川村二郎 『文学の生理 ― 文芸時評 1973~1976』

「私的な領分に固執して、そこに存在する事実を徹底的に追究した結果、追究力の強さのために私的な領分がいわば突き破られ、ある普遍的な意味を持つ世界にまで拡げられてしまう。そういったことが実現された場合、追究された事実はそのまま文学的真実となるはずである。」
(川村二郎 『文学の生理』 より)


川村二郎 
『文学の生理
― 文芸時評 1973~1976』


小沢書店 
昭和54年4月20日 初版発行
301p 索引ix 
四六判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価1,600円



本書「後記」より:

「ここに収めたのは、昭和四十八年から五十一年まで、四年間にわたって読売新聞に執筆した「文芸時評」の全文である。」


取り上げられている主な作家は、阿部昭、河野多恵子、田久保英夫、中上健次、藤枝静男、古井由吉、森敦、吉田健一などです。
川村二郎の本はだいぶ集めたのですが、文芸時評には興味がないので、本書と、文字通り『文芸時評』と題された二冊は敬遠していたのですが、アマゾンマケプレで本書の「非常に良い」が95円(+送料)で売られていたので購入してみました。
わりとシミだらけでそれほど良くはなかったですが、それはそれでよいです。


川村二郎 文学の生理


帯文:

「現代小説の第一級の読み手である著者が、文学のあるべき姿を求めて、その秀れた批評眼を駆使し、作品を支える内面の生理を透視する。――過渡期の文学の精神状況を描き、批評の力を開示する。
読売新聞 1973~1976 文芸時評」



帯背:

「文学の現在を探る
批評の力――
文芸時評」



帯裏:

「……読売新聞の分だけをまとめたのは、第一に、一冊の書物としての体裁を考慮したからだが、また、時評が文芸批評の基本だという原理的な認識を、曲りなりにも体得し得たのがこの時期だったという、筆者一個の感慨も多少そこにまつわっている。
(「後記」より)」



内容:


昭和四十八年一月号~十二月号

昭和四十九年一月号~十二月号

昭和五十年一月号~十二月号

昭和五十一年一月号~十二月号

後記
索引




◆本書より◆


「昭和四十八年一月号」より:

「エリアーデは学者として業績を発表する時には、いわば外にいるのだから、国際的に通用する言語を用いる。しかし、文学という言語表現が、たとえ国際的に通用するものであろうと、知識、ないし学問よりはるかに強く内にこだわり、内にこだわることを通じて普遍性を得るものであることを、おそらく彼は知っていて、それが母国語による小説の執筆になるのだと思う。」
「「わからない小説」というのが、最近のある種の傾向の小説に対して、嘲笑的に投げかけられる合言葉になっている。ぼくは、小説はわからないのが当然だと思っている。」
「記述的な言葉の下に潜行して、その言葉の届かぬ深みをさぐろうとすれば、この探検の消息を示す言葉は、必然的に「わからない」部分を、含むことになる。もっとも、これも安直に果される仕事ではない。下の深みにひそむ謎は、上の言葉で記述されればもはや謎ではないが、徹頭徹尾謎でしかないならば、それは表現とはいえず、したがって文学でもないからだ。この二律背反をはらんだ狭い道の上で、不可解なものをいかに言語表現にもたらすか、記述ではなく形象化によっていかに謎を解き明すか、それがおそらく文学の、最も重くかつ栄誉ある課題である。小説家エリアーデのこの課題に対する態度は、一つの範例として評価されうると思う。」



「昭和四十八年十月号」より:

「しかし文学者とは、内面的に男性でもあり女性でもある、たとえていえば精神の両性具有者なのではなかろうか。」

「小さな明るい画面が、ただそこに描かれているものばかりではなく、描かれたものを通じて、背後の大きな暗い何物かをうかがわせる、あるいは少なくとも予感させるならば、もちろんそこに文学の理想とする一つの状態が実現されているといっていいだろう。」



「昭和五十年二月号」より:

「反省が悪いとはいわない。しかし反省などでは動かしようのない重いものが、生きている人間の中にはあるはずであり、その重さが叙述から感じられなければ、人間は切り抜かれた影絵になる。」


「昭和五十年十二月号」より:

「ぼくは、私的な領分を離れて想像力にもとづく虚構の世界を確立せよ、などと要求するつもりはない。むしろ、小説すなわち虚構という、たしかに正しくはあるかもしれないが、実質が伴わなければ何の意味もない定式を、観念から振り捨てたらどうかと思うのである。虚を通じて実に到るのはたしかに文学の道である。しかし虚をそれらしく装う位なら、実に徹する方が、はるかに有意義なもう一つの文学の行程ではないか。
 私的な領分に固執して、そこに存在する事実を徹底的に追究した結果、追究力の強さのために私的な領分がいわば突き破られ、ある普遍的な意味を持つ世界にまで拡げられてしまう。そういったことが実現された場合、追究された事実はそのまま文学的真実となるはずである。」



「昭和五十一年二月号」より:

「いずれにせよ、小説家は果敢でなくてはならない。新奇のための新奇、実験のための実験のたぐいは愚かしいかもしれないが、手なれた歌をくり返し、きりもなく自己模倣を続ける押しの強さにくらべれば、愚かしさの方がまだ積極的な意味を持ちうるだろう。」


「昭和五十一年六月号」より:

「いささか開き直っていえば、相反するもの、矛盾するものが衝突して放つ光の光度に、文学の生命がかかっている。」


「昭和五十一年十二月号」より:

「あれこれと身のほど知らずの裁断を重ねてきたが、これでぼくの文芸時評を終る。四年前にこの欄を担当した時、最初にルーマニアの宗教学者エリアーデのことを書いた。(中略)要するに、エリアーデが学術的著作は国際公用語で書くが小説は母国語で書くということから、「外」に向って開かれながら「内」に向って閉ざしているのが文学のあるべき生理ではないか、時評担当者としては、このことを念頭において判断して行きたい、というほどの心づもりだった。いざ月々の実作に即すれば、公式的な原理原則などというもので割り切ることができないのは当然のことだった。それでも結局は、この生理が生きていると見える作にことさら目をとめ、悠然と「内」に自足しているかのような作、あるいは逆に、「外」の新意匠に心を奪われているかのような作に対しては、あまり好意的でなかったと思う。」




川村二郎






















































































































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分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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