デ・サンクティス 『イタリア文学史 中世篇』 池田廉・米山喜晟 訳

デ・サンクティス 
『イタリア文学史 
中世篇』 

池田廉・米山喜晟 訳

現代思潮社 
1970年12月15日 初版
vi 419p 口絵(モノクロ)1葉 
A5版 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,100円



本書「はしがき」より:

「訳書は、第一巻中世、第二巻ルネサンス、第三巻近代の、三巻に分けて刊行される。この区分は、デ・サンクティスの最終的な構想にほぼ照応するものと考える。(中略)第一巻の翻訳は第一章より第四章、および第八章は池田廉の、第五章より第七章までは米山喜晟のものである。」


Francesco De Sanctis: Storia della letteratura italiana
原著は二巻本で、1870年に第一巻が、1871年に第二巻が刊行されました。邦訳は三巻本とのことですが、私は二巻までしか持っていません。
各章扉に図版(モノクロ)計8点。


デサンクティス イタリア文学史 中世篇 01


目次:

はしがき (藤沢道郎・池田廉)

第一章 シチリアの人たち
 一 俗語の完成とシチリアの文化
 二 シチリア文化とシチリア詩のもつ技巧
第二章 トスカナの人たち
 一 トスカナ詩の特色
 二 グィド・クィニチェルリと修道士グィトーネ・ダレッツオ
 三 ヤコポーネ・ダ・トーディと宗教詩
 四 政治詩と学術的な詩
 五 清新体派
 六 青年ダンテと彼の抒情詩のアレゴリー性
第三章 ダンテの抒情詩
 一 ベアトリーチェという理想像と彼の哲学への情熱
 二 ダンテと《清新体派》の詩人たちの、想像の世界と空想力
第四章 散文
 一 騎士道ものと《古譚百種(ノヴェリーノ)》
 二 新たな世俗の学問、ブルネット・ラティーニ
 三 倫理講話と作り話。ボーノ・ジャンボーニ
第五章 聖史劇(ミステーリ)と幻覚詩(ヴィジオーニ)
 一 十三世紀文学の二つの源泉――騎士物語と宗教文学
 二 宗教劇
 三 宗教劇の特色――抽象性と物質性
第六章 千三百年代(トレチェント)の文学
 一 聖者の文学
 二 カテリーナ・ダ・シエーナ
 三 俗語の歴史と年代記
 四 ダンテの教育的著作
 五 民衆文学と教養人の文学に共通している抽象性について
第七章 『神曲』
 一 『神曲』の学問的起源と民衆的起源
 二 『神曲』におけるアレゴリーと詩(ポエジー)
 三 『神曲』の倫理的・政治的生成とダンテの宗教感情
 四 ダンテの彼岸の世界とそこに反映した世俗の生活
 五 『地獄篇』の芸術的優位性の根拠
 六 『地獄篇』の主要な人間像
 七 現世の回想としての『浄罪篇』
 八 『天国篇』の展開
第八章 『カンツォニエーレ』
 一 ペトラルカと美しい形式の趣味
 二 愛の描写と女性描写
 三 ペトラルカの愁い
 四 ラウラ死に寄せる詩(リーメ)


年譜 (池田廉・米山喜晟 作製)



デサンクティス イタリア文学史 中世篇 02



◆本書より◆


「シチリアの人たち」より:

「封建宮廷的環境のなかで生まれたこのシチリア文化はすでに下層階級の中にも波及し、ある完全に南イタリア的な特色を帯びるに至っていた。南イタリア的性格とは、力や昂揚ではなく、空想で和らげられた優しさである。自然な哄笑の中での、ある種の柔軟な官能的なものである。言葉の中にも、こうした柔軟さは浸透している。まるで、楽しいくつろいだ状態にあって、話すどころか歌を歌っている人のような、音楽的な陶酔的な外観を言葉に与えている。それが南イタリア方言の著しい特性である。」


「ダンテの抒情詩」より:

「ベアトリーチェの生と死とは彼女の中にあるのでなく、他人の中に、感じとれるものの中にある。イメージは直接、感情に変わってしまっている。こうした精神化されたイメージは、幻影(ファンタズマ)と呼ばれる半現実なのである。それは詩人の表現においてよりは、読者の想像の世界で生きている。各人が自分なりに、自分の精神の強さで、一人のベアトリーチェを拵える。われわれは、そこはかとない、音楽の国に入りこんでいる。ベアトリーチェは一つの《夢想(レーヴ)》であり、夢、幻だ。彼女の死もまた夢だ。あるいはダンテの語るごとく、劇的な悲壮な細部の事件をともなう幻想なのだ。なぜなら、詩人は彼の描く幻想の被害者であり、その世界の内部に生き、すべての印象を感受するからだ。この世は《煩わしい現世》であり、

