ロレンス・スターン 『トリストラム・シャンディ (中)』  朱牟田夏雄 訳 (岩波文庫)

ロレンス・スターン
『トリストラム・シャンディ (中)』
朱牟田夏雄 訳

岩波文庫 赤/32-212-2

岩波書店 
1969年9月16日 第1刷発行
1990年3月8日 第7刷発行
378p
文庫判 並装 カバー
定価570円(本体553円)
カバー: 中野達彦



Laurence Sterne: The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, 1760-67
『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』

ホガースによる挿絵1点。


スターン トリストラムシャンディ


カバーそで文:

「めまぐるしく移り変わる連想の流れ。読者はその流れのまにまに漂いながら、一種不思議なユーモアの世界に引きこまれてゆく。」


目次:

第四巻
第五巻
第六巻

訳者注



スターン トリストラムシャンディ 中 01



◆本書より◆


「第四巻」より:


「ところで弟よ、話が肝腎な点に近づいて来たので、父は人さし指をもとにもどしながら申しました、――もしもあの息子が無事にこの世に姿をあらわして、ああいう大事なところを人身御供(ひとみごくう)にとられていなかったのなら――わしの例の名前についての持論、名前のよし悪しが不可抗的に人間の性格や行動に魔法的な偏向を及ぼすというあの説の持主としてこのわしが、世間の目にどんなに気まぐれにまたどんなに無茶苦茶に見えようとも――天も照覧あれ! わが子の繁栄をねがう心(しん)からの気もそぞろな願望をこめて、あの子の頭に、ジョージとかエドワードとかいう名前がその周囲にひろげてくれる以上の栄光や名誉を、かぶらせようとはしなかったことだろう。
 だがやんぬる哉! 父はつづけました。この上ない大災難があの子の上を見舞った今――わしはこの上ないよい運命を持って来てあの災難の埋め合わせ、あるいは取消しをはからねばならん。
 弟よ、あの子にはトリスメジスタスという名をつけることにする。」

「――このトリスメジスタスというのは、と今度は父は踏み出した脚をまた引き戻して、叔父トウビーのほうにむきなおりながら、つづけました――この地上のあらゆる存在の中で最も偉大な存在だったのだ(トウビー)――最も偉大な国王でもあり――最も偉大な法の制定者でもあり――最も偉大な哲学者でもあり――それに最も偉大な司祭――技術家としてもでしょうな――叔父トウビーが申しました。――
 ――もちろんだ、父が答えました。」


「私は十二ヵ月前の今ころ、つまりこの著作にとりかかった時にくらべまして、ちょうどまる一ヵ年、年をとっております。そして、今、御覧の通り第四巻のほぼまん中近くまでさしかかっているわけですが――内容から申せば、まだ誕生第一日目を越えておりません――ということはとりも直さず、最初に私がこの仕事にとりかかった時に比べて、今日の時点において、これから書かねばならぬ伝記が三百六十四日分ふえているということです。従って私の場合は、今までせっせと骨を折って書き進めて来たことによって、普通の著作家のようにそれだけ仕事が進行したというのではなく――逆に、四巻書けばちょうどその四巻分だけうしろに押しもどされたことになるのです――それは私の生涯の毎日毎日がもしもこの日のように忙しい日ばかりというのならですが――そうでないという保証はどこにもありますまい――また、それをいちいち記録して意見まで述べてゆくのには、何しろ今の調子ですと私のペンの速さの三百六十四倍の速度で私は生活してゆくわけですから、まさにそれに匹敵するだけの記述が必要になる理窟ですし――それを短く切り詰めてよいという理由はどこにもないでしょう?――そこで必然的に結論できることは、諸賢のおゆるしをいただいて申してしまえば、私が書き進めば書き進むほど、書かねばならぬことはそれだけふえてゆくということ――また当然諸賢のほうは、読み進めば読み進むほど、読まねばならぬことがそれだけふえてゆくということになります。
 こういうことは諸賢の眼のためによいことでしょうか?
 いえ、私のほうならご心配なく。私の「意見」を書き綴っているうちに過労でこの私の命が尽きてしまうということさえないなら、私はここに書かれるこの私の生涯をもとに、立派な一つの生涯を送って見せるつもりです――ということは言いかえれば、立派な二つの生涯を共存させて見せるということなのです。」



「第五巻」より:


「父は部屋を一まわりし、それからまた腰をおろして、話の結末をつけました。
 ここでわれわれが問題にしている補助動詞というのは、父はつづけました、am, was, have, had, do, did, make, made, shall, should, will, would, can, could, ought, used といったたぐいの言葉だ。――これらを現在、過去、未来のすべての時制に応じて変化させ、またたとえば「見る」という本動詞をつけて活用させるのだ。――あるいはまたつぎのような疑問形をつけ加える――Is it? Was it? Will it be? Would it be? May it be? Might it be? さらにはまたそれらを否定形にする。Is it not? Was it not? Ought it not?――あるいは肯定形――It is, It was, It ought to be. あるいはそれに時の観念がむすびつく――「いつもそうだったか」「最近そうだったか」「どれくらい前にそうだったか。」あるいは仮定の形とむすびつく――「もしそうなら」「もしそうでないなら?」「結論はどうなる?」――「もしフランス軍がイギリス軍を打ち破ったら?」「もし太陽が黄道帯から逸脱したら?」
 さて、こういう類を正しく使え、応用もできるようになれば、父はさらにつづけました、それにはむろん子供に反復練習させておぼえこませなければならないが、もしそうなったら、たとえどんなつまらない観念でもその子供の頭脳にとびこんで来た以上、それがもとになって無数の観念、無数の結論が引き出されるということになる。――おまえは白熊を見たことがあるかね? 父は自分のかけている椅子の背のほうに立っていたトリムのほうに、クルリと顔をむけながら声をかけました。――いえ、ありませんです、伍長が答えます。――でもいざ必要となったらトリム、父は言いました、白熊の話をすることくらいできるだろうな?――だって兄上、叔父トウビーが申します、一度も見たことがないという伍長に、どうしてそんな可能性がありましょう?――わしは事実をきいているんだ、父は答えました、――可能性ということならこんな工合にいくらでもあるのさ。
 白熊! はい、よろしい。わしは見たことがあったっけかな? 本当に一度でも見たことがあったか知ら? これから先見ることになるだろうか? 今までに見ておかなかったのはまずかったかな? 今後見る可能性はあるのだろうか?
 本当に白熊ってやつを一度見ておきたかったなあ!(見ていないから想像もできやしない)
 もしこれから先白熊を見るとしたら、わしは何というだろう? もしまたついに白熊を見ないとしたら、その時はどうしたものだろう?
 もしわしが生きた白熊を、今までに一度も見ず、また今後も見ることができない、見てはならない、見ることにもならないものとすれば、それならばわしは白熊の皮は見たことがあるだろうか? 絵に描いた白熊は見たことがあるだろうか?――白熊を描いた文章は? 白熊の夢も見たことがないだろうか?
 わしの父親は、母親は、叔父は、叔母は、兄弟は、姉妹は、白熊を見たことがあるだろうか? 見たら何をやるだろうか? どんな行動をとるだろうか? 白熊のほうはどんな行動に出ただろうか? 白熊は兇暴なのか? おとなしいのか? こわいのか? 毛はガサガサしているのか? なめらかなのか?
 ――白熊は見る値打ちがあるのか?――
 ――白熊を見ても罪悪にはならぬのか?――
 白熊と黒熊とどっちが善良なのか?」



スターン トリストラムシャンディ 中 02


これはなにかというと、ここまでの本書のあらすじの概念図です。



























































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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