H・E・ノサック 『影の法廷・ドロテーア』 川村二郎 他 訳 (新しい世界の文学)

「自分は彼らの仲間ではないと思ったのは、この時が最初でした。」
(H・E・ノサック 『影の法廷』 より)


H・E・ノサック 
『影の法廷・ドロテーア』 
川村二郎 他 訳 

新しい世界の文学 5

白水社
1963年11月20日 第1刷発行
1971年7月20日 第3刷発行
296p 口絵(モノクロ)i 
四六判 並装 カバー 
ビニールカバー
定価650円
装幀: 北園克衞



Hans Erich Nossack, Unmögliche Beweisaufnahme, 1959

ハンス・エーリヒ・ノサックの最初の日本語訳作品集。長篇「影の法廷」(川村二郎訳/原題「不可能な証拠調べ」)と短篇「ドロテーア」(松浦憲作訳/短篇集『死とのインタヴュー』より)の二編を収録しています。


ノサック 影の法廷 01


目次:

影の法廷 (川村二郎 訳)
ドロテーア (松浦憲作 訳)

解説 (川村二郎)



ノサック 影の法廷 02



◆本書より◆


「影の法廷」より:

「ある出来事がひとりの男を不眠症にした。彼はみずからの生涯をふりかえり、徹底的に考えぬこうと努力する。ひとりで幾役も受けもって、彼はわれとわが身に対する裁判をおこなう。みずからをうったえ、みずからを弁護し、最後には安息を見いだすために、みずからに恩赦をあたえようとこころみる。だが、彼の思考の螺旋(らせん)が眠りの中にまさに没入しようとする刹那、それはかならず彼の生涯の別の断片に突きあたり、あらためて不眠の仮借ない薄明の中へ引きさらわれてしまう。
 おそらくこの男は、ついには戦いを放棄しなければならないだろう、そして寒さにふるえながら窓辺にたたずむだろう。そとはもうほのかに明るみ、鳥たちがさえずりはじめている。」

「わたしには友人がありません、と被告はいった。」

「そこにはなんの秘密もありません。おそろしく簡単なことです。結婚した時に、決して子どもをつくるまいという点で意見が一致したのです。」

「ただわたしがおそれるのは、誤解されはしないかということです。もうこれまで何度か、誤解されているのですからね。」

「どうしてはずかしがることがあるの、とわたしはたずねました。町風の服が一着もないのよ、と彼女はいいました。今どんな服をみんなが着ているのか、何も知らないのよ。だんだんに買いそろえて行かなくてはならないわ。変に思われないように、ひとと歩調をあわせて行かなくてはね。」

「ひとに会えば挨拶(あいさつ)しなければならない、そして、ごきげんいかが? とたずねられる、これは実にわずらわしいことです。――あなたはあまり社交的な性質ではありませんね?――なんともいえません。もちろんひとりでいる方がこのましくはありました、特に最近は。しかしそれがわたしのせいだったということはないでしょう。――では誰のせいです?――周囲の事情のせいですね。そういうことになってしまったのです。結婚した当座妻とわたしは、他人の通りに、わたしたちの目にうつった他人の生活をそのまままねて生活しようと、なん度もくりかえし努力して見ました。そうした方が、まったくのところはるかに簡単だったのです。だからこそ努力もして見たわけです。しかしそれは成功しませんでした。そのころわたしはよく家に客をよんだり、ひとの家を訪問したりしたものでした。近所に住んでいる妻の知りあいや、わたしの仕事関係の友人たちを。しかし一、二度くりかえすと、別にこれといった理由もなしに、この交際はいつも自然にとぎれてしまいました。交際がごく自然のものになることは決してなかったのです。客が来た時には、妻とわたしとはほんとうにずいぶん気を使ったものです。接待には思いきって金をかけました。ほかの人たちのつきあいや、客のもてなし方とくらべて見れば、実際みなわたしたちの家へ来るのをよろこばねばならないはずでした。それにもかかわらず、わたしたちは成功しなかったのです。なぜうまく行かないのだろうと、妻とわたしはよくわれとわが胸に問うて見たのですが、理由を見いだすことはできませんでした。結局、そのために幻滅を味わうことをわたしたちはやめました。」

「「証人たちはみな」と裁判長はいった、「あなたがたがなみはずれて規則正しい生活をおくっていたといっています。それは本来ならほめことばと考えるべきものでしょうが、しかし証言のアクセントが、《なみはずれて》というところに特に強くおかれているのは、どういうわけですかな?」」

