『坂口安吾全集 14』 (ちくま文庫)

「一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。
 私はただ、私自身として、生きたいだけだ。」

(坂口安吾 「デカダン文学論」 より)


『坂口安吾全集 14』 
FARCEに就て/日本文化私観/堕落論 ほか
ちくま文庫 さ 4-14

筑摩書房
1990年6月26日 第1刷発行
644p 「編集付記」2p
文庫判 並装 カバー
定価1,080円(本体1,049円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 横尾忠則



本書「解題」より:

「第十四巻には、坂口安吾が昭和六年(一九三一)に発表した「ピエロ伝道者」から昭和二十二年(一九四七)に発表した「エゴイズム小論」にいたるエッセイ八十八篇を発表年代順に収めた。」


新字・新かな。
たんすの上の段ボール箱から文庫版安吾全集が出てきたので久しぶりによんでみましたよ。


坂口安吾全集 14 01


目次:

ピエロ伝道者
FARCEに就て
新らしき性格感情
新らしき文学
宿命のCANDIDE
山の貴婦人
一人一評
ドストエフスキーとバルザック
長島の死
谷丹三の静かな小説
神童でなかったラムボオの詩
愉しい夢の中にて
文章その他
遠大なる心構え
夏と人形
無題
意慾的創作文章の形式と方法
悲願に就て
清太は百年語るべし
想片
枯淡の風格を排す
日本人に就て
分裂的な感想
作者の言分
文章の一形式
桜枝町その他
流浪の追憶
牧野さんの死
牧野さんの祭典によせて
現実主義者
文芸時評
スタンダアルの文体
一家言を排す
フロオベエル雑感
幽霊と文学
日本精神
新潟の酒
お喋り競争
手紙雑談
北と南
気候と郷愁
本郷の並木道
探偵の巻
かげろう談義
長篇小説時評
茶番に寄せて
市井閑談
日本の山と文学
文字と速力と文学
死と鼻唄
作家論について
文学のふるさと
中村地平著「「長耳国漂流記」
ラムネ氏のこと
日本の詩人
新作いろは加留多
文章のカラダマ
ただの文学
日本文化私観
外来語是非
文芸時評
甘口辛口
大井広介という男
今日の感想
剣術の極意を語る
青春論
文学と国民生活
巻頭随筆
あきらめアネゴ
歴史と現実
予告殺人事件
咢堂小論
地方文化の確立について
処女作前後の想い出
堕落論
天皇小論
文芸時評
通俗作家 荷風
欲望について
蟹の泡
デカダン文学論
足のない男と首のない男
風俗時評
肉体自体が思考する
風俗時評
続堕落論
風俗時評
エゴイズム小論

解説 (山口昌男)
解題 (関井光男)



坂口安吾全集 14 02



◆本書より◆


「ピエロ伝道者」より:

「空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。
 屋根の上で、竹竿(たけざお)を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まで、あいつは気違いだね、などと言う。」

「勇敢に屋根へ這(は)い登れ! 竹竿を振り廻し給え。(中略)すべからく「大人」になろうとする心を忘れ給え。」



「FARCEに就て」より:

「私は、世阿弥の『花伝書』に於て、大体次のような意味の件(くだ)りを読んだように記憶している。「能を演ずるに当って、演者は、たとえ賤(しず)が女(め)を演ずる場合にも、先ず『花』(美しいという観念)を観客に与えることを第一としなければならぬ。先ず『花』を与えてのち、はじめて次に、賤が女としての実体を表現するように――」と。
 私は、このように立派な教訓を、そう沢山は知らない。」

「一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費しているものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがある。実物を掴まなければ承知出来ないと言うのか。掴むことができないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々(えんえん)として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚(はか)ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒(べらぼう)な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻(あり)でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。」

「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。」



「ドストエフスキーとバルザック」より:

「小説は、人間が自らの医(いや)しがたい永遠なる「宿命」に反抗、或いは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだ――)弄(もてあそ)ぶところの薬品であり玩具であると、私は考えている。(中略)小説はこのような奇々怪々な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向っての、広大無遍、極まるところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由って終るものであろう。」

