中里介山 『大菩薩峠 一』 (新装版)

「この人は幽霊ではあるまいか」
(中里介山 『大菩薩峠』 より)


中里介山 
『大菩薩峠 一』


筑摩書房
昭和51年6月20日 初版第1刷発行
昭和54年6月15日 新装版第1刷発行
382p
四六判 丸背紙装上製本 機械函
定価1,800円
装幀: 安東澄



本文二段組。全十二冊。

たんすの上の段ボール箱から出てきた坂口安吾全集をよみおわったので、戸棚の上の段ボール箱から出てきた大菩薩峠を久しぶりによんでみましたよ。


中里介山 大菩薩峠 一


目次:

甲源一刀流の巻
鈴鹿山の巻
壬生と島原の巻
三輪の神杉の巻
竜神の巻
間の山の巻
東海道の巻

解題(一) (南波武男)




◆本書より◆


「甲源一刀流の巻」より:

「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。」


「鈴鹿山の巻」より:

「夜(よ)が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛(とりまぎ)れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感(かん)が嵩(こう)じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過(あやまち)がなかったと立派な口が利(き)けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによく眼を醒(さま)して「それ見ろ」と叱(しか)ります。
 竜之助は夜中になると、きっと魘(うな)されます。」



「壬生と島原の巻」より:

「助けらるべき人を見殺しにする、そこに一種の痛快な感じを以て、竜之助は人を殺したあとで見する冷笑を浮べて寝ころんでいるのです。
 「死ね、死ね、死にたい奴は勝手に死ぬがいい」
 心の中では、こんなに叫んでいる。それでもなんだか、後からついて来るものがあるようです。」

「七兵衛は子供の頃から、屋(や)の棟(むね)を歩くのが好きであった。自分の家の屋の棟を歩き終ると、隣りの屋根へ飛び移って、それからそれと宿(しゅく)の土を踏まずに歩いていた。長い竿(さお)で追いかけられる、その竿をくぐり抜けて、木の枝に飛びつき、塀の峰を走る。八方から竿でつきかけて、ついに足を払い得たものもなかったそうです。
 月の宵(よい)、星の夜、真暗(まっくら)な闇の晩、飄々(ひょうひょう)として七兵衛が、この屋の棟遊びをやらかすことがある。秩父颪(ちちぶおろし)の烈しい晩など、サーッと軒を払って散る淅瀝(せきれき)の声が止むと、乾き切った杉の皮がサラサラと鳴る。ト、ト、トと、なずなを刻(きざ)むような音を屋根裏で聞くと、老人は眉をひそめて、
 「七公、また悪戯(いたずら)をはじめやがったな」」

「「あの地蔵様の歌のつづきを教えてもらいてえ」
 「和讃か」
 「西院河原地蔵和讃(さいのかわらぢぞうわさん)、空也上人御作(くうやしょうにんおんさく)とはじめて――
  これはこの世のことならず、
  死出(しで)の山路(やまぢ)の裾野(すその)なる、
  さいの河原の物語、
  聞くにつけても哀れなり、
  二つや三つや四つ五つ、
  十にも足らぬみどり子が、
 ここまで覚えたからその次を」」

「「この人は幽霊ではあるまいか」」

「竜之助の眼の色は、真珠を水に沈めたような色です。水が澄む時は冴える、水が濁る時は曇る。冴える時も曇る時も共に沈んだ色があった。」

「「えゝえゝ、差支えのある段ではございませぬ、人の世で見放されたものをも、お拾いなさるのが観音様の御利益(ごりやく)でござります」
 「左様か、忝(かたじ)けない」
 僻(ひが)んで取れば、この巡礼の返答ぶりも癪(しゃく)にさわる。おれの今日(こんにち)の運命は自ら求めたもので、おれは落魄(おちぶ)れても気儘(きまま)の道を歩いているのだ、まだ神仏におすがり申して後生(ごしょう)願うような心は起さぬ。竜之助の心には、充分の我慢が根を張っているけれども、差向き今の身に宿を貸してくれるところは、神社仏閣の廂(ひさし)の下のほかにはありそうもない。」



「竜神の巻」より:

「「忠義を忘れたか!」
 忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。」

「「眼は心の窓ぢゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」
 竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。
 心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと夢裡(ゆめ)に入る。」



「間の山の巻」より:

「内宮(ないくう)と外宮(げくう)の間にあるから間(あい)の山(やま)というのであって、その山を切り拓(ひら)いて道を作ったのは天正年間のことだそうであります。なお委(くわ)しくいえば、伊勢音頭(いせおんど)で名高い古市(ふるいち)の尾上坂(おべざか)と宇治の浦田坂の間、俗に牛谷というところあたりが、いわゆる間の山なので、そこには見世物や芸人や乞食がたくさん群がって、参宮の客の財布(さいふ)をはたかせようと構えております。」

「「あれは間の山のお玉ではないか」
 町の人は早くも、お玉の姿を見つけ出して、
 「お玉に違いない、お玉が、また逗留(とうりゅう)のお客様に呼ばれて間の山節を聞かせに行くのだ」」

「間の山節の来る間を芸妓や仲居が取持っているのでありますが――お客様が待っているほどに取巻(とりまき)どもは気が進みません。それは間の山節なるものが、名こそ風流にも優美にも聞ゆれ、実は乞食歌に過ぎないというさげすみと、何を言うにもお玉風情(ふぜい)の大道乞食がという侮(あなど)りがあるからであります。それでもやはり間の山節というと、この楼でもお玉を招かねばならぬことになっているのでありました。
 「お杉お玉も、昔からこの土地に幾代もございまして、今のお杉お玉はその幾代目に当りますことやら、わたくしどもでさえよく存じませぬが、お玉だけは、今までのお玉とお玉が違うのだそうでございますよ」」

「夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし

花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅」

「近寄れるけれども、触れることのできない美しさ、美しい哉(かな)、「ほいと」の娘はついに「ほいと」の娘で朽(く)ちてしまわねばならぬ運命を持っていました。もしその美しさに触れんとならば、「ほいと」と一緒に腐ってしまう覚悟でなければならぬ。
 今のお玉の母が、やはりこの部落から出て、お玉を勤めている間に、この苦しい瀬戸を越えて今のお玉を産み落したのでありました。そこに悲しい物語があって、今のお玉は現在自分の父が何者であるかを知らないのでありました。」

「「わたし、逃げるわ、何も悪いことをしないのに捉まっては合わないから逃げるわ、あとでわかることでしょうから逃げるわ」
 お玉は無分別に、跣足(はだし)で縁を飛び下りて、無暗(むやみ)に逃げ出してしまいました。」

「「やいやい、ムクは狂犬ぢゃねえんだ、汝(てめえ)たちが狂犬にしちまったんだ、ムクを殺しやがると承知しねえぞ」」

「お玉は仕事場の中へ入って炉の傍へ寄って、いま出て行った老爺(おやじ)の帰るのを一人で待たされていました。焚火の光で、丸太を組み渡した高い天井が白い蛇の這(は)っているように見えました。光の届かない家の四隅は真暗で、外で千鳥の啼(な)く声が淋しい。」

「この人は、情というものも涙というものも涸(か)れ切った人なのか、そうでなければ天性そういうものを持って生れなかった人なのか。」

「こう火影から覗(のぞ)いて見ると、どうもなんとなくこの世の人ではないような気がします。」

「噂の通り米友は大湊の浜でつかまってしまいました。」
「いろいろに調べられたけれどもついに白状しません。白状すべきことがないから白状しないのを、それを剛情我慢と憎(にく)まれて、よけいに苛(いじ)められるものですから、米友は意地になって役人をてこずらせてしまいました。」



「東海道の巻」より:

「笠を被ったなりで見れば子供に違いないけれど、笠の下からその面を見れば、子供ではないのです。
 「なんだか河童(かっぱ)みたような、気味の悪い」
 これは子供でもなし、また河童でもなし、宇治山田の米友(よねとも)でありました。
 通るところの人々から同情されたり侮蔑(ぶべつ)されたりしながら、米友は伊勢の国から、ともかくもここまで(中略)歩いて来たものであります。」

「「心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣足乞食(はだしこじき)と同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公卿(くげ)さまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね」」

「「どうして俺らはこんなに人に間違えられるんだ、悪いことをしねえのに悪者にしてしまやがる、ほんとに口惜(くや)しいなあ」
 ほんとに口惜しい、米友は無邪気で痛烈な歯噛(はが)みをする、米友の身にとればほんとに口惜しいに違いないのです。
 「仕方がねえから逃げちまえ」」





中里介山 『大菩薩峠 二』 (新装版)
























































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分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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