『坂口安吾全集 3』 (ちくま文庫)

「このあたりの村々では、往昔、無数の切支丹が、その鮮血を主に捧げたという。今は、山も、杜も、海も、ただ青々と変哲もなかった。が、波子は、なにか、なつかしかった。」
(坂口安吾 「波子」 より)


『坂口安吾全集 3』 
紫大納言/真珠/イノチガケ ほか
ちくま文庫 さ 4-3

筑摩書房
1990年2月27日 第1刷発行
569p 「編集付記」2p
文庫判 並装 カバー
定価980円(本体951円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 横尾忠則



本書「解題」より:

「第三巻には、坂口安吾が長編小説の観念の実験に着手した時期から、その苦闘の歴史に終止符を打って新たな文学の可能性を発見していった昭和十一年(一九三八)三月から昭和二十一年(一九四六)三月にかけて発表した小説二十七篇を発表年代順に収めた。」


新字・新かな。


坂口安吾全集03 01


目次:

禅僧
不可解な失恋に就て
雨宮紅庵
老嫗面
女占師の前にて
南風譜
閑山
紫大納言
木々の精、谷の精
勉強記
醍醐の里
総理大臣が貰った手紙の話
篠笹の陰の顔
盗まれた手紙の話
イノチガケ――ヨワン・シローテの殉教
風人録
波子
島原の乱雑記
真珠
居酒屋の聖人
五月の詩
伝統の無産者
二十一
鉄砲
露の答
朴水の婚礼
土の中からの話

解説 (本田和子)
解題 (関井光男)



坂口安吾全集03 02



◆本書より◆


「篠笹の陰の顔」より:

「高木は屡々(しばしば)自殺を計って奇妙に幾度も失敗した。というのは、彼は週期的に精神錯乱を起す不幸な先天的欠陥があって、そのたびに異常に突きつめた世界へ走り、幾日も睡(ねむ)らず考え又書きつづけ、その手記を私の所へ送って自殺を計る。何回となくやった。私はとうとう友人の不幸な錯乱に不感症になってしまった。」
「瀬戸内海の海で、やりそこなったこともあるし、自宅で薬品自殺して分量が多過ぎて却(かえ)って生返ったこともあった。そのたびに手記が私の所へとどき、私は彼と睨合うために出掛けなければならなかった。
 ある夏の早朝電報がきて、私は渋谷の彼の家へ行った。
 十四五――私はむしろ小学校の六年生ぐらいだと思った――少女がでてきて、私を座敷へ案内した。今に母親か姉(高木の妹)が出てきて話をするのだろうと私は思いこみ、少女を眼中におかず、煙草をふかしていた。
 ところが少女は立去らない。卓を隔てて私の正面へピタリと坐り、団扇(うちわ)を使いながら平然と私を見て笑っている。
 「兄が自殺しそうですので御迷惑でも行ってみていただきたいのですけど」
 少女は笑いを浮べながらそう言っているのである。
 「居所は横須賀の旅館なのです。もう死んでいるかも知れませんけど」
 少女の微笑はいささかも破綻(はたん)することがなく続いている。私はうんざりせずにいられなかった。
 伜が自殺しそうだから駈けつけてくれというのは分っているが、その依頼を小学生にまかせる奴があるものか。その小娘が私の正面へ一人前にピタリと坐って団扇を使いながら落着払って微笑しながら喋っている。
 母親が不在のわけではなかった。高木の母は長唄の名手で現にお弟子さんを教えている三昧の音が二階からきこえている。
 自殺は馬鹿のすることだ。自殺をしたがる人間にも、その巻添で慌てている人にも私はそういう態度を結局見せずにはいられない。それが私の本心だからである。
 けれども家族の感情は多少別のところにある筈で、慌てていても差支えはないのであるし、駈けつけてくれと頼まれて合点とばかり引受けるからには、多少先方が慌てたり悲嘆してくれなければ、引受けるこっちが変なものだ。
 宜しい。では横須賀へ行ってみましょうと言うだけのことでも、大人げなくて言い切れない有様である。庭に篠笹(しのざさ)の植込があって幽(かす)かにゆれているのを、私は喋る気がしなくなって、実に長いこと睨んでいた。じゃ、横須賀へ行ってきます、私がそう言うつもりで少女の方を振向いたら、やっぱり微笑していた。
 私は横須賀へ行った。旅館できくと、彼は逗子(ずし)へ海水浴にでかけて不在だと言った。死ぬ者は死ぬ。帰りを待って会ってみても仕方がない。私はそのまま戻ってきた。
 数日後少女から手紙がきた。兄が無事帰ったという知らせで、自殺する筈の男が海水浴に行っていたということを余程の悪徳と考えたらしく、兄に代って弁解と詫(わ)びが連ねてあった。」
「高木に会ったとき、妹の齢を尋ねた。十九だと答えた。その春女学校を卒業して女子大学の学生だというのである。
 「それじゃない。その下の人だよ」
 「僕の妹はひとりしかないのだ」
 これをそっくり鵜呑(うの)みにするには奇蹟を信じる精神がいる。小学校の六年生と思いこんでいたのである。」