「いったい、空想ということを現実に対立させて考えるのは間違いである。人間それ自らが現実である以上、現にその人間によって生み出される空想が現実でない筈(はず)はない。空想というものは実現しないから、空想が空想として我々愉しき喜劇役者の生活では牢固たる現実性をもっているのではないか。」



「長島の死」より:

「私の知っているだけでも、長島は三度自殺を企てた。(中略)考えてみると、実に根気よく自殺を企て、根気よく失敗したものだと思う。無論、酔狂や狂言の自殺ではなかったのである。(中略)とにかく、毎年春になると一種の狂的な状態になるのである。これは如何(いかん)ともなしがたい生理的な事柄であるから、仕方がなかった。
 私は彼のように「追いつめられた」男を想像によってさえ知ることが出来ないように思う。その意味では、あの男の存在は私の想像力を超越した真に稀な現実であった。尤(もっと)も何事にそうまで「追いつめられた」かというと、(中略)恐らくあの男の関する限りの全ての内部的な外部的な諸関係に於て、その全部に「追いつめられて」いたのだろうと思う。たとい恋をかちえても、名声をかちえても、産をなしても、恋を得たことによって名声を得たことによって一人あくことなく追いつめられずには止まないたちの、宿命として何事によらず追いつめられるたちの男であったのだろうと考えている。彼の死にあい、さて振返ってみると、実に凄惨な男であったと言わざるを得ない。彼ほど死を怖れた人間も尠(すくな)いであろう。彼の自殺といえども所詮は生きたいためであった。」

「電報によって赴いてみると、今度は自殺ではなかった。脳炎という病気であった。(中略)むろん完全な発狂である。治っても白痴になるばかりだという。昏睡(こんすい)におちていた。」
「ポオの小説に“The facts in the case of Mr. Valdmar”という物語があった。ある男が、催眠術によって人間の生命を保ちえないものかと考えて瀕死の病人に催眠術をかける。丁度死んだと思う頃、呼びさまして話しかけてみると、自分はもう死んでいると病人は言う、そうして断末魔よりも深い苦痛の声をもって苦しみを訴えるのである。それからの連日二十四時間毎に呼びさまして話しかけると、その表情その声は一日は一日に凄惨を極め、遂いに術者も見るに堪えがたい思いとなって術をとくのであるが、とたんに肉体は忽然(こつぜん)として消え失せ、世に堪えがたい悪臭を放つところの液体となって床板の上に縮んでしまう。――大体、こんな筋の話であったと記憶しているが、私は長島の危篤の病床で、この物語を思い出していたのである。一つには長島もこの物語を読んでいたからであって、ある日私にそのことを物語った記憶が残っていたからであろう。」
「彼の病床での囈言(うわごと)は凄惨であった。」
「これは決して気が狂っていないと私は思った。むしろ正気の人間よりも鋭敏である。私の場合で言うと、私は酒に酔ったある瞬間に時々この状態の鋭敏さを持つことがある。狂人の全てがこうではあるまいが、これが狂人なら狂人は恐るべき存在だと私は思った。
 狂人のこの驚くべき鋭敏さには彼の父親が気付いていた。なぜなら、長島の父は、いわば長島の一生恐るべきライバルの一人であって、彼の精神史は常に父を一人の敵として育っていたからだろうと思う。(中略)彼が危篤の病床で父親に叫んだ言葉は「パパ俺は偉いのだ」という一言であった、ところがパパは一言も答えなかった。」
「父対長島の場合のように、身を以て絶叫しているにも拘らず返答がないということ、これは同時に彼対友人、いな、彼対人生の関係でもあった。併(しか)し人々は故意に彼を苦しめるために返答しなかったわけではないだろうと思われる。所詮、この男は、この悲惨な結果を生まざるを得ない宿命人であったのだろう。」