「「あなたの生活、あなたの結婚生活、それはたしかに、ある程度模範的なものと見ることができるかもしれない。だが、あなたについてのすべての積極的な意見の中には、一種のためらい、より的確にいえば、一種の疑惑がみとめられるのです。いいかたをかえて、もっとはっきりさせて見ましょうか。あなたをどう思うかとたずねると、ひとびとは、たとえば(中略)《あの人はきちっとした人間です》とはいわない、そうではなくて、どこか奥歯にもののはさまったような口調で、《彼について不都合なことは何もいえません、いいようがありません》という。まるで、不都合なことがどこにも見つからなかったのは、ふしぎだといわんばかりの調子だ。この区別がわかりますか?」
 「みんなわたしを信用していないのです」と被告は微笑しながらいった。
 「そう、その通り。いったいなぜでしょう?」」

「自分は彼らの仲間ではないと思ったのは、この時が最初でした。明日(あす)になればまたかわるだろうと、その時はまだ期待していたのです、というのもわたしには他人がうらやましかったのですから。一生月給とりでおれたらよかったでしょう、しかしその運命はわたしにはめぐまれなかったのです。そのことを彼らに気どらせてはならなかった、彼らを侮辱することになったでしょうから。ついには、誰(だれ)かに握手をもとめられることさえわたしにとっては苦痛になりました。手をさしだしてからあわててまた引っこめた相手が、ふしぎそうにその手をしげしげと見つめるのを、いつも待ちうけているようなものでした。彼らは何かガラス板のようなもので、わたしからへだてられていたのです。いや、ガラス板ではない、それだったらわたしに手をさしだすこともできなかったでしょう。むしろ真空のすきまのようなものでした。事務所でも、通りでも、酒場でも、どこでもわたしはこのすきまを、目に見えない覆(おお)いのように身につけてもちまわっていたのです。わたしは他人をがっかりさせたくはありませんでした。しかしこの覆いをつきやぶろうとすると、たちまちわたしはふるえ、汗ばみ、寒気を感じはじめるのでした。」
「自分の身にふりかかることにさからおうとはしませんでした、はじめからその無意味さを知っていたからです。(中略)できるかぎりそっと人目につかぬように、わたしはすべてを甘受しようと思いました。それが正しいただひとつの道でした。けれども、その原因がよくわかっていないことを、どうして甘受したらいいのでしょう? (中略)自分が死刑の宣告をうけているとわたしは知っていました。(中略)みなさんが死刑を廃止されたことはよく知っています。しかしそれでも、死刑の宣告をうけたとわたしがいっても、すこしもおかしなことはないのです。(中略)しかしこの死刑囚というものは、もうそれだけで特別な存在なのです。病人か聖者のようなものです。もう仲間からはずれているのだが、あいにくなことにまだその場にいる。気にすまいと思いながらどうしても気にしないわけには行かないので、彼と応対するには、いきおい極端に何気なさそうな態度がとられることになる。」

「自分が犯罪をおかしたということをわたしは知っています。(中略)しかしどんな犯罪なのか、それがわたしにはわからない、いつということも、どんな工合にということも、なぜしたのかということもわからないのです。」

「わたしはそこに立ったままで、いっさいはそれまで通りまたわけのわからぬ曖昧(あいまい)さへもどってしまうのです。汗が全身にふきだすのはこのような瞬間です。そとでは世界が回転している、すべてが東から西へとはしっている、ただわたしひとりがいつも同じところに立っていなくてはならないのです。」

「けれども彼女は、たとえていえば、医者に見はなされていたのです。すぐそれとわかる病気、病院の手におえる病気ではありません、そもそも病気ではなかったのでしょう、このことばはまぎらわしい。病気とは別の、ある状態だったのでしょう。見はなされたひとびとの数は、わたしたちが思うより、どうやらかなり多いようです。まだ見はなされていないひとびとを、彼らは非常に大きな牽引力でもってひきつけさえするのです、どうしてかはわかりませんが。しかしともかくこの牽引作用からは、いつも不幸と破滅しか生まれません。わたしたちふたりの場合は事情がちがっていた、わたしたちは同じ側に属していたのです、そこからやっと反対側を傍観することしかできない側にいたのです。」

「わたしと妻にとっては、もうことばをかわすなんの必要もなかった、わたしにはただ単純にそう思われるのです。」

「しかし雪はすばらしい恩恵でした、つめたくやわらかく、静かで、孤独で。ああ、雪にはなんでも安心してうちあけることができるのです!」

「雪は彼らに孤独をおくろうとする、しかし彼らはおくりものを受けとらない、そしてついに、窒息してしまうのです。」
「孤独にふさわしくないふるまいをわたしは見せたのでしょうか? 自分のもつ唯一の可能性をわたしはうらぎったのでしょうか?」





こちらもご参照ください:

H・E・ノサック 『おそくとも十一月には』 野村琢一・河原忠彦 訳 (新しい世界の文学)


















































































































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