   かくも気高い存在にはふさわしくない

から、ついにベアトリーチェは死んだのだ。彼女は、栄光に包まれて天国に戻り、《偉大な精神的美》となり、その空に、愛の光をまき散らし、天使たちの驚嘆の的となる。」
「つきつめた印象はこうである。この地上は、影と幻想の国、無知と悪徳の森であり、死と悲しみとを必然的な結末とする悲劇なのである。そしてその本当の実在は、永遠の神聖な喜劇は、彼岸の世界にあるのだ。」



「千三百年代の文学」より:

「数多い聖者伝の中で、特にここに取り上げるのは、カテリーナ・ダ・シエーナである。」
「聖者たちの伝説、法悦境の記録、幻覚詩などに表現されていたあの道徳的世界は、カテリーナのこれらの手紙の中で、教理として、非の打ちどころのない禁欲的なきびしさで展開されている。これはキリスト教世界の愛の法典である。彼女の力強いことばによると、完徳とは《己れを殺すこと》であり、意志や、好みや、人間的愛情、子供への愛さえも滅却して、すべてを神に捧げ、いっさいを神への生贄にすることであった。彼女のキリストへの愛には、こういう仕方で、彼女自身気がつかないうちに表出された、女の愛のやさしさのすべてがこめられている。彼女の手紙の末尾は、常に「自我を殺しなさい。キリストの血の中に浸りなさい。」ということばで終わっている。彼女の隣人に対する慈愛の念ははげしく燃えていたのだ。この聖女が「お互いに愛し合うように」という叫び声をくり返し、平和、協調、謙遜、寛容などを説いたにもかかわらず、その声に耳を貸すものはいなかった。ジョヴァンナ王妃は、聖女にあてて丁重な返事をしたためはしたものの、ふしだらな生活を改めはしなかった。ローマの街頭では、分裂さわぎのために流血の惨事が生じた。彼女の理想が高くて、純粋なものであればあるほど、人々に対する影響力は弱かった。彼女の生涯は愛と死の二語に要約できる。彼女が、最後をみとってやった死刑囚について記した手紙は有名である。「彼は私の胸に頭をもたせかけていました。その時、私は歓喜におそわれ、彼の血の匂いをかいだのです。その匂いには、優しき花婿イエス様のために流したいと願っている私自身の血の匂いがまじっていなかったとは言えないはずです。」キリストの血は彼女を昂らせ、官能の歓びで彼女を陶酔させる。彼女は修道尼の一人にあてて次のような手紙を書いている。「血に酔い、血を飽きるほどに飲み、血の衣をまといなさい。」「血を流し」「血と化し」「血液の中にまじった心情と愛を飲みほすこと」が、彼女の叙情に用いられたイメージなのだ。修道尼の独房を「天上と化し」、その中で「神が偉大な愛の炎をもって彼女を包む時」、彼女は「不滅な霊たちの至福」を味わうのだ。法悦と幻視と精神の高まりのさ中で、彼女は打ち倒され、魂が肉体から抜け出すのを感じ、あたかも肉体を喪失していくような感覚を体験した。カテリーナのことばによると、身体の各部分は、まるで火の中におかれた蠟のように融けてくずれていくのを感じたという。また他のところでは彼女はこう言っている。「私には、自分が我が身の中にあるようには思えなかった。そうではなくて、私は自分の身体を、まるで他人のように眺めていたのだ。」このようなはげしい精神と、澄み切った知性と、息苦しいほどの愛が、彼女の誠実さを証拠立てる素朴で明晰な筆致で表現されているのである。彼女の精神は、「愛に魅せられておびえ」、「磔刑」、つまり十字架にかかりたいと願う期待で「胸がつまる」ほどで、「甘美な魅惑に充ちた福音」への愛のため「自らの意志を抹殺して」、肉体のうちにあっても、まるでその外へ抜け出たようにして生きている。愛を生の彼方に向けて、心は彼岸の世界に住まわせて、死にながら生きていたのだ。しかしこのような精神的な死は、彼女の心を充たしてくれなかった。「私は死ぬのだが、死ねないのです。」と聖女は言っている。彼女はその晩年を、悪魔との闘いとキリストとの対話とで費やし、三十三歳で、渇望の果てにやつれはてて生を終えた。」



「『神曲』」より:

「実際、『神曲』は、彼岸のアレゴリックな幻想なのである。キリスト教によれば、彼岸を幻視したり観想したりすることは、信者の義務であり、完成なのである。聖者は、精神的には彼岸に生きていた。彼の法悦や幻想は、彼があこがれている来世にむすびついていた。彼岸を観想し、直視することが救いの道であるという非常に民衆的な、禁欲的基盤をダンテは受け入れたのだ。悪徳と無知の道からのがれるために、彼は観想生活に没入して、精神的に彼岸を眺め、自分が見ていることを物語るのである。これはあらゆる幻覚詩の通常の趣旨であり、あらゆる聖者の史伝であり、すべての説教者が説く主題であり、救済の道である彼岸の幻覚詩『神曲』の字義通りの意味なのだ。しかしその幻影(ヴィジョン)はアレゴリーである。彼岸というのは、現世のアレゴリーおよび表象であって、根本的には、『霊魂の寓話』の中で、《人間》、《解脱》、《再生》と呼ばれている三つの状態の霊魂の歴史、もしくは聖史劇なのであり、地獄、浄罪界、天国という三界はその三状態に対応しているのである。それは、官能に陶酔し切って、まったく人間的な状態に堕していたところから、肉体をぬぎすてて身を清め、再生して純粋で神聖な状態に戻っていく霊魂の姿にほかならない。」

「地獄とは、ルチフェロに達するまで不断の退化をつづけながら下降して行く肉の領地であった。浄罪界とは、天国に至るまで一段ずつ上昇して行く霊の領地である。そこで展開されているものは、霊魂遍歴の喜劇、聖史劇であって、悪の極限で目覚め自己を取り戻した霊魂が、贖罪と苦悩を通して身を清め救済に至る姿なのだ。だからこそ、地獄の一番奥の袋の底から浄罪界に道が通じているということや、ダンテが再び星を見るために暗黒の帝王ルチフェロ自身の肩を登って行ったという事実には、深い意味がふくまれているのである。」

「かくして、地獄の内容豊富で激烈な現実は、次第に稀薄で繊細なものに変わり、やがて真の実在、つまり精神や天国に転形する。この肉から霊に至る過程が浄罪界であり、そこでは形象が、絵、法悦境、夢、象徴となる。象徴はすでに形象ではなくて、知性のはたらきである純粋精神なのである。」
「浄罪界の人間は、この精神状態に適応した感情を持っている。彼の性格は内的な穏和さであり、地上の悲惨な生活の中で、信仰と希望の翼に乗って、精神を天国にまで高めている有徳な人間のおだやかな喜びと極めて類似したものである。霊たちは火の中で焼かれながらも満足しており、やさしくおだやかな愛情と、不安や焦燥とは無縁な願いを持っている。そこから一つの牧歌的な世界が生まれる。その世界は、いたる所平和と愛情に充ちていて、芸術の純粋な喜びと友情のやさしい感情が豊富にあふれている、黄金時代を思い出させるところなのだ。」
「こうした親密感、ちょうど世間の人には入ることを許されない家庭用の寺院のように、家族や友人、芸術や自然のために残されたこういう片隅の小部屋を心中に保ちつづけることこそ、『浄罪界』の中で表現された世界である。どんなにいまわしい出来事の思い出でも、たしかにそれは苦しいものではあるが、やはり最後の日が来るという希望によって、その苦しさがやわらげられている。」
「誰でも、そうした心の片隅に、自分の家族専用の寺院を抱いていたのであり、誰でも自分の愛する者に記憶されたいと望んでいるのである。」
「孤独なピーアは、自分の家の廟にはその名を全然とどめていないので、その名を記録してくれるのはダンテだけなのである。

  わたしのことをおぼえておいて下さい、わたしの名はピーア。

 かくも愛情に充ちたこの世界には、憂愁が浸透している。それは将来近代詩において大きな役割をしめるはずの新しい感情であるが、この『浄罪篇』の中で生まれたものだった。心の孤独に浸りきっているかくも繊細なピーアの声に、耳を傾けるよう読者をさそうのはこの感情なのだ。(中略)感情のおだやかさと繊細さとが、憂愁を味わうための心の下地を作っているのだ。なぜなら、憂愁とは甘美な悲哀であり、親しく穏和なイメージによってやわらげられた苦悩にほかならないからである。したがってその感情は、俗世間に気分を乱されることなく、親しい仲間にとじこもったまま幻想の中で生き、「物思いに沈んだ」、集中された精神を必要としている。憂愁とは、この内的な世界から生じる最も繊細な果実なのである。」




デサンクティス イタリア文学史 中世篇 03




こちらもご参照ください:

デ・サンクティス 『イタリア文学史 ルネサンス篇』 在里寛司・藤沢道郎 訳
近藤恒一 『ペトラルカ研究』












































































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