「彼は(中略)常に自分自身に舌を出しているところの、も一人の自分を感じつづけているところの宿命的な孤独人であった。世に最も悲しく、最も切ないところの宿命の孤独人であったのである。彼の死が不幸であるか幸福であるかは、今私にはとても断定はできない。」



「愉しい夢の中にて」より:

「彼はひどい貧乏であった。無一物で、ガスも電気もとめられて、食事もできない毎日の中で、恐らく人間としては最も窮乏した生活を暮した男であるが、あそこまで窮乏すると、もう人間は妙にみじめな暗さからは脱け出してしまう。」


「文章その他」より:

「私は断片的にしか物が分らない。私は理窟が嫌いなのである。」


「意慾的創作文章の形式と方法」より:

「世に現実が実在すると信ずることは間違いである。なぜなら各人の感覚も理性も同一のものを同一に受け納(い)れはしないから。Aにとって美であるものがBにとって醜であることは常にありうることだ。その意味では各人にめいめいの真実があるわけだが、不変の現実というものはない。即ち我々はめいめい自分の幻像を持っているのである。
 そして芸術家とは、彼が学んだそして自由に駆使することのできる芸術上のあらゆる手法をもって、この幻影を再現する人である。(中略)つまり芸術家とは自己の幻影を他人に強うることのできる人である。」



「枯淡の風格を排す」より:

「人間生きるから死ぬまで持って生れた身体が一つである以上は、せいぜい自分一人のためにのみ、慾ばった生き方をすべきである。毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な何物が生れよう。(中略)自分一人の声を空虚な理想や社会的関心なぞというものに先廻りの邪魔をされることなく耳を澄して正しく聞きわけるべきである。自分の本音を雑音なしに聞きだすことさえ、今日の我々には甚だ至難な業だと思う。」


「桜枝町その他」より:

「私は自分の文学を、まことに苦しみ悩む小数の人々に常に捧げている考えであるが、私はこの信条を大言壮語とは思わない。」


「牧野さんの死」より:

「牧野さんは理窟の言えない人で、自分の血族と血族にあらざる者とを常にただ次のような言葉によって区別していた。「あれはほんとの蒼(あお)ざめた悲しさの分る人だよ」牧野さんが僕の小説をほめる言葉「ねえ、ほんとに、なんとも言えない蒼ざめた君の姿があの中にあるんだよ」彼が私に今にも縋(すが)りつきそうな情熱に燃えて語る時、それは「蒼ざめた悲しさ」に就(つい)て語る時のほかになかった。」

「小田原へ来て以来、牧野さんは一番たまらないのが黄昏(たそがれ)だと言っていたそうだ。夜になればいくらか落ちつくという。それは私も思い当る。(中略)黄昏の狂気のような寂寥(せきりょう)は孤独人の最も堪えられぬ地獄の入口のような気がする。」
「五時が来た。例の黄昏が近づいたのだ。母堂が海岸へ散歩にでかけようとした。その二時間ほど前、牧野さんはピンポン台に紐(ひも)を張り首を入れて自殺の真似をやっていたそうだ。牧野さんは突然母堂に縋(すが)りついて、どうか出かけないでくれ、俺を一人にしないでくれと懇願した。然し母堂は海岸へ散歩にでかけた。
 帰ってきたのが五時半頃で、牧野さんの姿が見えない。台所で女中が夕飯の仕度をしていたのだが、牧野さんが納戸(なんど)へはいった姿は気附かなかったのである。女中が部屋部屋を探したあげく、納戸で英雄君のへこ帯を張り縊死した彼を見出した。」



「牧野さんの祭典によせて」より:

