『集英社版 世界の文学 27 ガッダ/サングィネーティ』 千種堅/河島英昭 訳

「古い栗が微風の中でさらさら音を立て始めた。葉群が、いがが光を吸収し、その光を金の粒子に分解していた。これこそ、栗独自の機能なのだ。カウロの急流の下で、光をまき散らされた「奇蹟」の小教会は異様な出来事を予感しているようだった。おそらく澄んだ上空から天使たちがとんで来るというのだろう。」
(カルロ・エミリオ・ガッダ 「クラウディオは生きることを忘れる」 より)


『集英社版 世界の文学 27 
ガッダ 
「アダルジーザ」 
千種堅 訳
サングィネーティ 
「イタリア綺想曲」 
河島英昭 訳』


集英社
1977年5月20日 印刷
1977年6月20日 発行
415p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背クロス装上製本 
貼函 函プラカバー
定価1,300円
装幀: 坂野豊

月報《16》 (2p):
生唾のような笑い(森内俊雄)/訳者紹介/次回配本



イタリア前衛文学二作品。


ガッダ サングィネーティ 01


帯文:

「『ミラノ・スケッチ』と副題されたこの小説によって、
古き良き都ミラノをあなたは旅することができるでしょう。
イタリア前衛文学の巨匠ガッダが詳細な事実にもとづいて、
ミラノの町と人々を描いた散文集『アダルジーザ』。
’60年代前衛文学の一つの極点
サングィネーティの代表作も収録。」



帯裏文:

「『アダルジーザ』(一九四四年)
古きよき都ミラノの市井の生活をこと細かにつづりながら、そこに人間存在の普遍性を描いた十篇の散文をおさめたもの。ガッダは、彼が生まれ育った町ミラノを愛し、30年代からミラノを舞台にした長篇小説を計画した。しかし、その大作はついに実現を見ずに終り、彼の集めた大量の調査とエピソードから、幾つかの断章と詳細な註が生まれた。
『イタリア綺想曲』(一九六三年)
この小説は、一九六〇年代の前衛文学が到達したひとつの極点である。百十一章からなるこの作品はどの章から読みはじめても、どの章で読み終ってもいい。カフカからロブ=グリエへと継承された前衛の立場を、彼サングィネーティはこの小説に結実させている。おそらく世界でも初めて意図された《悲劇》でも《喜劇》でもない小説。

ガッダ CARLO EMILIO GADDA
(一八九三~一九七三)
イタリア前衛文学の巨匠。ミラノ生まれ。初め電力会社の技師として働き、その後ミラノのパリーニ高校で数学の教授をした。一九三一年『英知の聖母』を発表すると同時に本職から離脱。五五年完全な作家活動に入る。
サングィネーティ EDOARDO SANGUINETI
(一九三〇~    )
ジェノバに生まれる。現在トリーノ大学でイタリア文学を講じている。国内外で詩人・作家とグループを結成し、前衛的な作品を発表。彼をめぐってイタリアの前衛文学は激動しているといって過言ではない。」



目次:

ガッダ
 アダルジーザ (千種堅 訳)
  月夜
  ジロラーモが止めたとき……
  クラウディオは生きることを忘れる
  四人の娘を持ちそれぞれが女王
  おかしな噂がベルトローニ家の人びとを悩ませる
  時間の切れ目
  船がパラパガルに着く
  団員百二十人の「コンサート」
  五月のある宵、公園で
  アダルジーザ

サングィネーティ
 イタリア綺想曲 (河島英昭 訳)

解説 (千種堅/河島英昭)
著作年表



ガッダ サングィネーティ 02



◆本書より◆


「おかしな噂がベルトローニ家の人びとを悩ませる」より:

「陰のない楡の木で蝉(せみ)が正午ごろ、せわしげにミンミンと鳴き、夏の明るいひろがりをふくらませていた。人の好い医者はますます歩きにくくなる小石をふみながら、門にたどりつくところであった。好奇心と記憶にあふれる生き生きとした頭のなかで、この由緒ある一族の記憶すべきことどもが夢のなかの速さをもってときほぐれて行った。これから会う患者のイメージが祖父のそれにつづいて矛盾した光のなかによみがえってきた。
 母方をたどって行くとこの患者には蛮族の血が入っており、ランゴバルドというよりも、むしろゲルマン的であり、フン的であった。しかし、ハンガリーふうだ、ゲルマンふうだといっても、別にそのために白靴下や二重底の靴をはくようになったわけではないし、ましてやいまのような膝になったわけでもない。どう見ても彼の膝からはジークフリートのあの膝のイメージはわいてこない。それに目ざめたマジャールのライオンという役割にしても、あまり値打があるようには思えなかった。もっとも……もっとも……人には決してわからないことだが……。
 秩序や沈黙に対し偏執狂的なところがある点、油紙とか卵の殻を嫌い、あるいはもったいぶって戸口でぐずぐずするのを嫌う点などは、いかにもゲルマン的であった。意義と原因の流れをさかのぼろうとして内心なにやら苦悩する点、外見を何かと軽蔑する点、判断が何か緩慢で不透明である点などもそうであるが、こうした点が彼の場合くしゃみよりも吸入という形で現われ、あいまいなぐずぐずした合成というところで、金(きん)の鸚鵡(おうむ)の色をした稲妻の光のようにみえることなど決してなかった。とりわけゲルマン的なのは、サナダムシよりがんこなある種の物知り顔で、彼にとっては床屋や印刷屋の場合と同じように危険であった。「努力をしないことにはね」といわれていた。「生きて行くことに心をくばらなくては」とつけくわえていわれるのであった。だが、努力をしようにも、生きることに心をくばろうにも、そういう才覚はまったくなく、フライを揚げるのを見せつけられたあざらし以上に、どうしたものやらと当惑してしまうのであった。ラジオの喧騒(けんそう)にうんざりした彼は、神から権限の付与をうけたうえで、カトリック王ドン・フェリペから聖職者としての給料をうけてネア・ケルティケを支配するのではなく、だれからも給料をうけることなく、ひそかに『ティマイオス』の脚注をつけたいものだと、それを念じていた。
 それに彼の場合は病気の問題があった。病気の伝説で、征服者たちによって広められた奇妙な伝説である。征服者のところにはインカの臨終の言葉が集められてあった。それによると、死というものは思索のひそかな最後の組みあわせと同じで、いわれもなく、沈黙のただなかにやってくるという。
 これは「目に見えぬ病気」で、このことについてはサヴェリオ・ロペスが『マラダガルの奇跡』の最後の章で物語っている(22)。」

「原註(22) 「旅をしてまわって、それらの奇妙な風習に通じているこの善良なロペス神父の奇跡は、宿命とか自由意志にかんする哲学者たちの日常的な、多年にわたる議論からは少々遠いかもしれないが、一種の道徳というか、倫理を確認しようとしているらしい。そして、各人の生命の内的な、独自な機構を描いている。死がふいに来ることをのべた最後の章は、死とはあわれむべき可能性の寄せ集めがすべて断絶し、あるいは消滅することだと論じている。したがって、死はひっそりとやって来る、ちょうど背後から歩いて来るように」(バンディネーリ)」



「時間の切れ目」より:

「言語学図書館は、この世界の不完全の中にあっては、高尚な計画であればあるほど、自らがカリエスにかかることによって、つまり何らかの避け難い不完全さをともなうことによって実現され、完成されるということを、耳もとでささやく程度であるにせよ、とにもかくにも彼に教えてくれた最初の学校である。こうして、その肉体は重み(わずらい)をつけていき、ときには影もともなっていた。ときどき、それも特に土曜日には、言語学図書館はどのホールも、玄関も、部屋も、階段も、さらには手洗いまでも満員になった。化石のように動かずにチェスをやっている人たちは低いベンチで、地下の暗闇の茎よろしく瞑想(めいそう)していたが、それはエジプト博物館の闇に置いた硬岩石製のマンドリルひひよろしくで、闇に想うという風情だった。」

「せいぜい一楽節とその対照楽節でできただけのつぐみの声がサロンの天窓までのぼって行き、折りからぬくもり始めたわずかばかりの陽ざしを求めて二匹の猫がやってきたのを追い払ってしまったが、この二匹は春分のビロード状の幽霊、エンペドクレスとアリストブルスである。彼ら、絹綿ビロードの足を持った二匹は、この神秘的で極端に怪しいところのある霊廟(れいびょう)で、クレリーチ男爵の番犬フロックの恐ろしい歯並びが、彼らの迫害者の、彼らのアルタセルゼの骨格の名残りをそっくり留めたのといっしょに、お人好しや慈善修道士たちの友情をもって守られ、敬われていると推測する。そこで太陽が乙女座を出て、魚座が太陽に入る、というか、太陽が魚座に入るや否や、「ほらほら」と癒し難い苦悩を抱いて考える。「そう、そう……痛ましいネブカトネザール王の霊だよ……それが発酵し出して……沸騰するんだ。そうさ、そいつは確かにあのあごさ、歯をむいて……このひゅうひゅういう音や、何か気配を感じさせる声を吐き出しているのは……ぞっとするほど吐き出すのではないかという気配があった……それに黄道帯の呪わしい腹帯からも発砲されたし……。しっぽでも切った方がましなのに……」
 ところがホールではそのつぐみの鳴き声に誰もおびえなかった。もう以前から慣れている。ただ、何かと「頑強な」抗議が起っては、突然、ひげをぴんと立てて憤りにきおい立ったり、乳糜のミネルバ、すなわち思惟と高等幾何学の調和ある平和にとって聖なるこの場所への深い没頭から飛び上がるようにして呼びさまされ、経験的認識にと戻ったりするのだった。」



