中里介山 『大菩薩峠 七』 (新装版)

「どうもこのごろは、夢と本当のこととがぼかされてしまって、つぎ目がハッキリしませんから、覚めても、やっぱり夢でよかったという気にはなれないから、いやになっちまいますね、まるで夢にからかわれているようなんですもの」
(中里介山 『大菩薩峠』 より)


中里介山 
『大菩薩峠 七』


筑摩書房
昭和51年6月20日 初版第1刷発行
昭和54年6月15日 新装版第1刷発行
355p
四六判 丸背紙装上製本 機械函
定価1,800円
装幀: 安東澄



本文二段組。全十二冊。


中里介山 大菩薩峠


目次:

年魚市の巻
畜生谷の巻
勿来の巻

解題(七) (南波武男)




◆本書より◆


「年魚市(あいち)の巻」より:

「少なくとも一種のキ印には相違ないが、そのキ印は、キチガイのキではなく、キケン人物のキでもなく、最も愛すべき意味の畸人(きじん)のキであることを、感ぜずにはおられませんでした。」

「「なんだか、お雪ちゃんの話は、捜神記(そうじんき)を夢で見ているようで、我々には、いっこう取りとまりがないが……」
 「いいえ、茂ちゃんていう子は、それは不思議な子よ、どんな荒い獣でも、空を飛ぶ鳥でも、地に這(は)う虫でも、みんな呼び寄せて、なつけてお友達にしてしまうんです、そのくせ、人間に逢っては、ずいぶん臆病なんですけれども、人間のほかのものなら、何でも怖いということを知りませんね、自分が怖がらないから、先方で自然にお友達になって来るのです――うちにいる時も、狼を呼びよせて、しょっちゅうお友達にして、自分の寝る縁の下へ住まわせて、御飯を分けて食べさせていましたが、そのくせ、わたしたちにそれが見つかりゃしないかと、ビクビクしていましたわ。狼よりわたしたちが怖いなんて、ずいぶん変った子でした」
 「ほんとうにお雪ちゃんの周囲(まわり)には、変りものばかり集まるんですね」
 「つき合ってみれば、ちっとも変っていないんですけれど、聞いてみると、とてもよりつけない人たちのように思われましょう」」

「「お聞きになりたくないことを、強(し)いてお話しようとも思いませんが、人間はみんな弱い者ですから、おたがいに許すことですね、いくら許しても害にはなりません、許しても許しきれないことは、神様が許しませんからね、仏様が見とおしていらっしゃいますからね、許されても許されないものは許されません、このわたしを御覧なさいな」」

「彼は、どこぞでひとたび霊魂不滅の説を吹きこまれてから、それが全く頭脳の中に先入していて、生きている人と、死んだ人との区別が、どうもハッキリしない。有るようで、無いようで、今まで生きていた人が、死んで消え失せたとはどうしても思えないし、そうかといって、眼前、自分の前で死なせて、お葬(とむら)いまで立会った人が、もう一ぺん、生きて動いて来るとは、どうしても考えられないこともある。」
「とにかく、この男としては、どうしても死んだものが、もう一ぺん、形を取って現われて来るようにしか思われてならない。死の悲しみは味わわせられたが、それは、別離の悲しみの少し深い程度のもので、いつか、また会われるという感じが取去れないのが、今はもう信念というほどのものにまでなっている。」

「「白川ならば、平家落武者ではありませんけれど、永久に、わたしたちの身を隠すことができましょう――わたしたちばかりでなく、子供たちや孫の代まで、落着いてこの生を託することができるというわけではありませんか。(中略)もし、また、その白川とやらも、思わしくないようでしたら、それこそほんとうに、この世の行きづまりですから、わたしは、もう、それより以上に生きようとは思いません……」」

