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オスカー・ワイルド 作/日夏耿之介 訳 『院曲サロメ』 (沖積舎)

オスカー・ワイルド 作/日夏耿之介 訳
『院曲サロメ』


沖積舎 2004年11月25日
122p 21×15cm 並装 カバー 定価2,500円



hinatsu salome 1


三島由紀夫がオスカー・ワイルドの一幕劇『サロメ』を演出するにあたって、上演用の台本として使用したのは角川文庫版日夏耿之介訳『サロメ』(昭和二十七年五月)でしたが、その角川文庫版に訳者自身が朱を入れた「訳者自訂本」が、河出書房新社版『日夏耿之介全集第二巻 譯詩・翻譯』(1977年6月27日初版/1991年11月30日2版)に収録された『サロメ』の底本になっています。
そのへんのところを、日夏耿之介全集の編集者であった井村君江の『「サロメ」の変容――翻訳・舞台』(新書館、1990年4月15日初版発行)によって見ると:

「決定稿と定めた角川文庫は三十年までに五版を重ねていたが、日夏はこの版もさらに「掌中の珠のように愛玩して削正」を加え、表現にほとんど全頁といっていいほど訂正を加えている。(中略)語の変更も多少あるが、(中略)一般に舞台で言いやすい台詞まわしにしようとの意図があったと推定されるのである。(中略)大きな訂正はないと言ったが、先に例としてあげた「約翰よ、わたし(わが身)はそなたの脣に接吻けがしたい(のぢや)。そ(なた)の脣に接吻けがしたい(のぢや)。」というサロメの台詞の( )のところが削られ変更があると、簡略化されて現代的直接的表現にはなるが、すると対話の相手との距離感が消え、また語調に身分の高さを感じさせていた荘重さも弱まるように思うのは不思議である。角川版がこれまで決定テキストであり、日夏訳はこれが三島由紀夫の演出をはじめ上演台本用として舞台で用いられていたため、一般観客としてのわれわれもすでにこの訳調が耳慣れていたせいもあろう。」

本書『院曲サロメ』 の本文は、『日夏耿之介全集』と同じです。


hinatsu salome 2


hinatsu salome 3


日夏耿之介にとっての『サロメ』翻訳の意義を、井村氏の著書によって見ると:

「同人誌を出しているいわば習作時代ともいえるこの二十二歳の大学生時代に、自ら選んで『サロメ』の訳筆をとりはじめ、最終稿は七十八歳のとき、飯田市、愛宕神社社畔の黄眠草堂の机上で朱を入れていた角川文庫版で、これをビアズリーでない挿絵を使って一冊にしたい意向をもっていた。このことは生前には実現しなかったが、いわば文学者としての最後に、日夏が本にして出したかったのは、このワイルドの『サロメ』だったということが判る。」

ここにいう「ビアズリーでない挿絵」はアラステアー(Alastair)による挿絵を指しています。
Oscar Wilde, Salomé, drame en un acte
Dessins de Alastair
Edition Georges Crès et Cie, Paris, 1922



日夏耿之介の翻訳の文体に関して、いま少し井村氏著書から引用しておきたいと思います:
 
「全体としてその訳語は三島由紀夫も言うように「瑰麗にして難解である」。しかし「口に出して読んでみると、力があり、リズムがあって、直に心に触れて来る名訳である」。この日夏訳を三島が選んだ一つの必然は、オリエントの品高い姫君の世界は、日夏訳でしか出せないという確信からであった。「日夏先生の翻訳はやってみて、実に感心しましたよ。上演台本としてよく出来ている。始めは無理かと思い、ひょっとしたら今のお客に耳から入るかしらと思いましたけれど、これが入るんですね」とは、上演後の座談会で洩らした三島の感想である。そしてさらに「だいたい日本語の性質から言って、単純な言葉はあまり美しくない、日本語はかえって難しい言葉ほど美しい」と言い、舞台で「傀儡(くぐつ)」(idle)とか、「騒擾(どよもし)」(noise)といった言葉が耳に快く響いたとも言っている。
たしかに日夏訳は(中略)「そなたの公主(むすめ)はほんに怪異(けし)い(monstrous)女子(おなご)ぢや」というように、漢字に大和言葉でルビを付した語が多いが、一つの言葉に視覚と聴覚の重層的な効果を与えようとする「ゴシック・ローマン詩体」と呼ぶ日夏詩の用語法が、サロメの台詞に充分生かされており、かえって古代世界の華奢で古雅な雰囲気、(中略)「他界の如く重々しき古代美」を醸し出すのに成功しているといえよう。」



サロメ 三島由紀夫 岸田今日子


三島由紀夫演出『サロメ』の主演は岸田今日子。
同じく井村氏の著書より:
 
「彼女の父岸田國士の一周忌の席上で三島が日夏と出会いサロメ上演の話が出たこともその原因の一つであろう。(中略)著者は直接、次のように言われた言葉を随筆の中に書いたことがある。
「(中略)サロメは一度、岸田國士と上演を計画したのだが、彼の死によって果さなかった。このイスラエル王女には、線の細い良家の子女で、繊細な容姿とそこに強い情熱を秘ませている女優でなければいけないのだよ」
(中略)どんな女優さんならいいのでしょうか? と質問すると、「岸田の今日子ちゃんのような人がいいね」と答えられたことをよく記憶している。サロメ上演を岸田國士の法要の席で語り合ったとき、日夏はこのことをおそらく三島に語ったであろうことが推測されるので、三島の裡に当初から岸田今日子のサロメがあったと思われるのである。」





  
日夏耿之介の翻訳について。
 
冒頭のスリヤ人と侍僮の台詞:
 
若き叙利亜人(スリヤびと)
今宵(こよひ)のあの撒羅米公主(サロメひめ)のあてやか(原文漢字表記)さはなう!

