙・猫などを解剖するという奇妙な道楽の所有者で(中略)まるでビフテキかオムレツでも取り扱うような無関心さでブスブス、グサリと人体を解剖しておったそうだ。遂には病膏肓に入って材料を求め求めて、墓地の骨漁りをはじめるに至ったのである」)などの業績が紹介されます。

第二章からは以下の文章を引用しておきます。

「われわれ人間が夢みる存在でなかったら、果してこの現実原則に支配された日常なるものも存在するであろうか。夢における認識がなかったならば、われわれの現実の認知は全く不可能となるに違いないのである。」
「いわゆる心理遺伝論を中心とした精神科学の諸原理が、一般の常識として普及したならば、之を応用した精神科学的犯罪が大流行するだろう、というのは狂人のたわごととして片付けられる種類のものではない。ナチス時代の科学者の思考、二十世紀の科学的思考から見れば、それはマットウな考え方であるはずなのである。」


第三章はキチガイ地獄外道祭文のパロディです。

「よく聞けNHKの大衆路線(中略)。病人達が健康人間を。数において圧倒したなら。逆に皆さん収容されます。これでメデタク収まりまする。」

そして原作同様、最後に「ドグラ・マグラ研究所」宛ハガキが印刷されています。

第四章からも引用しておきます。
 
「そこには非常なポテンシャル・エネルギーを持った有機物が既に存在していて、オパーリンのいうコアセルベーションの過程を経て「生命」なるものが誕生するわけなのだろうが、久作はこれを、単細胞が、「地上最初に出現した時の初一念」と喝破している。ここのところは、ダーウィンが最初の有機体の生成について何事も仮定せずといい、又正木博士が絵巻物の神秘はお互いに破らないほうがよかろうぜといったのと同様であろうが、この初一念が地上に具体的に反映された過程というものは、まことに罪深き所行の目録というべきで、その人類時代における代表的なチャンピオンは呉青秀であり、小平義雄であり、若松孝二の主人公達なのであろう。我々個体というものは、生命の大海原の上に動く一つ一つの波であるからして、その大生命を自覚することこそが肝要なのだ。「あめ、の、みなかぬしの正統、エホバの愛し児、日の神の王子ホルスとも称うべき地上最初の生命」の初一念に共鳴することなくしては『ドグラ・マグラ』のほんとうのよさはわからないのである。」

そして胎児が怖れる母親の心とは何かを論じて、「優生保護法」に説き及びます。

「中絶天国日本の最近の一風景――「電話で、女房をよろしくなんて、普通の病気と同じような感覚になってきた」という医師の証言に見られる優生保護法の一効果を胎児自身にかわって予測し、恐怖しているのであろうか。穿頭、切腹の恐怖。久作自身、脳髄の罪悪史の一つとして産児制限の自由化を告発しているが、この優生保護法という法律も、母性の生命健康を保護すると称し、又優生学上の見地だか金髪の野獣の見地だかしらないが、〈不良な〉子孫の出生を防止するという名目において断種や中絶の公然化に一役買っているといえないこともないのである。もっともイザ生れてはみたけれど、母親自らによってポイと捨てられる運命にある諸君も数多く存するのであって、大多数が非業の死を遂げる動物一般の状態に接近しつつあるのが時代の傾向なのかもしれない。」

第五章より。

「若林 「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものは無いと云う事を、大抵の人は知らずに居るのですからね」
正木 「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと云われると、慌てて憤り出すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだと云う事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッワッハッハ……」」


第六章と第七章では、身近な人びとによって語られた久作の人物像や作品の分析から、久作に自閉症(アウチスム)の傾向が見られることを指摘しています。

第八章では、関東大震災の影響、そして『ドグラ・マグラ』の表題の意味を、諸家の学術的な意見を列挙しつつ推論しています。

第九章は、『ドグラ・マグラ』全体のあらすじ、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』やドイツ映画『カリガリ博士』、衣笠貞之助の短編映画『狂った一頁』(大正十五年)との比較など、内容的にも充実しており、本書の山場と言っていいのではないかと思います。

クラカウエルの批判にもかかわらず、フランツの妄想を信じうるわれわれにとっては、『カリガリ博士』の構成ほど本質的に『ドグラ・マグラ』のそれと類似している芸術作品はないと言っていいのではないかと思います。瑣末な点ですが、ラストの運動場を散策いたしております演説狂、女王狂、音楽狂らは、そっくりそのまま狂人解放治療場の十人のチャンピオン達とすりかわるのでございます。」

