色川武大 『百』 (新潮文庫)

「そうすると、どうなるの」
「だから、どうもならない。それでいいんだ」

(色川武大 「永日」 より)


色川武大 
『百』
 
新潮文庫 い-21-3

新潮社
平成2年1月25日 発行
平成27年3月20日 15刷改版
288p 付記2p
文庫判 並装 カバー
定価490円(税別)
カバー装画: 秋山巌


「この作品は昭和五十七年十月新潮社より刊行された。」



honto で注文しておいた本書と森敦『月山』が届いたのでよんでみました。二冊とも表紙絵がフクロウだったのは奇遇です。
本書のカバー絵のフクロウはたいへんすばらしいです。二羽のフクロウは著者と著者のお父さんでしょうか。本書収録短篇「永日」ではお父さんが精神病院に入れられてしまいますが、「私」は世話をする能力もないのに「おやじをあそこで死なせるわけにはいかない」と決意します。お父さんは結局自宅に戻れてよかったです。このお父さんは別の本では死んでからも自宅に戻って居座りつづけるので、とても意志が強いです。
この父と子はメルヴィルでいえばエイハブ船長と書記バートルビーのような変わり者同士であって、たいへん神話的かつ叙事詩的な運命劇であって、そういう意味では無頼派私小説は古代ギリシア以来の文学の本流であるといってよいです。


色川武大 百


カバー裏文:

「「おやじ、死なないでくれ――、と私は念じた。彼のためでなく私のために。父親が死んだら、まちがいの集積であった私の過去がその色で決定してしまうような気がする」
 百歳を前にして老耄のはじまった元軍人の父親と、無頼の日々を過してきた私との異様な親子関係を描いて、人生の凄味を感じさせる純文学遺作集。川端康成文学賞受賞の名作「百」ほか三編を収録する。」



目次:

連笑
ぼくの猿 ぼくの猫

永日

解説 (川村二郎)




◆本書より◆


「連笑」より:

「私は奇矯(ききょう)な子で、小学生の頃から学校に行きたがらず、登校するふりをして、公園の芝生や国電の線路脇(わき)などで一人でしゃがんだりしていることが多かった。(中略)ひっこみ思案のうえに覇気(はき)がなく、頭の形がいびつで大きいために子供がかなり深刻になる程度の片端(かたわ)意識があり、他人に慣れない。いわんや他人と競争することなどまったくできない。
 まず幼稚園で、周囲を手こずらせた。私はひたすら泣き、拒み、自分でも困惑した。小学校では集団構成が一倍本格的で、個人の困惑にそう全面的にはかかずらわっていない。その分、私は勝手に孤立し、自分の殻をつくった。たとえば、でんぐりがえしをするときに、平生気にしている大きな頭の尖端(せんたん)が地面につかえてしまうような気がする。すると、でんぐりがえしを拒否したくなる。教師に叱責される。しかし、叱責され全体の規律を乱すことをおそれず、その結果、他者より劣等あつかいされることを覚悟してしまえば、処罰などなんの意味もないのである。そうして、自分の内部で恥をつみかさねていくことにくらべれば、他人の劣等視など軽いものだ。」
「私は、他の皆が共有している世界の重さに対抗するだけの、自分だけの世界を持つことを欲(ほっ)していた。学校に代表され、さらにそこから枝葉がついて繁(しげ)っていく、規律に溢(あふ)れた社会生活に拮抗(きっこう)するような個人の持ち物などあるようにも思えなかったが、それでもなんとかそれらしきものを手にしたかった。
 多分、浅草も、私にとってのそのひとつだったと思う。」
「私の両親や、教師や級友の夢にも知らないであろう世界がそこにあった。でんぐりがえしはできないが、僕(ぼく)には浅草があるんだよ、私はいつも自分にそういいきかせていた。浅草の舞台で上演される演目では、いつも人並みでない者が主役だった。」



「ぼくの猿、ぼくの猫」より:

「ぼくは自分がどうかしていると思っていた。狂気の一コースかもしれないと思っていた。」
「教室で坐(すわ)っていると、ぽつん、と小さな点が目前に現われる。それは三つ四つと増えていく。ぼくには筋書がすべてわかっているが、それは蚊なのだ。そうしてたちまち蚊柱のようになり、飛び交いながら大きく拡(ひろ)がり、彼等自身飛び交えぬくらいの密度に増え、鼻も口も蚊でいっぱいになって息もできない。
 ぼくはじっと我慢している。多分、他の級友にはこんなことはおこらない。だからぼく一人で耐えなければならない。」
「ぼくは授業に心が向わないのみならず、級友と本当には打ちとけることも、喧嘩(けんか)することもできない。教練で、交代で指揮官になることを命じられるが、ぼくは指揮が苦手だった。自分はどうかしているので、そうである以上、他人に自分を主張することなどできない。
 戦場も、死も、遠い。女学生にも関心が向かない。道ですれちがった人たちの眼に、ぼくが映っているのだろうか、と思った記憶がある。ぼくは猿ではなかろうか。猫なのではないか。」
「ぼくは他人に介入していくことが不得手で、なるべく他人と葛藤(かっとう)するまいとする。
 二匹の仔猫(こねこ)が出窓のところに並んでぼくを眺めているのを見て、とっさに幻影か実像か判別がつきがたかったことがある。」

「――庭の黒土の中に、小指ほどの猫の仔が三匹へばりついている。そういう風景はどちらかといえば嫌(きら)いじゃない。けれども、布団のへりにも、小指ほどの仔猫が何匹かひっついていて、とても汚ない水のように光っている。
 ぼくは自分が無軌道だから、他人の無軌道に対してわりに寛大である。布団の仔猫を傷つけないように配慮したい。しかし、布団の中にも濡(ぬ)れた仔猫の気配があって、思うように足を突っこめない。」
「――庭の黒土や花壇の中にも仔猫が一面に湧(わ)いている。彼等は無心にもぞもぞと動き、ともに喰い合う。よく見ると船の錨(いかり)の形をした虫やねじ廻(まわ)しのような恰好の無視が混っている。
 縁の下にも居る。便所の中にも居る。このぶんでは押入れの中にも居るだろう。」

「ぼくはとにかくよく幻を見た。」



「永日」より:

「人に対して何かをいう前に、私はまず私自身を責めなければならない。だから屈託が増す。」




こちらもご参照ください:

色川武大 『遠景・雀・復活 ― 色川武大短篇集』 (講談社文芸文庫)



































































































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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