「牧野さんの人生は彼の夢で、彼は文学にそして夢に生きていた。夢が人生を殺したのである。殺した方が牧野さんで、殺された人生の方には却って牧野さんがなかった。」

「牧野さんは日常自殺や死に就(つい)て語ることがなかった。」
「私は彼が自殺に就て語ったただ一つの場合だけを記憶している。牧野さんが泉岳寺附近にいた頃だから五六年前のことだが、稲垣足穂(たるほ)が突然やってきて、貧乏で食えないしめんどくさいから首でもくくろうと思ってね、と唄でもうなるような早口でベラベラまくしたてたという話だった。あんな厭味もなく気取りもなく自殺をベラベラまくしたてたのは聞いたことがないね、と私に語ったことがある。そのほかに自殺の話はしたことがない。

 私はこの数年転々と居候(いそうろう)をしたが、牧野さんのところぐらい居候心持のいいところはなかった。てんでほかの家とけた違いに居候がしいいのである。居候という感じがみじんもしない。ただ生きるというそれだけの事柄に対して彼ほど至上のいたわりを具えていた人はないだろう。」



「現実主義者」より:

「あらゆる行為が錯乱が分裂が矛盾が已に人間と共に可能だった。そして人間の行動はその現実に於てはむしろ浪漫的非現実的であったが、勝れた文学に於てのみ真に現実的であり我々はそこに人間を発見したという、これは単なる逆説でしょうか?」


「フロオベエル雑感」より:

「ドストエフスキーは実人生に於て破廉恥漢であり、その動物性のあくどさに嘔吐を催せしめるほどの鼻もちならぬ人物であったかも知れぬ。(中略)然し乍らドストエフスキーは彼の文学の中においては決して鼻持ちならぬ破廉恥漢ではなく、その誠実な懊悩と数々の試煉の通過によって、恰も愛の具現者の如く又生ける一人の聖者の如く高められた思想の中に自らを失い救うことができている。」


「手紙雑談」より:

「芸術が現身(うつしみ)に負けることが、私はどうにもやりきれない。私は現実を殺したい。(中略)現実の中では私はただ「まごつき」と「部分」の上をよろめき彷徨(ほうこう)しているばかりで、全部を知ることは恐らく永遠にありえないのだ。現実を殺さなければ私の現実は幕があかない。
 私は女を愛する自信がない、女には惚れられたいのであろうけれどもギリギリのところでは女に愛されることすらいやなのだ。どうもそうらしいと私は思ってみたのである。そうして、けれども決して淋しいなぞという感情はもはやそこに住んでいない。そこに住む冷然たる住人はきっとこいつが芸術家だと思った。」



「日本の山と文学」より:

「北条団水の「一夜舟」に、京都東山に庵を結ぶ碩学があり、一夜写経に没頭していると窓から手をさしのべて顔をなでる者があった。そこで朱筆に持ちかえて、その手のひらに花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。明方ちかく窓外に泣き叫ぶ声が起った。声が言うには、私は狸ですが、誤って有徳の学者をなぶり、お書きなさいました文字の重さに帰る道が歩けない、文字を落して下さいませというのであった。文字を洗い落してやると喜んで帰って行ったが、その翌晩から毎晩季節の草木をたずさえて見舞いに来たという話がある。」

「日本の古い物語では、山といえば妖怪と結びつくのが自然であった。それが我々の祖先達の生活の感情であり、観念にほかならなかったからである。」



「作家論について」より:

「我々は小説を書く前に自分を意識し限定すべきではなく、小説を書き終って後に、自分を発見すべきである。」


「文学のふるさと」より:

「そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。」

「生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。」



「ラムネ氏のこと」より:

「愛に邪悪しかなかった時代に人間の文学がなかったのは当然だ。勧善懲悪という公式から人間が現れてくる筈がない。然し、そういう時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあったが、それは戯作者(げさくしゃ)という名でよばれる。」


「文芸時評」より:

「歴史のホンモノという物はどこにも在りはしないのだ。我々は歴史を知らぬかも知れぬが、同様に現代だって知らない。家庭とか勤め先とか、知っているのは生活の場だけで、あとは読んだり聞いたりするだけ、歴史も現代もない。
 僕の書く天草四郎がどの天草四郎に似る必要もないのである。僕の作品の上で実在すればそれでいい。」



「青春論」より:

「三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入(はい)ってみると畳が敷かれていない感じだ、と言ったそうだ。近頃の名評だそうで、僕も笑ってしまったけれども、まったくお寺の本堂のようなガランドウに一枚のウスベリも見当らない。(中略)土足のままヌッと這入りこまれて、そのままズッと出て行かれても文句の言いようもない。どこにも区切りがないのだ。ここにて下駄をぬぐべしと云うような制札がまったくどこにもないのである。
 七十になっても、なお青春であるかも知れぬ。(中略)そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、又、特別なものでもない。然らば、青春とは何ぞや? 青春とは、ただ僕を生かす力、諸々の愚かな然し僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもが全て僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。
 愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。」
「いわば、僕が「後悔しない」と云うのは悪業の結果が野たれ死をしても地獄へ落ちても後悔しない、とにかく俺の精一杯のことをやったのだから、という諦らめの意味に他ならぬ。」

「世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。(中略)魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。
 魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。(中略)けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。(中略)僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪(めい)達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。

 数年前、二十歳で死んだ姪があった。この娘は八ツの頃から結核性関節炎で、冬は割合いいのだが夏が悪いので、暖くなると東京へ来て、僕の家へ病臥し、一ヶ月に一度ぐらいずつギブスを取換えに病院へ行く。ギブスを取換える頃になると、膿(うみ)の臭気が家中に漂って、やりきれなかったものである。傷口は下腹部から股のあたりで、穴が十一ぐらいあいていたそうだ。
 八ツの年から病臥したきりで発育が尋常でないから、十九の時でも肉体精神ともに十三四ぐらいだった。全然感情というものが死んでいる。何を食べても、うまいとも、まずいとも言わぬ。決して腹を立てぬ。決して喜ばぬ。なつかしい人が見舞いに来てもニコリともせず、その別れにサヨナラも言わぬ。いつもただ首を上げてチョット顔をみるだけで、それが久闊(きゅうかつ)の挨拶であり、別離の辞である。空虚な人間の挨拶などは、喋る気がしなくなっているのであった。(中略)母親はめったに上京できなかったが、その母親がやってきてもニコリともしないし、イラッシャイとも言わぬ。別れる時にサヨナラも言わず、悲しそうでもなく、思いつきの気まぐれすら喋る気持にはならないらしい。それでも、一度、朝母親が故郷へ立ってしまった夕方になって、食事のとき、もう家へついたかしら、とふと言った。やっぱり、考えているのだと僕は改めて感じた程だった。毎日、『少女の友』とか『少女倶楽部(クラブ)』というような雑誌を読んで、さもなければボンヤリ虚空をみつめていた。
 それでも稀に、よっぽど身体の調子のいいとき、東宝へ少女歌劇を見に連れて行ってもらった。相棒がなければそんな欲望が起る筈がなかったのだが、あいにく、そのころ、もう一人の姪が泊っていて、この娘は胸の病気の治ったあと楽な学校生活をしながら、少女歌劇ばかり見て喜んでいた。この姪が少女歌劇の雑誌だのブロマイドを見せてアジるから、一方もそういう気持になってしまうのは仕方がない。尤(もっと)も、見物のあと、やっぱり面白いとも言わないし、つまらないとも言わなかった。相変らず表情も言葉もなかったのである。それでも、胸の病の娘がかがみこんで、ねえ、ちょっとでいいから笑ってごらんなさい。一度でいいから嬉しそうな顔をしなさいったら。こら、くすぐってやろうか、などといたずらをすると、関節炎の娘の方はうるさそうに首を動かすだけだったが、それでも稀には、いくらか上気して、二人で話をしていることもあった。それも二言か三言で、あとは押し黙って、もう相手になろうともしないのである。胸の病の娘の方は陽気で呑気(のんき)千万な娘だったのに、二十一の年、原因の分らぬ自殺をとげてしまった。雪国のふるさとの沼へ身を投げて死んでいた。この自殺の知らせが来たときも、関節炎の娘は全然驚きもせず、又、喋りもせず、何を訊こうともしなかった。
 その後、子規の『仰臥漫録』を読んだが、子規も姪と同じような病気であったらしい。場所も同じで、やっぱり腹部であった。子規の頃にはまだギブスがなかったとみえ、毎日繃帯(ほうたい)を取換えている。繃帯を取換えるとき「号泣又号泣」と書いてある。姪の方もさすがに全身の苦痛を表す時があったが、泣いたことは一度もなかった。
 明治三十五年三月十日の日記に午前十時「此日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小キ穴ト思ヒシニガランドナリ心持悪クナリテ泣ク」とある。(中略)子規は大人だから泣かずにいられなかったのだろうが、娘の方は十一もある穴を見たとき、まったく無表情で、もとより泣きはしなかった。食事だけが楽しみで、毎日の日記に食物とその美味、不味ばかり書いている子規。何を食べても無言の娘。」
「然し、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、僕が大いに気負って青春論(又は淪落論)など書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮んできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、ガッカリしているうちに、ふと書いておく気持になった。書かずにいられない気持になったのである。ただ、それだけ。」

