『坂口安吾全集 5』 (ちくま文庫)

「魔力は物のいのちでした。物の中にもいのちがあります。」
(坂口安吾 「桜の森の満開の下」 より)


『坂口安吾全集 5』
桜の森の満開の下/金銭無情/青鬼の褌を洗う女 ほか
ちくま文庫 さ 4-5

筑摩書房
1990年4月24日 第1刷発行
573p 「編集付記」2p
文庫判 並装 カバー
定価1,030円(本体1,000円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 横尾忠則



本書「解題」より:

「第五巻には、坂口安吾が梶三千代と知り合って結婚し、その新しい生活環境のなかで作風に変化を示しはじめた昭和二十二年(一九四七)四月から昭和二十三年一月にかけて発表した小説十三篇を発表年代順に収めた。」


新字・新かな。


坂口安吾全集05 01


目次:

わが戦争に対処せる工夫の数々
花火
暗い青春
金銭無情
 金銭無情
 失恋難
 夜の王様
破門
桜の森の満開の下
オモチャ箱
散る日本
青鬼の褌を洗う女
決闘
淪落の青春
出家物語
二流の人

解説 (篠田正浩)
解題 (関井光男)



坂口安吾全集05 02



◆本書より◆


「わが戦争に対処せる工夫の数々」より:

「この新潟の海には、昔、村山臥龍先生という水泳術の大家がいて(中略)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでいると、私などでも、ああ泳いで行ってみたいな、と泳げもせぬくせに考えるもので、直線距離で三十二哩(マイル)といわれている。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻ろうと出発して、そのまま先生の消息は地上から消えたのである。」
「私は村山臥龍先生を尊敬しているのである。先生はモーターボートどころか小舟のお供もつれておらぬので、いったん佐渡まで泳ぎつき、又、泳いで戻ろうというのが愉快じゃないか。我々にとって水泳は遊びだけれど、水泳家の先生には職業であり、わが魂魄(こんぱく)を打ちこみささげた術であり、大好きなのだ。たぶん夜であったろう。私はそう思う。夜にかからずに泳ぐことはできない。たぶん鱶(ふか)に襲われたのだろう、と私は思う。悔ゆることはない。私は新潟の浜辺から佐渡を眺めて先生のことを思うのが愉(たの)しい。」

「私は友人縁者からも疎開をすすめられ、家を提供するという親切な人も二三あったが、それを断って危険の多い東京の、おまけに工業地帯にがんばっていた。私は戦争を「見物」したかったのだ。死んで馬鹿者と云われても良かったので、それは私の最後のゼイタクで、いのちの危険を代償に世紀の壮観を見物させて貰うつもりだった。言うまでもなく、決して死に就て悟りをひらいているわけではない私が、否、人一倍死を怖れている私が、それを押しても東京にふみとどまり、戦禍(せんか)の中心に最後まで逃げのこり、敵が上陸して包囲され、重砲でドカドカやられ、飛行機にピューピュー機銃をばらまかれて、最後に白旗があがるまで息を殺してどこかにひそんでいてやろうというのは、大いに矛盾(むじゅん)している。然し、この矛盾は私の生涯の矛盾で、私はいつもこういう矛盾を生きつづけてきたのであり、その矛盾を悔む心はなかった。死ねば仕方がないということは考えていた。私は兵隊がきらいであった。戦争させられるからではなしに、無理強いに命令されるからだ。私は命令されることが何より嫌いだ。そして命令されない限り、最も大きな生命の危険に自ら身を横えてみることの好奇心にはひどく魅力を覚えていた。」

