プリーモ・レーヴィ 『アウシュヴィッツは終わらない』 竹山博英 訳 (朝日選書)

プリーモ・レーヴィ 
『アウシュヴィッツは終わらない
― あるイタリア人生存者の考察』 
竹山博英 訳 

朝日選書 151

朝日新聞社 
1980年2月20日 第1刷発行
1998年12月25日 第10刷発行
vi 264p 目次2p 
四六判 並装 カバー
定価1,400円+税
装幀: 多田進



本書「訳者あとがき」より:

「本書は一九四七年にシルヴァ社から出版され、五八年にエイナウディ社から再刊された。」
「一九七三年に、中、高校生むけの読み物を集めた学生版のシリーズに、本書が加えられることになり、その時、新たな序文「若者たちに」と地図と詳細な注がつけられた。そして一九七六年に、三十年後の著者の考えをまとめた「若い読者に答える」が加えられた。本書はこの一九七六年の学生版を底本にしている。」
「本書の原題は Se questo e' un uomo (これが人間か)で、冒頭に掲げられた詩からとられている。」



レーヴィ アウシュヴィッツは終わらない


帯文:

「考え、判断することが死に直結した強制収容所。この20世紀の地獄を生きのびた著者が、人間の尊厳・ファシズムの本質について静かに問いかける。『夜と霧』『アンネの日記』にならぶ現代の古典。」


帯背:

「これが人間か
考えてほしい」



帯裏:

「人を殺すのは人間だし、不正を行い、それに屈するのも人間だ。だが抑制がすべてなくなって、死体と寝床をともにしているのはもはや人間ではない。隣人から四分の一のパンを奪うためにその死を待つものは……人間としての規範からはずれている。私たちの存在の一部はまわりにいる人たちの心の中にある。だから自分が他人から物とみなされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ。
――本文より。」



目次:


若者たちに


地獄の底で
通過儀礼
カー・ベー
私たちの夜
労働
良い一日
善悪の此岸
溺れるものと助かるもの
化学の試験
オデュッセウスの歌
夏の出来事
一九四四年十月
クラウシュ
研究所の三人(ディー ドライ ロイテ フォン ラボール)
最後の一人
十日間の物語

若い読者に答える


訳者あとがき




◆本書より◆


「地獄の底で」より:

「「なぜだ(ヴァルム)?」私は下手くそなドイツ語で尋ねた。「ここにはなぜなんて言葉はないんだ(ヒア イスト カイン ヴァルム)」男はこう答え、私を突きとばして中に押しこんだ。」

「これが私たちの生活だ。毎日、あらかじめ定められたリズムに従って、出隊し(アウスリュッケン)、帰隊する(アインリュッケン)。働き、食べ、眠る。そして病気にかかり、治るか、死ぬ。
 ……いつまで続くのか? 古参の囚人はこの問いを笑う。(中略)古参のものにとっては、何ヵ月も、何年も前に、遠い未来の問題は色あせ、切実さを失っている。今日はどれくらい食べ物があるだろうか、雪は降るだろうか、石炭を降ろす作業はあるだろうか、といった、目と鼻の先の、ひどく具体的でさし迫った問題で、頭が一杯になっているからだ。」



「カー・ベー」より:

「周囲一帯には、鉄条網が、境は見えないのだが、私たちを世界から分離しようと、悪意をこめて張り巡らされているのが感じられる。そして足場の上、動いている汽車の上、道路、穴の中、事務所に、人また人がいる。奴隷たちと主人たち。だが、奴隷も主人も同じだ。不安が奴隷を、憎しみが主人を動かし、残りの徳性は口をつぐんでいるからだ。みなが敵か競争相手なのだ。」

「曲の種類は少ない。一ダースほどだ。朝と晩、毎日同じ曲が演奏される。ドイツ人にはみなおなじみのマーチや流行歌だ。私たちの頭にはこうした音楽が深く刻みこまれている。(中略)ラーゲルの声だ。私たちの人間性をまず破壊し、次いで肉体を徐々にむさぼろうとする他者の決意を示す声なのだ。
 この音楽が聞こえ出すと、霧の深い広場で、仲間たちが、自動人形のように行進し始めるのが分かる。彼らの魂は死んでいる。だから風が枯れ葉を舞わすように、音楽が彼らをせき立て、意志の代役を勤めるのだ。(中略)囚人は一万人ほどいるが、一つの灰色の機械にすぎない。彼らは用途の限られた存在だ。何も考えず、何も望まず、ただ歩くだけだ。」