「剣法には固定した型というものはない、というのが武蔵の考えであった。相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵は之を否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても駄目であらゆる変化に応じ得る根幹だけが大事だと言って、その形式主義を非難したのである。」
「武蔵はとにかく一個の天才だと僕は思わずにいられない。(中略)堂々と独自の剣法を築いてきたが、それはまさに彼の個性があって初めて成立つ剣法であった。(中略)個性を生かし、個性の上へ築き上げたという点で彼の剣法はいわば彼の芸術品と同じようなものだ。」
「武蔵は試合に先立って常に細心の用意をしている。(中略)試合に当って常に綿密な計算を立てていながら、然し、愈々(いよいよ)試合にのぞむと、更に計算をはみだしたところに最後の活をもとめているのだ。このような即興性というものは如何程深い意味があってもオルソドックスには成り得ぬもので、一つごとに一つの奇蹟を賭けている。自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭博をしているのである。」
「まったくもって、剣術というものを、一番剣術本来の面目の上に確立していながら、あまりにも剣術の本来の精神を生かしすぎるが故に却(かえ)って世に容れられず、又自らはその真相を悟り得ずに不満の一生を終った武蔵という人は、悲劇的な人でもあるし、戯画的な滑稽さを感じさせる人でもある。彼は世の大人たちに負けてしまった。柳生派の大人たちに負け、もっとつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大人になろうとしなければ、負けることはなかったのだ。」

「僕は全く小説は山師の仕事だと考えている。金が出るか、ニッケルが出るか、ただの山だか、掘り当ててみるまでは見当がつかなくて、とにかく自分の力量以上を賭けていることが確かなのだから。」



「堕落論」より:

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」



「文芸時評」より:

「救われるか殺されるか地獄へ落ちるか、やってみた上でなければ分らない。これだけは文学の宿命だ。」


「蟹の泡」より:

「この作者のあのあさましい淪落(りんらく)の姿を今は別の思いをこめて思いだす。まったくこの作者の現身(うつしみ)は破局に身を沈めており、淪落のどん底に落ち、地獄の庭を歩いていたに相違ない。この地獄をくぐらなければ人間の傑作は書き得ないのだ。」

「私は善人は嫌いだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあいで世を渡り、真実自我を見つめるという苦悩も孤独もないからである。悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独という必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないという崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況(いわん)や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、(中略)孤独の性格の故に私は悪人を愛しており、又、私自身が悪人でもあるのである。」
「文学とは人間の如何に生くべきかという孤独の曠野(こうや)の遍歴の果実であり、この崖に立つ悪の華だが、悪自体ではない。
 私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらわしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタズタに引き裂いてやりたい。そしてもし縫い直せるものならすこしでもましなように縫い直したい。」



「デカダン文学論」より:

「一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。
 私はただ、私自身として、生きたいだけだ。」
「私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。」











































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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