ビューヒナー 『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』 岩淵達治 訳 (岩波文庫)

「あの人は子どものような人だった。まるでこの世界はあの人にとっては広すぎるといったふうで、それであの人は自分のなかに引きこもってしまったのです。あの人は家のなかで一番狭い場所を探して自分の幸福はその小さな一点にしかないように坐っていました。」
(ビューヒナー 「レンツ」 より)


ビューヒナー 
『ヴォイツェク 
ダントンの死 
レンツ』 
岩淵達治 訳 

岩波文庫 赤/32-469-1 

岩波書店
2006年10月17日 第1刷発行
2008年4月25日 第2刷発行
364p 16p 
文庫判 並装 カバー
定価800円+税



Georg Büchner: Lenz/Woyzeck/Dantons Tod

「解説」中に図版1点。


ビューヒナー ヴォイツェク ダントンの死


カバー文:

「ドイツの自然科学者・劇作家ビューヒナー(1813-1837)は、23歳と4ヵ月の短い生涯を彗星のごとく全力で駆け抜けた。残された作品はわずかだが、いずれもずば抜けた先駆性を持っている。その一切の規定を拒む〈規格外〉の作品は、不死鳥のように永遠の若さを保ち、新たな輝きを放ち続けるだろう。戯曲2篇、短篇小説1篇。」


目次:

レンツ
ヴォイツェク
ダントンの死

訳注
解説
『ダントンの死』関係人物一覧
ビューヒナー略年譜




◆本書より◆


「レンツ」より:

「彼は山頂で腰を下ろした。夕暮近くなると、前よりいっそう静かになった。雲の塊は天にぴたりと貼りついたように動かない。見渡すかぎり目に入るものは、裾野(すその)をひろげていく峰々の頂きばかり。すべてのものがしんと静まり返り、灰色に黄昏(たそが)れてきた。彼はぞっとするほど淋(さび)しくなった。ひとりだった、まったくひとりきりだった。自分と対話しようとしてみたが出来なかった、呼吸することさえ出来そうになかった。足をそっと踏み出しただけでも、下のほうで雷のような音が轟(とどろ)いた。そこで腰を下ろすよりほかなくなった。この虚無のなかにいると名状しがたい不安に襲われた。虚無に包み込まれた、そう思うと振り切るように跳ね起きて、飛ぶように斜面を下った。真っ暗になっていた、天と地がひとつに溶け合っていた。何かに後を追われているような気がした。ぞっとするような、人間には堪(た)えることができないようなものに、きっと追いつかれるような気がした。まるで白馬に打ち跨(またが)った狂気が後ろから追いかけて来るようだ。」

「彼がどうにかもちこたえたのは、谷に陽(ひ)のあるあいだだけだった。夕方になると彼は異常な不安に襲われて、太陽の後を追いかけたくなるほどだった。すべての物の上に徐々に影が落ちてくると、彼には一切が夢のように定かでない、たまらなくおぞましいものになってしまった。彼は暗闇で眠っていた子どものような不安に取りつかれた。自分が盲目になったような気がした、こうなると不安はますます募り、自分の足元に狂気という夢魔が坐り込んだ。」

「彼は泉に飛び込んだ。突然の激しい水の刺激が彼の気分をよくした、何かの病気に罹(かか)りたいというひそかな希望さえ抱(いだ)いた。」

「彼の胸に迫る思い、音楽、苦痛が彼をわななかせた。万有が彼のために傷を負っている、彼はその深い名状しがたい苦痛を感じた。」

「それぞれの人間の持つ独自性に迫っていくためには、人間の本性というものを愛さなければならない。誰のことも卑し過ぎるとか醜(みにく)すぎるとか考えてはならない、そうであってこそ初めて人間の本性を理解できるのだ。最も無価値に見える顔でさえも、実体のない美を感受することよりは深い印象を与える。そして、自分に向かってあふれ迫ってくる生命も筋肉も脈拍も見当たらない時には、外界の対象を取り上げて模写するよりは、自分の内部から形象を生成させたほうがいいのだ。(中略)自分が詩人や造形美術家のなかで最も評価するのは、自然を最もリアルに表現しているため、自分がその作品に没入できるような人々だ。」