「近所の連中は気が違ったかと思って呆気(あっけ)にとられているが、私は心に期するところがあって俗人を軽蔑している。
 私がここまで落ちぶれたのも仕方がない。近所へ落ちた爆弾のために防空壕の七人が圧死したことがある。見渡す焼野原にも雑草が生えかけた頃で、もう人間の死んだのなどは誰も珍しがりはしない。私がたまたま手紙をだしに行く途中通りかかると、二人の男が屍体(したい)七ツつみ重ねて火をつけるところだ。見物しているヒマ人もおらず、鼻唄まじりで呑気(のんき)なもので面倒がってドッコイショと屍体を投げすてて、次の屍体をとりに行きかけて、ヒョッと気がついたのは何かというと屍体が戦闘帽をかぶっている。これは勿体(もったい)ないというので、戦闘帽をぬがせて横ッちょへ投げた。あとで誰にいくらに売ったか知らないが、私は然しチラと横目にこれを見て、別に厭な気はしなかった。青空の明るい夏であった。すべては健康であった。野武士というものも、こんな風な、健康なものであったに相違ない。人間の健康さだか、森の狸(たぬき)や狢(むじな)のような健康さなのだか知らないが、私は今でも忘れない。(中略)だいたい屍体に対する特殊の感情や態度が微塵(みじん)もないので、罪悪的な暗さは全くない。開放的で、大らかで、私が健康を感じたのは私が落ちぶれたせいではないのである。私をとりまく環境が、こういう風になっていた。」



「暗い青春」より:

「青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着している時期なのだ。人生の迷路は解きがたい。それは魂の迷路であるが、その迷路も死が我々に与えたものだ。矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)、もつれた糸、すべて死が母胎であり、ふるさとでもある人生の愛すべく、又、なつかしい綾(あや)ではないか。」

「私はまったく健康だった。然し健康な肉体、健康な魂ほど、より大きな度合いをもって、死にあやつられているものだ。
 私はまったく野心のために疲れていた。
 その野心は、ただ、有名になりたい、ということであった。」
「その失意は、私にいつも「逃げたい心」を感じさせた。私は落伍者にあこがれたものだ。(中略)思えば落伍者へのあこがれは、健康な心の所産であるかも知れぬ。なぜなら、野心の裏側なのだから。」

「満々たる自信どころか、ひとかけらの自信、生きぬくよりどころのない私であった。私の踏む足はいつも宙に浮いていたのだ。」



「桜の森の満開の下」より:

「昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。」

「この山に一人の山賊が住みはじめましたが、この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました。そこで山賊はそれ以来花がきらいで、花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中では呟(つぶや)いていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだんと衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。」

「自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。」
「魔力は物のいのちでした。物の中にもいのちがあります。」

「花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽(たちま)ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分ったとき、夢の中から我にかえった同じ気持を見出しました。夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。」

「男と女とビッコの女は都に住みはじめました。
 男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入りました。着物や装身具も持ちだしましたが、それのみが女の心を充たす物ではありませんでした。女の何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。
 彼等の家にはすでに何十の邸宅の首が集められていました。部屋の四方の衝立(ついたて)に仕切られて首は並べられ、ある首はつるされ、男には首の数が多すぎてどれがどれやら分らなくとも、女は一々覚えており、すでに毛がぬけ、肉がくさり、白骨になっても、どこのたれということを覚えていました。」
「女は毎日首遊びをしました。首は家来をつれて散歩にでます。首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。首が恋をします。女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。
 姫君の首は大納言の首にだまされました。大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んで行って契(ちぎ)りを結びます。契りの後に姫君の首が気がつきます。姫君の首は大納言の首を憎むことができず我が身のさだめの悲しさに泣いて、尼になるのでした。すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首を犯します。姫君の首は死のうとしますが大納言のささやきに負けて尼寺を逃げて山科(やましな)の里へかくれて大納言の首のかこい者となって髪の毛を生やします。姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていました。二人の首は酒もりをして恋にたわぶれ、歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。
 ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、けたたましく笑いさざめきました。
 「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」
 女はカラカラ笑います。綺麗(きれい)な澄んだ笑い声です。薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。」

「美しい娘の首がありました。清らかな静かな高貴な首でした。子供っぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、閉じられたマブタの奥に楽しい思いも悲しい思いもマセた思いも一度にゴッちゃに隠されているようでした。女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧をしてやりました。ああでもない、こうでもないと念を入れて、花の香りのむらだつようなやさしい顔が浮きあがりました。」

「男は山の上から都の空を眺めています。その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。」

「山へ帰ろう。山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?」

「そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。」



「オモチャ箱」より:

「こういう筋を書こう、この人物にこういう行動をさせよう、そう考えていても、原稿紙に向うと気持が変る。
 気持が変るというのは、つまり前夜考える、前夜の考えというのが実は我々の平常心によって考案されておるのだが、原稿に向うと、平常心の低さでは我慢ができない。全的に没入する、そういう境地が要求される、創作活動というものはそういうもので、予定のプラン通りに行くものなら、これは創作活動ではなくて、細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術という創造は行われない。芸術の創造は常にプランをはみだすところから始まる。予定のプランというものはその作家の既成の個性に属し、既成の力量に属しているのだが、芸術は常に自我の創造発見で、既成のプランをはみだし予測し得ざりしものの創造発見に至らなければ自ら充たしあたわぬ性質のものだ。」

「庄吉は夢をつくっていた人だ。彼の文学が彼の夢であるばかりでなく、彼の実人生が又、彼の夢であった。
 然し、夢が文学でありうるためには、その夢の根柢が実人生に根をはり、彼の立つ現実の地盤に根を下していなければならない。初めは下していたのである。だから彼の女房は夢の中に描かれた彼女を模倣し、やがて分ちがたく似せ合せ彼等の現実自体を夢とすることができたのだ。
 彼の人生も文学も、彼のこしらえたオモチャ箱のようなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与えた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存していたのである。」
「庄吉だって知っていた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与えた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。」



「散る日本」より:

「思えば空襲は豪華きわまる見世物であった。ふり仰ぐ地獄の空には私自身の生命が賭けられていたからだ。生命と遊ぶのは、一番大きな遊びなのだろう。イノチをはって何をもうけようという魂胆があるでもない。
 文学の仕事などというものが、やっぱりそういう非常識なもので、いわばそれに憑(つ)かれているからの世界であろう。芸ごとはみんなそうで、書きまくって死ぬとか、唄いまくって、踊りまくって、喋りまくって、死ぬとか、根はどっかと尻をまくって宿命の上へあぐらをかいている奴のやることだ。」
「一人芝居、憑かれて踊ってオサラバ、本当の芸人なら生き方の原則はこれだけだ。我がまま勝手、自分だけのために、自分のやりたいことをやりとげるだけなのだから。」



「青鬼の褌を洗う女」より:

「私は元来無口のたちで、喋らなくてすむことなら大概喋らず、タバコが欲しい時にはニュウと手を突きだす。タバコちょうだい、取ってちょうだい、そんなことを言わなくともタバコの方へ手をのばせば分るのだから、黙って手をニュウとだす、するとその掌の上へ男の人がタバコをのせてくれるものだときめているわけでもなくて、のせてくれなければタバコのある方へ腰をのばして益々ニュウと手を突きのばして、あげくに、ひっくりかえってしまうこともあるけれども、私は孤独になれていて、人にたよらぬたちでもあり、怠け者だから一人ぽっちの時でも歩いて取りに行かず、腰をのばし手をのばして、あげくに掴んだとたん、ひっくりかえるというやり方であった。けれども男は女に親切にしてくれるものだと心得ているから、男の人が掌の上へタバコをのっけてくれても、当り前に心得て、めったに有難うなどとは言ったことがない。
 だから私はあべこべに、男の人が私の膝の前のタバコを欲しがっていることが分ると、本能的にとりあげて、黙ってニュウと突きだしてあげる。そういうところは私は本能的に親切で、(中略)その代り、私は概(おおむ)ねウカツでボンヤリしているから、男の人が何を欲しがっているか、大概は気がつかないのである。」



「二流の人」より:

「天才達は常に失うところから出発する。彼等が彼自体の本領を発揮し独自の光彩を放つのは、その最悪の事態に処した時であり、そのとき自我の発見が奇蹟の如くに行われる。」




「桜の森の満開の下」に関しては、こちらもご参照ください:

『谷崎潤一郎全集 第二十巻 武州公秘話 聞書抄 他』 (新書判)
オスカア・ワイルド 原作/オオブリ・ビアズレイ 挿画/日夏耿之介 翻訳 『院曲 撒羅米(サロメ)』
『坂口安吾全集 18』 (ちくま文庫)
「安吾人生案内 その四 人形の家」 (青空文庫)
















































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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