「船がパラパガルに着く」より:

「本を手に下りてくると、スープがテーブルの彼の席で石油ランプの光の輪に照らされて、主人を待ちうけているかにみえた。そのかすかな光の領域からスープ皿の湯気が立ちのぼり、暗い船橋を思わす、天井のリブの間の闇に消えていった。スペインふうの梁(はり)は取っておきのヴェールのような蜘蛛(くも)の巣で飾られ、その巣はだらりと下がって、暗黒の海(マーレ・デレ・テネーブレ)へと向かっていた。」


「イタリア綺想曲」より:

「27

 この子をこんな身体にしてしまったのは不良たちにちがいない。たしかにぼくの子供は、下のほうの息子は、いまでは三歳だが、そのときは重態だった、そして何もかも打ち明けて言えば、あの子の小さな睾丸がふたつに裂かれてしまったからだ、かわいそうに、そして妻は、いまでは、車で彼を運んでゆく、運転しているのはMだった、そして妻が繰り返した、「なぜ、泣かないのかしら?」 実際、子供は少しも泣いていなかった。しかしMが言った、「もう少し待って下さい、奥さま、もう少し」 ほんとうの痛みは、まだこれからだった。そして車はひた走りに走っていた、走っているみたいだった、おそらくみなが、ぼくを探していたのだろう。たぶん、ぼくは町の外へ出ていたのだ、妻はぼくに電話をかけてもみた。だいじょうぶだよ、もうすぐ医者がくるから、そしてぼくは腕のなかに抱く、幼い息子を、そしていまや、あのあとで、彼はほんとうに小さくなっていた、不良たちがやった仕業だということは目に見えていた、そして息子は、むしろずっと小さくなっていた、そうやって、目で見ただけでは。そしてしまいには片手の上に乗せることさえできるようになった、そしていまでは、みなが、すなわちMとぼくの妻とぼくとが、そこで、彼を見つめていた、そして拳を握るとすっかりぼくのなかに入ってしまった、それから、小さな毛皮にくるまったみたいになり、たぶんそれは小さな外皮と言ったほうがよいのだろう、たとえば、茹(ゆ)でた烏賊(いか)にそれは少し似ていた。」

「50

 ぼくと妻のふたりだけだった、ぼくらは病院のテラスの籐の椅子の上に、腰かけていた。前には、湖がひろがっている。「さわってごらんなさい」と言って、妻がぼくの手を取り、彼女のお腹の上に乗せる。すると赤ん坊の激しい動きがぼくにも感じられる。「気が狂ったみたいに動いているね」と、妻に言う。それでぼくらは笑い出し、笑いころげる。ぼくらが笑うのをやめたとき、湖はもはやない、病院のテラスもない。「きみのお腹は子供で固くなってしまった」と、彼女に言う。そして注意しながら、彼女にさらに近づく、そこのベッドのなかで、暗闇のなかで。ぼくは自分の頭を彼女の枕の上におく、すると枕はすっかり濡れていた。やがて、妻がそっとぼくの名前を呼ぶ。「どうしてあげたらよいのだい?」と、彼女に言う。それからまた、「何を考えているのだい?」 彼女は相変らずそっとぼくを呼ぶ、ぼくの名前を。「なぜ、泣いているのだい?」と、彼女に言う。重ねてまた、「なぜ?」 すると彼女がぼくに言う、「ここに手を当ててみて」 そこはちょうど胃袋の下で、すぐその下に子宮がある。「感じる?」と、妻が言う。「何も感じないのよ、ここに」泣きながら彼女が言う、「何も」 さらに言う、「ここがからっぽなの」 「ああ」とさらにつづける、「早くからあなたに言いたかったのだけれど、今度はいままでのような赤ん坊じゃないのよ、だってこの子には、感じるでしょ、足がないんですもの」 それからさらに、ぼくに向かって言う。「胴体しかないのよ、感じるでしょ、それで寝返りばかり打っているのよ」 そのとき、ぼくは急いで手を引っこめる。またまわりに光が漲った、そして湖ぜんたいに光があふれた、そしてぼくらはふたたび病院のテラスにいた、光線がまともに顔に射しこんでくる、いかにも弱々しい日暮れの太陽だ。「もう、なかへ入りましょう」と、妻が言う、「手をかして」と彼女が言う、「あたしも立つから」」


































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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