鈴木清順 『孤愁』

「前に触れたように、世間は働らくことを建前としている。そして人は時間を労働と賃金に換えて生きている。このような時間の利用法は、孤独、孤愁には駄目である。今迄の時間の実用的概念をすっかり替えて了わぬ限り、孤独や孤愁が時間に対する事は出来ないが、果して無償の時間を新らしく概念化することが可能なのか。可能、不可能は別にして、そこに迫らなければ孤独や孤愁の本質は理解出来ないだろう。」
(鈴木清順 「孤愁」 より)


鈴木清順 
『孤愁』


北冬書房
1980年12月25日 発行
233p 初出一覧1p
21.6×13.6cm 
丸背紙装上製本 貼函
定価2,200円
イラスト: 林静一
デザイン: 伊藤重夫



駿河屋から届いた古本をひととおりよみ終わって再読にとりかかっていたところ、鈴木清順監督追悼の意を込めてヤフオクで落札しておいた本書が届いたので、さっそくよんでみました。


鈴木清順 孤愁 02


鈴木清順 孤愁 01


帯文:

「富士には月見草がよく似合う。芸術には映画がよく似合う。
可憐な似合い方である。月見草はむしり取る事も出来るが、富士をむしり取る事は出来ない。私の映画はすんなり咲いた例がない。何時も踏みしだかれた月見草である。それが富士と似合うとは誰も云わないだろう。何処に咲いても月見草は月見草で糞だめの傍に咲く月見草だってある。(本文より)」



鈴木清順 孤愁 03


目次 (初出):


ごあいさつ (「ツィゴイネルワイゼン・パンフレット」 1980年4月)
桜の樹の下の砂漠 (「日本読書新聞」 1980年5月12日号)
ゆったりした気分 (「YANASE LIFE」 1980年6月号)
失なわれゆく映画づくりの相手たち (「オール生活」 1980年11月号)
銀色のドーム (「調査情報」 1980年10月号)
“何とも”云えぬ――麿赤児断層 (「幽契 NO 5」 1980年7月号)
雑記 または好みじゃない (「映画芸術」 1980年10月号)


「ガルシアの首」随感 (「映画芸術」 1975年4月号)
のり物づくし (「映画芸術」 1976年6月号)
小百合・良子・由美子ともう一人の女優 (「ユリイカ」 1976年6月号)
イタリアの大正生れ (「映画芸術」 1976年10月号)
なまえ (「映画芸術」 1977年2月号)
角力と映画 (「映画芸術」 1977年4月号)
悲愁以後 (「映画芸術」 1977年10月号)
戦争映画と女の顔 (「映画芸術」 1976年2月号)
暗い青春の記念碑 (「世界の名監督 100人」 1977年11月)
孤愁 (「映画芸術」 1978年6月号)
馴れ、ということ (「映画芸術」 1978年10月号)
ベトナム傭兵 (「映画芸術」 1979年4月号)
会話 (「映画芸術」 1979年10月号)
料理 (「映画芸術」 1917年12月号)
日本映画監督協会俳優部 (「小説春秋」 1980年10月号)


大西英一さん (「人物評論」 1973年7・8月号)
人形師・五十住のやっちゃん (「人物評論」 1973年9月号)
勘四郎極道 (「人物評論」 1973年10月号)
石上三登志君 (「人物評論」 1973年11月号)
畏友美術監督・木村威夫さん (「人物評論」 1973年12月号)


ワイセツと映画 (「愛のコリーダ」裁判弁護人陳述 1978年3月6日)
映画と映画監督と大島さん (「愛のコリーダ」裁判弁護人陳述 1979年7月26日)

あとがき
初出掲載誌紙一覧



鈴木清順 孤愁 04



◆本書より◆


「桜の樹の下の砂漠」より:

「桜を最初に使ったのは「野獣の青春」で、これは時期も四月でしたが桜の下で格闘シーンをやったことはあるんですよね。(中略)見ている人が桜にこだわるのは「けんかえれじい」の桜がちらちらっと散ってきたという所だと思うんですけど、結局あくまでも舞台面であって、歌舞伎の「義経千本桜」の最後の台詞は義経の敵(かたき)が次にもう一回会おうという、それは、火花散る桜時、折しも吉野の花櫓、花々しき戦さをしよう、ということでこれも舞台面からくる台詞だし(中略)、桜のイメージはこちら側からすれば戦いの時と場処というのが最初のものだった。
 だからただきれいに咲いている、あるいは散り際はいいというものではなくて、桜の時に火花を散らすというイメージがあったわけですね。(中略)桜に対する最初のイメージは戦争、戦いというものであったけれど、(中略)映画監督だから一つ一つで意味を探るというより非常に感覚的な舞台設定として桜がある訳です。」
「僕の映画で桜が出てくることが当り前のようになっちゃったけれど、桜に思いを寄せるというよりも桜という装置の下で火花を散らす争いをさせたいというのが意図的なものです。」
「秀吉の醍醐の花見は最高ですよね。あれは桜を贅沢に利用した唯一無二の狂風ですね。又その贅沢の裏に「わび」とか「さび」とかが出て日本の文化が確立される訳で、それも秀吉対利休たちの死闘の結果だと思うんですね。現在は文化に対する死闘もないし、果してそういう処では新らしい文化が生れて来るようには思えませんね。
 日本人の美意識はあの醍醐の花見で定着したと僕は思っているわけで、それからあとは延々とそれを受け継いでいるに過ぎなくて、それを破壊したりそれに反逆したりという美意識は今はない。それを伝統という言葉で受け継いでいるのが日本人だと思う。だから時代が大正まできても、そういう美意識がくずれるということはまずなかった。無常・虚無・退廃というか、そういうものが何百年の間日本人の気持ちのなかで繰り返されて、それが明治、大正、昭和と比べた時、大正時代に一番色濃く出ているのではないかと思うんですよね。
 虚無観が一番具体的に出てくるのは『大菩薩峠』ですよね。「歌う者は勝手に歌い、死ぬ者は勝手に死ぬ」、いいですよね。これが確か大正の始めで、さっきの定家の歌も虚無的だったがこれは尚直接的な虚無ですよね。虚無の極限というのは、どういうもんですか、これは分らないですよね。しかし何となく自分の身を滅ぼしちゃってそこに虚無の確証を得たいというのが平安、室町、戦国、織豊とそして大正時代にあったのじゃないかという気がしているんですよね。ニヒルとよく付け合いに出されるのがアナキズムでこれは大正の専売特許のようなものですよね。僕の好きな言葉の一つに大杉栄の、「私は精神が好きだ、而し精神に理論付けをした時にはそれが厭になる」と云う言葉がありますが、言ってみれば精神しかないわけですよね。それを体系化したり理論化したりするとどうしてもまやかしになる。例えばアナキストがテロに走るのもひたすら精神の爆発であって、理論や体系の爆発では決してない、こういう処がこっちの気分に合っているんですかね、成程と思えるわけですね。映画というのはまさしくそうなんで、感情や感覚の爆発であってそれの理論付けは一切必要ない。いわば映画を作る精神があればそれでいい、(中略)僕の映画は説明不足で、親切ではないと思うけど、精神は見ている人に買って貰えると思っているんです。
 ある時期にアナキスト達に興味を持ったのは先刻の大杉栄の言葉とか、まわりに集まった(中略)人達の性格は違うけれど議論は大杉に任せて、俺達は行動だけだという心根。彼らのテロはみんな失敗に終るけれど、切歯つまったなかになにか粋でユーモアでゆったりした行動が好きなんです。」
「実朝という人がいるでしょ。あの人は非常な実務家で、政治的な手腕をもった人だったろうと思うけど、一日の大半は夢うつつに暮らしていたと云い伝えられている。あの混乱期に一人の傑出した政治家でもあるし、歌人でもある人が、時代の風潮であった加持祈祷に身を委せたにしても、夢かうつつか分らない、現実と非現実の境い目に何時もいたと云う事は非常に興味がありますね。鎌倉時代の一人のインテリーの一生が矢張り現代にもあるんじゃないかというのが今度の「ツィゴイネルワイゼン」の興味で、これは理屈のつけようがありません。」



「失なわれゆく映画づくりの相手たち」より:

「さて今度の映画には、芯(しん)になる邸宅二軒とそれをつなぐ道が必要である。鎌倉歩きはこの邸宅探しから始まった。何処へ行ってもトンネルがある。家と家、まちとまちをつなぐのがトンネルだったり、抜けられると思って入ったトンネルの先が家の玄関だったりする。」
「何日も何日も車に乗ったり歩いたり、江の電に乗ったりしてうんざりし、しるこ屋に入ってしるこを喰べていると、ここのおばさんが七里ヶ浜に赤い洋館があるという。
 行って見ると成程の洋館で、有島生馬さんの邸で、海に向って広いサンルームがあり、小間切れのように部屋がいくつもあり、部屋と部屋はドアーつなぎで、離れて一つ画室に使ったのか広い部屋があり、これが全部二階で、階下は玄関わきに書生部屋風なのが一つあるきりで、あとは柱がむき出しの二階を支えているに過ぎない使いようのないつくりでありながら、ドアーが矢鱈(やたら)とある妙ちくりんなのが興味を引いてここを借りたが、あとでこの妙ちくりんはうまく撮りきれなかった。」
「トンネル、切り通し、谷津と鎌倉にはまだ独特の風景がある。それに見合う家も欲しい。これらの風景が映画の重要なパートナーとなる。これなくして映画は出来ないし、これが見つかれば映画はもう八分通り出来たも同じである。」



「“何とも”云えぬ」より:

「今度の映画は全体がくらいなかで、乞食芸人のみが明るい滑稽をふりまくのがねらいで、麿さんの乞食芸人は観客を笑わせた丈でも起用の効果はあり、とり分若い乞食芸人に殴られ笑う、その笑いは“何とも”云えぬ笑いで、麿さんの本質がはっきり出て成功だった。」


「孤愁」より:

「落葉をかき集めて燃やす。家のまわりに桜がないのに、花びらが遠くから飛んで来ている。やわらかい花びらはすぐ火に消えるが、小さな熱気流に乗ってふわっとたき火の外に飛びのくのもある。今日はたき火が燃えつきる迄私はたき火を見つめている心算だ。」
「あちこちの隙間から細い煙が立ち始める。十分もするとあらかたの煙は消えて、一つの隙間からやっとこさの煙が出ている。私は葉っぱの下に棒を突っ込み、葉っぱ全体を持ち上げ風通しをよくしてやる。燃え上るまでやや辛棒を必要とする。それ迄何も考えない。葉っぱが燃えること丈を考えている。やがて桜の花びらがまるまって燃え、ふわっと浮くのもでる。」



鈴木清順 孤愁 05






































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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