「「それはもう、今となっては何とお取り下さってもかまいません。駈落といわれても、心中といわれても、今はもうわたしは驚かなくなりました。白川へ行ってしまえば別天地ですから、多分、天地がわたしたちにだけ出来ているようになってくると思います。
そこで、武陵桃源の夢のように、一生を過ごせてしまうなら、一生でもかまわないと思います。
世間体(てい)や義理なんぞ……
自身のからだの変化や、人様のおもわくや、出る人や、来る人に、いちいち気をおくような無用な心配は、一切なくなってしまうぢゃありませんか。
きっと、そういうところで、わたしたちは、いつまでも若い血色で、そうして、自分ながら数えきれないほどの長生きをするのぢゃないかと思います……
長生きすれば恥多しというのは、世間体があるからなのです。恥というものは、よく考えてみると、取るに足りないほどのことを、ただ世間体のおもわくだけで、小さくなっていることぢゃありますまいか。
自分は自分だけの信ずるところで、生きて行けさえすれば、何をして悪い、何をして恥だということがありましょうか。
よく考えてみますと、わたしたちは、自分たちが弱いから、信念が無いから、それで世間というもののために圧迫されて、この白骨の谷まで押しつめられてしまったのぢゃありますまいか。」
「それが、白川村の話を聞いているうち、そうして、いよいよ、その白川郷まで入ってしまおうと決心した時、そんな気兼ねや、羞恥(しゅうち)が、一切合財サラリと取払われてしまいましたようです。」
「白川郷のもっと奥か、その途中か知れませんけれど、そこには畜生谷というところがあるそうです。
そこにも、幾人かの人間が住んでいるのだそうです。
そうして、そこにも、やはり平家の落武者の伝説が残っているのでございます。そうだとすれば、由緒正しい高貴の人の胤(ちすじ)も残っていないというはずはありますまい。それだのに、ナゼ人が畜生谷なんて、いやな名をつけるのでしょう……
それとなく、たずねてみますと、その谷では、親子、兄弟、姉妹の別が無いのだそうです。(中略)最初のその谷へ落ちて隠れた人たちが、二人であったか、三人であったか、極めて少数の人でありましたでしょう。それが時を経て谷にひろがるまでには、どうしても近親の間で結婚ということが行われて、それが習いとなって、その部落の間だけでは、あやしまれないことになっていなければならないかも知れません。」
「人の噂(うわさ)ですから、よくわかりませんけれど、そこでは他人と親族との区別が、ほとんど無いそうです。(中略)ですから、土地の子供も、自分の父というものがわからないから、父の年頃の者をすべて父と呼ぶならわしになっており、親から見ると、子というものがわからないから、子の年頃の者はすべて子と呼んでいるのだそうです。それで、お母さんだけは自分の子がわかるわけですから、親子の本当の愛は、母というものだけにあるのではないでしょうか。そこで、母の権力が、父の権力より大きくなってくるのも自然でございましょう。」



「畜生谷の巻」より:

「「それはそれとしまして、ねえおじいさん、わたしは今、誰が何と言いましても、その白川郷の中へ、落着きたい心持でいっぱいなのよ。人が世間並みに生きて行きたいというのは、義理人情にせまられるか、そうでなければ利慾心にからまれて、どうしても、そうしなければ生きて行かれないからでしょう、わたしは、そんなことはあきらめてしまいました、といっても、死ぬのはいやなのです、生きて行きたいのです、静かに生きて行きたいのです。そんなら、わたしを静かに生きて行かせないのは何者でしょう。それはわかりません、誰もわたしを縛っているのではないけれども、わたし自身が縛られているような気持で、あの静かな白骨谷でさえが、わたしを落着かせてはくれないのです。白川郷ならば、全く浮世のつまらない心づかいから離れて、生きられるように生き、何をしようとも、他人様(ひとさま)にさえ手を触れなければ、思いのままに生きて行ける世界――他人様もまた、それぞれ思うままのことをしながら、自分たちも生き、わたしたちをも、生かせて行ってくれる世界――それが欲しいのです。白川郷には、その世界が、立派にあるそうです。なんでもかんでも、許してもくれ、許しもする世の中、それで人間が、気兼ねなしに生きて行かなければならないはずぢゃありませんか」
 「それは人間の世界ぢゃなく、それこそ畜生道というものぢゃありませんかねえ、お嬢さん」
と言って、老人が反問したので、
 「え」
とお雪が驚かされました。
 「人間の生きて行く道よりは、畜生のいきて行く道の方が、気兼ね苦労というものが、かえって少ないのぢゃありますまいか、ねえお嬢さん」
 「何ですって、おじいさん――もし人間の生きて行く道が、つまらない気兼ね苦労ばかりいっぱいで、畜生の道が素直で、安心ならば、わたしはいっそ……」
 「何をおっしゃります、お嬢さん、それが、あなた方のお若いところです……あの白山へ登るよりは、この白水谷を下る方がずっと楽には楽なんですがね」
と言って老人は立ち上り、砂上に置き据えた鎧櫃(よろいびつ)に手をかけた時、お雪が急に、そわそわとして、
 「おじいさん――まあ待って下さい、急に気がかりなことがありますから、その鎧櫃の中を、ちょっとでいいからわたしに見せて下さいな、今になって気がつくなんて、ほんとに、わたしはどうかしています」」