「私たちの夜」より:

「そこには妹と、だれだか分からないが、私の友人と、ほかに人がたくさんいる。(中略)自分の家にいて、親しい人々に囲まれ、話すことがたくさんあるのは、何とも形容し難い、強烈で、肉体的な喜びだ。だがだれも話を聞いていないのに気づかないわけにはいかない。それどころか、まったく無関心なのだ。私など存在しないかのように、自分たちだけで、他のことをがやがやとしゃべっている。妹は私を見て、立ち上がり、何も言わずに出てゆく。
 すると心の中にひどく心細い悲しみが湧いてくる。(中略)それは外部の事情や現実を意識する以前の、純粋状態での悲しみだ。子供が訳もなく泣き出してしまう時の悲しみだ。」
「夢はまだ生々しく残っている。目は覚めているが、夢の不安がまだ私をせめさいなんでいる。(中略)私の頭ははっきりしてくる。そしてアルベルトにもこの話をしたのを思い出す。すると驚いたことに、彼は、自分の夢も同じだ、(中略)おそらく全員の夢がそうなのだ、と教えてくれた。なぜこんなことが起こるのだろう? なぜ毎日の苦しみが、夢の中で、こうも規則的に、話しても聞いてもらえないという、いつも繰り返される光景に翻訳されるのだろうか?」



「溺れるものと助かるもの」より:

「人間の歴史や生活にはしばしば、「持つものには与え、持たないものからは奪え」という恐ろしい法則が見られるようだ。個々人が孤立していて、原始的な生存競争の法則に支配されているラーゲルでは、この不正な法則が大っぴらに横行し、公認されている。強く狡猾なもの、適応しているものとは、上長も進んで接触を持ち、時には仲間扱いする。あとで何かに役立てようと思っているからだ。だが、崩壊しつつある回教徒(原注: 収容所の古参囚人は衰弱し、力を失った、選別の候補者のことを、「回教徒」と言っていた。)にわざわざ言葉をかけるものはいない。(中略)友だちになってもまったくむだだ。収容所に抜きん出た知りあいがいるわけではないし、配給以外のものは食べていないし、有利はコマンドーで働いているわけでもないし、組織化する秘密の方法を知っているわけでもない。それに通り過ぎてゆくだけで、何週間かしたら近くの収容所で一握りの灰になってしまい、記録簿に印つきの登録番号しか残らないのが分かっているからだ。彼らは無数にいる同類の群れに入れられ、休みなく引きずり回される。彼らは、だれにもうかがい知れない孤独をかかえながら、体をひきずり、苦しみ、孤独のうちに死ぬか姿を消し、だれの記憶にも跡を残さない。」


「若い読者に答える」より:

「私は自分の思想や行動を、できる限り理性の側に近づけたいと思っている。だから私は、復讐や個人的報復をしたい、あるいは真の敵や仮想の敵に苦痛を与えてやりたい、という幼稚な願望として、憎しみを抱いたことはない。それに憎しみとは個人的なもので、ある特定の個人、名前、顔に向けられるものだ。ところが、当時私たちを迫害したものが、顔も名も持っていなかったことは、この本からも読み取れるはずだ。彼らは遠く離れ、目に見えず、近づき難かった。」

「ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだった。そしてファシズム自身のせいで起きた、第二次大戦の大災害から、ようやく抜け出してきた社会に、ずっと適合した形をとっていた。前よりも分かりにくく、もう少し新しい立派な衣裳をつけて、再度姿を現わそうと、だんまりをきめこんでいる最中だった。新しくもないある種の顔、古くさい嘘、尊敬を求めるある種の人物、ある種の放縦や黙認を目の前にして、私は憎しみに走りたい誘惑にかられた。それもかなり強く感じたことを告白しておかねばならない。」





こちらもご参照下さい:

プリーモ・レーヴィ 『溺れるものと救われるもの』 竹山博英 訳

































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