王妃希羅底(ヘロデヤ)の侍僮(じどう)
あの月を御覧なされ。あの月のかげの妖しいことはどうぢやて、奥津城(おくつき)のなかから脱けでた女人(にょにん)のやうぢや。亡(なくな)つた女子(おなご)のやうぢや。死人だちを捜してゐるやうにも感ぜられまするてな。

若きスリヤ人
公主(ひめ)さまはほんに不思議に見ゆるなう。黄色い面紗(ヴェール)をかむりなされ、銀(しろがね)の足をなされた小さな公主(ひめ)さまのやうぢや。両の脚が白い鳩になつてをる小さな公主(ひめ)さまのやうぢや。公主(ひめ)さまは、踊りを踊つてをられるやうにも感ぜられるわい。

王妃ヘロデヤの侍僮
月は亡くなつた女子(をなご)のやうぢや。ほんに徐々(そろそろ)と蠢(うご)めいてゆく。


日夏耿之介の翻訳は難解である、とよく聞きますが、ここでの問題は、わかりやすすぎる、ということです。

原文を引きます(※1):

THE YOUNG SYRIAN
How beautiful is the Princess Salome to-night!

THE PAGE OF HERODIAS
Look at the moon. How strange the moon seems! She is like a woman rising from a tomb. She is like a dead woman. One might fancy she was looking for dead things.

THE YOUNG SYRIAN
She has a strange look. She is like a little princess who wears a yellow veil, and whose feet are of silver. She is like a princess who has little white doves for feet. One might fancy she was dancing.

THE PAGE OF HERODIAS
She is like a woman who is dead. She moves very slowly.

 
スリヤ人と侍僮の最初のセリフは、それぞれ「王女サロメ」と「月」を差していて、二人が別々の事柄について喋っているのだということがわかりますが、それ以降のセリフは代名詞「she」で統一されているので、その「she」が王女を指すのか月を指すのか、読者あるいは観客は一瞬、混乱します。若きスリヤ人の二番目のセリフは、サロメについてですが、サロメのことを she としか言っていないので、読むほう(聞くほう)では、直前の侍僮のセリフに応じて月のことを言っているのではないかと錯覚する可能性があります。ここで語られているサロメの形容も、そのまま月の形容として違和感無く当てはまるものです。ここに作者によるトリックが仕掛けられていて、読者あるいは観客の頭の中でサロメと月が「she」という人称代名詞によって重ね合わされて、ダブルイメージ化されるので、次の侍僮が月について言うセリフ「She is like a woman who is dead」(彼女は死んだ女のようだ)を、読者あるいは観客は、同時にファム・ファタルとしてのサロメを形容するものとして受け取ることになります(※2)。
(そして実際のところ、少女サロメの美しい外見をひたすら讃えるスリア人に対して、侍僮は月に仮託してサロメの内面の邪悪を語り、スリヤ人に警告を与えている、というのがこの会話の裏の意味です。)

そういうわけで、「公主(ひめ)さまは」「月は」というように、主語をはっきりさせて「わかりやすく」訳してしまうのは、この場合どうなのかな、と思いました。

※1 厳密にいうとワイルドの原文はフランス語(1893年刊行)ですが、説明の便宜上その翌年に刊行された英語版から引用します。日夏訳の底本も英語版です。
イギリスの作家がフランス語で書き下ろした古典的名作というと、ベックフォードのゴシック小説「ヴァテック」の前例がありますが、ワイルドはアイルランド人なので、むしろ「サロメ」はベケットの「ゴドーを待ちながら」の前例であるというべきかもしれません。
それはともかく、「サロメ」の英訳は、ワイルドの「愛人」だったダグラス卿(Lord Alfred Douglas)に花を持たせようとの目的で依頼されましたが、ダグラス卿の翻訳は「ne... que ~」を否定の意味に取って、「人は鏡に映ったものしか見てはならない」を「人は鏡に映ったものを見てはならない」と訳したりするようなひどいものだったので(Richard Ellmann "Oscar Wilde", 1987)、ワイルドが誤訳を指摘すると、そもそもワイルドの原文が間違っているのだと開き直って訂正しようとせず、挿絵を担当したビアズレーが英訳を買って出たりしたものの、結局ワイルド自身が手直ししたものが出版されたようです。

※2 この「She is like a woman who is dead.」や、その前の「She is like a woman rising from a tomb. She is like a dead woman. One might fancy she was looking for dead things. 」は、ワイルドが私淑していたウォルター・ペイターが、著書『ルネッサンス』で「モナリザ」について書いた、
「She is older than the rocks among which she sits; like the vampire, she has been dead many times and learned the secrets of the grave.」
(吸血鬼のように、彼女は何度も死んで墓の秘密を知った)
という文章へのアリュージョン(ほのめかし)であろうと思われます。

ところで、フランス語だと、月(la lune)は女性名詞なので、月をさす代名詞は「elle」(彼女)です。英語や日本語で月を「she」「彼女」と呼ぶと、殊更に擬人化しているような感じになりますが、フランス語なら月を「彼女」と呼んでもそういった違和感はないので、もしかしたらそれがワイルドが「サロメ」をフランス語で書いた理由かもしれないです。

そして、実のところ、日夏耿之介があえて「公主(ひめ)さまは」「月は」等に置き換えて訳しているのは、わかりやすくするためというよりは、「彼女」というようなヤクザな日本語は使いたくないという美意識に基づいているのだと思われます。



こちらもご参照下さい:
井村君江 『「サロメ」の変容 ― 翻訳・舞台』
オスカア・ワイルド 原作/オオブリ・ビアズレイ 挿画/日夏耿之介 翻訳 『院曲 撒羅米(サロメ)』 (東出版)















































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