「お安い御用と言わぬばかりに、弥兵衛老人が鎧櫃の蓋(ふた)を取って見せると、井戸の底をでも深くのぞき込むように、お雪は傍へ寄って、
 「わたしが頼んでおきましたのに、今まで忘れていました、さぞ、御窮屈なことでしたろうにねえ」
 鎧櫃の中には、人の姿がありありと見えているのであります。
 「先生、ずいぶん御窮屈でございましたでしょうねえ」
 人の姿は見えているけれども、返事はありません。」
「「先生、お休みでございますか」
 でも、やっぱり何ともいらえがない。
 「ほんとうに……眠っておいでなさるんでしょうか、先生」
 お雪は狼狽(ろうばい)の上に、不安の心をうかべて、井戸側深くのぞき込むようにすると、人の姿はいよいよ、ありありと見えるけれども、一向にうけこたえのないことが、またいよいよ明瞭であります。
 本来、鎧櫃というものは、一匹一人の人間を容れるには足りないものであります。せいぜい十代の少年ならばとにかく、普通の大人一人が、鎧櫃の中にいることは至難の業であります。ましてその中で酣睡(かんすい)を貪(むさぼ)るなどということは、あり得べきことではありません。
 それだのに、ありありと見える中の人は、立派な一人の成人であって、(中略)鎧櫃の一方の隅に背をもたせかけて、胡坐(あぐら)をくみ、そうして蠟鞘(ろうざや)の長い刀を、肩から膝のところへ抱くようにかいこみ、小刀は腰にさしたままで、うつむき加減に目をつぶっているのであります。さばかり、窮屈な鎧櫃の中に、かなりゆったりと座を構えて崩さないところを見れば、眠っているものに違いあるまいが、眠っていたとすれば、こうまで呼びかけられて、さめないはずはありますまい。
 お雪が、狼狽し、且つ不安に堪えぬ色をあらわしたのは、あまり深い眠りに驚かされたのみならず、その眠っている人の面(かお)の色の白いこと、さながら透きとおるほどに見えたからなのでしょう。
 「先生、どうぞお目ざめ下さいまし、わたしが冗談(じょうだん)におすすめ申して、この鎧櫃の中へ、あなたがお入りになれば、わたしがおぶって上げて、白川郷までまいりますと申し上げたのを、いつのまにか、あなたは本当にこの中へお入りになりました。わたしは、まさか、あなたがこの鎧櫃の中へお入りになろうとは、思いませんでした。どなたにしても一人前の大人が、この中へ納まりきれるものではないと安心しておりましたのに、もしやと気がついて、あけて見ると、この有様です。ほんとうに御窮屈なことでしたろう、ささ、どうぞ、お目をお醒(さ)まし下さいまし」
と、のぞき込んだ顔を、押しつけるようにして呼びましたが、その人は、ガラス箱の中に置かれた人形のように、姿こそは、ありありとその人だが、返答がなく、表情がなく、微動だもありません。そのくせ、蠟のような面(かお)の色が、みるみる白くなってゆくものですから、お雪は、自分の身体そのものが、ずんずん冷たくなってゆくような心地がして、
 「先生、焦(じ)らさないように願います、わたし、心配でたまりません、後生(ごしょう)ですから、お目ざめくださいまし。それとも、もしや、あなたは……生きておいでなのでしょうね、もしや……もしや、もしや」
 お雪は、ついに鎧櫃にしがみついて見ると、これは透かし物のような鎧櫃の前立(まえだて)の文字に、ありありと、
  「俗名机竜之助霊位」
 「おや――」」