そして最後の第十章が、実は本書で最も重要な章であって、日本人の心理的特殊性と、日本人にとって「自己実現」(ユング心理学の用語)はどうあるべきか、という問題が考察されています。

「快楽は男女を自己にこもらせるといったところで、恋愛は幻想の交換であるといったところで気楽なものではないでしょうか。それは事実の一面を指摘しているにすぎないからである。もはや快楽のもどりゆく自己がなく、幻想を交換すべき他者が存しないとしたらどうであろうか。一郎は他者の存在からも「私が私である」愉快からも遠く隔たってあるのである。
ここに久作精神病理学、離人症(病)篇がはじまる。全集第四巻の巻末対談でなだいなだは、久作精神病理学に接すると精神科医である故に(中略)「離魂症だとか離人症だとかいう現象がある。それを科学的にとらえるんならいいけど、神秘的なものとしてとらえちゃうんですね。呪術的な世界と、それから科学的な現象とが常に結びついていく」と批判している。これでは諸君、ウッカリ気も狂えないではないか。これが物の解った(引用者注: 「物の解った」に傍点)精神科医の脳髄の中身なのだ。精神科医にまかせたなら、この世は合理的に管理されるに相違ない。その科学とは西洋流の唯物科学に他ならず、それは事実としての世界の一解釈にすぎないというのに。(中略)「学問の世界に国籍が関係をもたないことは言うまでもない。それだからこそ、われわれ日本人は、その独自の哲学思想の上に立つ独自の精神病理学を発展させることによって、精神病理学そのものを――従来は単に「欧米人の精神病理学」にすぎなかった精神病理学そのものを――根本から再検討し、再構成する任務を有しており、またこの任務を遂行する可能性を有しているのである。」と息巻いているのは精神科学者、斎藤寿八や正木敬之ではなくして、「ほかならぬ日本人である日本の精神病者の『自我障害』が、欧米的自我観にもとづいた理論によって分析され、理解され、治療されるという、奇態な事態」に憤り、精神病者の「自我障害」を「西洋哲学思想を借用することをやめて、できうるかぎり東洋的、日本的な自我観にもとづいた独自の精神病理学」によって解明しようとした書『自覚の精神病理』の著者、木村敏その人なのであった。よろしい、大いによろしい。(中略)デカルト的な自我に安住していたのでは「離人症を正しく理解するいっさいの手懸りは失われてしまう」と木村氏はいう。「われわれはまず、『自分』というものははたして存在するのかどうか、という疑問を抱かなくてはならない」のである。」
「日本人の自己あるいは〈自我〉はどのように把握すべきなのであろうか。占領軍司令官は我々を十二歳と評した。私は当時半分の六歳であったのだが、これは日本民族の自他一如の心境を評したものと思われた。前近代的なるものとして、西洋人からしばしば批判されるのは、日本人の〈個〉の確立が不徹底だという点にあるらしい。確かに、感情面における自他の区別のなさ、慣れ合い、(中略)等はすぐれて日本人的な現象であるといえよう。日本人の自己意識をその根底まで掘り下げてみると、自分のことであるような、相手のことであるような、自他の区別が判然としないような領域が存在することに気付くであろう。それが気という言葉で表現されているものなのだろう。」
「もともと〈気〉という言葉のさす領域において、「自己と相手とは、いっさいの言語的、表情的伝達に先立って、根源的、絶対的に結ばれているのである。自分の気に生じていることはそのまま相手の気に生じていることであり、相手の気の動静はそのまま自分の気の動静として自覚される。気の場所に立つ限りにおいて、自分と他人はそれぞれ絶対的な個別者としての歴史的身体でありながら、そこに自即他、他即自という絶対的無媒介的な同一性が成立しているのである。」人はこの気の領域における他人との同一性から自己自身を奪還して、自己実現をはからなければならないのである。」
「西洋人はどこまで逃げようとも、そこには神がおわしますのだ。よど号に乗って逃走し、ヘルメットと手ぬぐいで変身を試み、ゲバ棒を振り廻す一九六〇年代日本孫悟空連の行動がどなた様かの手のひらをくすぐったぐらいに終わらないためには、万国の〈私〉よ、さらに深く自閉せよ、と訴えるよりほかスベをしりません。」



狩々博士 ドグラマグラの夢 05

夢野久作による「瓶詰の地獄」カット。




こちらもご参照ください:

杉山龍丸 『わが父・夢野久作』

























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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