「彼の状態はそのうちにますます救いようのないものに悪化していった。(中略)彼には憎しみも愛も希望もなかった、あるのはただ空虚と、それでもその空虚を満たそうとする拷問のような苛立(いらだ)ちばかり。彼には何もなかった。(中略)ひとりだけの時は、彼は恐ろしく孤独だったので、絶えず大声で自分相手に対話していたが、叫ぶこともあり、そして自分でびっくりするのだった。他人の声が自分と話しているような気がしてきたのだ。対話の最中にも彼はよく言葉がつかえてしまい、言いようのない不安に襲われた。」

「彼はしばしば頭を壁に打ちつけたり、それ以外の方法で自分に激しい肉体的な苦痛を加えたりした。」

「「何も聞こえませんか、あのすさまじい声、ふつう人々が静寂と言っている声が、地平線全体にわたって叫びをあげているのが聞こえませんか? この静かな谷に暮らすようになってから、僕にはいつもそれが聞こえるのです、それが僕を眠らせてくれません。」」

「陰鬱な雨模様のなか、ストラスブールに到着した。彼はまったく正常に見え、人々とも話をした。ひとがすることを何でも同じようにやった。しかし、彼の内部には恐ろしい虚無が宿っていた。彼はもう何の不安も何の要求も感じなかった。自分の存在が彼には逃れることのできない重荷だった。――そのように彼は生き続けていった。」



「ヴォイツェク」より:

「はい大尉殿、その徳ってやつでありますが! どうも自分には徳は積めないようであります。よろしいですか、自分らのような低級な人間には徳は持てないのであります、自然のままにしかなりません、でも自分だってもし旦那衆(だんなしゅう)のように帽子や時計や礼服(アングレーゼ)を持ち上品な口がきけますものなら、道徳的になってみたいものであります。きっと徳ってのはすばらしいものでありましょうね、大尉殿、でも自分は素寒貧(すかんぴん)でありますので。」

「いい天気でありますね、大尉殿。きれいな、どんより淀(よど)んだ空のど真ん中に丸太ん棒をぶちこんで、首を吊りたくなってきますよ、」

「昔かわいそうな子どもがいてね。父親も母親もいない、みんな死んでしまってこの世にはもう誰もいなかったのさ。みんな死んでしまったので、その子は出かけていって、夜も昼も探したのさ。でも、この世にはもう誰もいなかったので、天に昇ろうと思った。お月様が優しく照らしてくださったので、やっとお月様の所に行ってみると、それは腐った木のかけらだった。今度はお日様の所へ行こうと思って、お月様の所へ行ってみると、それは枯れた向日葵(ひまわり)だった。今度はお星様の所に行ってみたら、それは小さな金色の油虫(あぶらむし)だった。百舌(もず)が李(すもも)の棘(とげ)に突き刺しておくように串刺しになってたんだよ。それで仕方なく地球に帰ってみると、それはひっくり返った壺(つぼ)だった。だからその子はほんとうにひとりぼっちになって、なかに坐って泣いたんだよ。今でもその子はそこに坐ってひとりぼっちでいるんだとさ。」



「ダントンの死」より:

「あたしってとても敏感で、自分のまわりにある一切のものと、感覚だけでつながってしまうのよ。」

「他の人たちには日曜日とウィークデイがあるでしょ。みんな六日働いて七日目にはお祈りをするわ、毎年一度は自分の誕生日が来ると感動し、毎年一度は年頭所感なんてものをひねってみる。あたしにはそういうことがまるで分からないの。あたしは区切りとか変化なんてことをまるで知らないのよ。あたしはいつもただ一つなの。ひっきりなしに一つのことだけ憧れて手をのばしてつかまえるの、一つの炎、一つの流れなのよ。母さんはそういうあたしを苦にして死んでしまったの、あたし世間の人に後ろ指をさされたわ。馬鹿馬鹿しいことね、どんなことに喜びを感じようと、結局は同じことでしょ。」

「僕らの心の底に潜んで嘘をついたり、淫売したり、盗みや人殺しを働くものの本体は何なのだろう?
 僕らはみんな操り人形さ、見も知らぬ強い力で操られているんだ。僕ら自身は無だ、無なんだよ!」





こちらもご参照下さい:

『名作オペラ ブックス 26 ベルク ヴォツェック』
飯吉光夫 編・訳 『パウル・ツェラン詩文集』





















































































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