「「どうしたのです、お雪ちゃん」
 事はまさに反対で、(中略)かえって呼びさまされたのは、当のお雪ちゃんで、呼びさましたその人が、鎧櫃(よろいびつ)の中にあって、返答もなく、表情もなく、微動もなく、蠟(ろう)のように面(かお)の色の白かった人。」
「「また、夢を見たね」
 「夢なら夢でいいのですけれど、どうもこのごろは、夢と本当のこととがぼかされてしまって、つぎ目がハッキリしませんから、覚めても、やっぱり夢でよかったという気にはなれないから、いやになっちまいますね、まるで夢にからかわれているようなんですもの」」



「勿来の巻」より:

「駒井甚三郎は清澄の茂太郎の天才を、科学的に導いてやろうとの意図は持っていませんけれど、その教育法は、おのづからそうなって行くのです。」
「茂太郎は教えられたところをよく覚えることは覚えますけれども、駒井の期するところのように、その頭が、数と、理で練りきれないのは、不思議と思うばかりでした。」
「彼はすでに、古人によって定められた星座の形に満足しないで、なおなおさまざまのものを見るようです。星と星との距離と、連絡をたどって、古人が定めた以外の、さまざまの現象を描いてみることを覚えました。
 そうして、科学的に教えられた星座のほかに、自分の頭で、それぞれの星座を組み立て、それに命名をまで試みているようです。
 その命名も、たとえば、拍子木座と言い、団扇座(うちわざ)と言い、人形座と言い、大福帳と言い、両国橋と言い――そうして、毎夜々々、その独特の頭を以て、星座を眺めては、即興的に出鱈目(でたらめ)の歌をうたうことは少しも改まりませんから、駒井が呆(あき)れてしまいました。
 せっかくこの即興的の出鱈目を、科学的に矯正(きょうせい)してやろうとしているあとから、教えられた知識を土台にして、また空想の翼を伸ばすのだからやりきれません。」

「彼はこの唐詩を高らかに吟じつつ、海岸を走り戻りましたが、詩が尽きて、道は尽きず、次にうたうべきものが、未(いま)だ唇頭に上らざるが故に、その間(かん)、沈黙にして走ること約二丁にして、たちまち、その病が潮の如くこみ上げて来ました。
  皆さん――
  元来、私は
  エロイカの名称によって
  知られている
  ベートーベンの
  第三シムフォニーが
  大好きであります……
と、海の方へ真向きに向って、半ばは独語の如く、半ばは演説の如く叫び出したのが、尋常の声ではありません。
 無論、誰も聞く人はない、また聞かせようと思って、呼びかけたものではないのです。
  第八シムフォニーよりも
  第五シムフォニーよりも
  いわんや非音楽的な
  あの第九シムフォニーよりも
  この第三と第七とが
  最も好きであります
  そこで、私は
  幾度となく
  この曲を聴いたり
  或いはその解剖を
  している間に
  昔からエロイカに就(つい)て
  論ぜられて来た
  このシムフォニー特有の
  神秘――換言すれば
  謎に対して
  人並みに気になり出して
  来た次第であります……
 出鱈目(でたらめ)であるが、その声がすみ、おのづから調子がととのい、それに海の波の至って静かな夕べでしたから、出鱈目の散文が、やはり詩のようになって聞えました。
 出鱈目とはいえ、即興とは申せ、これはまた途方もない。しかし、この少年は、いつか一度耳に触れたことは、脳によって消化されても、されなくっても、時に随って、必ず反芻的(はんすうてき)に流れ出して、咽喉(のど)を伝わって空気に触れしめねばやまない特有の天才を備えているのですから、いつ、何を言い出すか、それは全く予測を許されないのですけれども、いかに天才といえども、無から有を歌い出すことはできますまい。」





中里介山 『大菩薩峠 八』 (新装版)














































































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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