「私は近頃切支丹(きりしたん)の書物ばかり読んでいる。小田原へ引越す匆々(そうそう)三好達治さんにすすめられて、シドチに関する文献を数冊読んだ。それから切支丹の本ばかり読む。パジエスの武骨極まる翻訳でもうんざりするどころか面白くて堪らないのである。
 文献を通じて私にせまる殉教の血や潜伏や潜入の押花のような情熱は、私の安易な常識的な考え方とは違うものを感じさせ、やがて私は何か書かずにいられないと思うけれども、今は高潔な異国に上陸したばかりのようで、何も言うことが出来ないのである。
 内藤ジュリヤ。京極マリヤ。細川ガラシャ。ジュリヤおたあ。死をもって迫られて尚(なお)之(これ)を棄てなかった婦人達。私の安易な婦人観とはだいぶん違った人達であった。私には、これらの婦人と現実の婦人たちとの関聯や類似がはっきりしない。どういう顔をしていただろうか。日常の弛(ゆる)んだ心にも主の外に棲むことはできなかったのだろうか。そして肉体の中にも?――私には分らないのである。この現実とつなぎ合せる手がかりが見当らない有様である。
 けれども私は手をやすめて、血を主に捧げた婦人達のおぼろげな面影を描いている瞬間がある。するとそのとき浮びでるひとつの顔があるのだ。それは高木の妹の笑顔であった。どういうわけだか私は必ず庭の篠笹を思いだし、さやさやと幽(かす)かにゆれる葉陰に透明な幼い笑いを視凝(みつ)めているのであった。」



「露の答」より:

「すこし離れたところに折葉さんが父の日記を執りあげて読んでいました。そこで太郎丸氏の着想は急角度に転進して、氏自ら忽然古代史の奥底に没入し去ってしまった。
 私は生きているのが面倒くさくなるのですよ。死んでから、人間がどうなるか、あなたは知っていますか、私は知らんです。妹(折葉さんのこと)にききましたら、多分眠っているときと同じだろうと言うのですが、私は眠ることもあんまり好きではないです。私は熟睡できないです。その代り、一日に十六時間ぐらい寝床にいます。本を読んだり寝たふりをしています。私は死のうと思ったことがありました。そのとき妹に相談して一緒に死のうと思ったです。けれども、妹に相談すれば、妹は必ず一緒に死ぬと答えるですから、私は慌ただしいことになるでしょう。多分私は妹にひかれて妹のあとからフラフラと死ぬような立場になるですから、みじめだと思ったです。そう思いながら妹の顔を見ましたが、眼は見ませんでしたが、鼻と唇を見たです。なぜなら、そのとき妹は横を向いていたからでした。妹の鼻の形は美しいですから。けれども整った美しさですから、唇のみずみずしさ妖しさに比べれば、永く注意を惹かなかったです。私は唇をみつめていました。あなたはこの世に無限の物を見たことがありますか。私は法隆寺を見物しました。千年の昔からつづき、そして之から何千年つづくか知れませんが、私は然し心を動かされませんでした。あれは無限ではないです。夢殿の観音も見ましたが、私はグロテスクだと思っただけです。私は妹の唇を見ているうちに心をうたれて、無限だと思ったのです。私は妹と一緒に死ぬのはいけないことだと思いました。私は泣いたです。一日中、寝たふりをして泣いていたです。泣くわけが分らなかったですが、涙が流れていつまでも涸(か)れないので奇妙でした。一日一晩泣きあかしたです。そして死ぬのをやめました。けれども、その後も、今も、生きているのが面倒です。私は今でも時々妹の唇をぬすみ見しますが、見るたびに、段々と別のことを思うようになったです。もはや無限ではないのです。私には手のとどかない秘密があるのだと思ったです。妹は美しすぎます。私は妹を見ていると、十里四方もつづく満開の桜の森林があって、そのまんなかに私だけたった一人置きすてられてしまったような寂しさを感じます。私は花びらに埋もれ、花びらを吹く風に追われて、困りながら歩いているのです。
 私は若干の勇気をもって折葉さんの方をぬすみ見ずにはいられなかった。そうして、私はそこに、まさしく折葉さんの横顔を見た。けれども、鼻の形や唇はとにかくとして、何事も耳に聴えぬような顔のあまりの涼しさに驚きました。耳があるのか、耳があるならば、この人の節制はこの世の物ではないような、すべて遠い世の有様を眼前に見ているような奇怪の感にとらわれましたが、その顔の涼しさはまさしく桜の森林に花びらを吹く風の類いに異なりません。」



























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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