岡谷公二 『島の精神誌』

「島々は、それぞれ独自の風土、言語、風俗、習慣を持つ。はしけを下りて、島の中へ入ってゆくとき、私はいつも、どうしてここは一つの国ではないのか、という思いにとらわれる。」
(岡谷公二 「島断章」 より)


岡谷公二 
『島の精神誌』
 

思索社
昭和56年9月10日 印刷
昭和56年9月25日 発行
249p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円



本書は、ゴーギャン、ルーセル、レリスの訳者であり、柳田国男、南島、原始の神社、等についての本の著者である岡谷公二氏の関心の見取図のような本でありまして、「岡谷公二読本」といってもよい内容になっています。

本書所収のレーモン・ルーセル論「死場所としての島」は、のちに加筆修正されて『レーモン・ルーセルの謎』(国書刊行会、1998年)に再録されています。

なお、本書はまるごと『島/南の精神誌』(人文書院、2016年)に再録されています(『島/南の精神誌』は『島の精神誌』『神の森 森の神』『南の精神誌』『南海漂蕩』の既刊単行本四冊と単行本未収録の「引き裂かれた旅人――民族学者アルフレッド・メトローの場合」を収録しています)。


岡谷公二 島の精神誌


帯文:

「島と南と人間の哀しき関係
日本とヨーロッパにとって南の島は何を意味したのだろうか。著者と沖繩の出会い、柳田国男の南への想い、ゴーギャンのタヒチなどを通じて二つの文化の南への志向を検討し日本文化の本質を模索する。」



帯背:

「旅と思索の
デュエット」



目次:

島断章 (書き下し)
沖縄で (書き下し)
『海上の道』論――柳田国男の想像力 (書き下し)
椰子の実とアシカ――柳田国男の伊良湖岬滞在 (「展望」 昭和53年2月号)
治癒の場としての南島――土方久功 中島敦 島尾敏雄 (書き下し)
旅への誘い――ボードレールの南海旅行 (書き下し)
南方のアトリエ――ゴッホとゴーギャン (「飛火」 昭和48年4月)
民族学者にならねばならなかった詩人――ミシェル・レリスの場合 (ミシェル・レリス『日常生活の中の聖なるもの』(思潮社 昭和48年) あとがき)
シュルレアリスムと民族学――ミシェル・レリス『幻のアフリカ』をめぐって (「思潮」第一号 昭和45年6月)
死場所としての島――レーモン・ルーセルとシチリア島 (書き下し)

あとがき




◆本書より◆


「島断章」より:

「私は、島に次第に近づいてゆく瞬間が好きだ。
 たとえば明方、光が生れず、海面がつめたい鈍(にび)色で、波のうねりの腹にまだ闇が漂い残っている時刻、彼方に、水平線とまぎれてしまうような一本の線があらわれる。(中略)しかしやがて、その線は、もはやまぎれようのない、太い、黒々とした輪郭を帯びはじめる。それは、闇が凝ったような団塊となり、高低がはっきりしてきて、しまいには、島のはずれにある、海中の一つ岩の姿までが眼に映るようになる。それでもまだ、木々や、家々や、浜などの区別はつかず、すべては黒一色の中に呑みこまれていて、島全体の輪郭線がたどれるだけだ。
 このような島影の中に、私は島の表情を読む。そこには、海の方へ昂然と顔をあげた誇らしさ、雄々しさ、馴染もうとする視線を拒否するきびしさ、孤立の憂愁、なにかに耐えている異様な静けさがある。」

「「いろんな島のことを考えるときに人が感じるあの息づまるような印象は、一体どこからくるのか? それでいて、島のなかより以上に大洋の空気、あらゆる水平線に自由にひらけた海を、人はどこにもつのか? それ以上にどこで人は肉体の高揚に生きることができるのか? だが、人は島 île のなかで、『孤立 isolé』する(それが島の語源 isola ではないか)。一つの島は、いわばひとりの『孤独の』人間。島々は、いわば『孤独の』人々である」(ロジェ・グルニエ、井上究一郎訳『孤島』)」

「孤立とは、言うまでもなく、隔てられていることである。陸地からの距離に比例して、孤立の思いが深くなる。陸地から、海によって、しかも荒れ狂う海によって、はるか彼方に隔てられている島こそ、真の島である。それゆえ、(中略)陸地とほとんどつながっている島は、島とはいえない。それは、孤立を放棄し、陸地に隷従し、飼い馴らされてしまった偽の島々だ。」

「島々は、それぞれ独自の風土、言語、風俗、習慣を持つ。はしけを下りて、島の中へ入ってゆくとき、私はいつも、どうしてここは一つの国ではないのか、という思いにとらわれる。」

「絶海の島々にはじめて住んだ人たちは、落武者や罪人のような、世をはばかる人々だったにちがいない。(中略)そうした人々にとって、孤立は安全の保証であり、島をかこむ絶壁は、恰好の砦であった。そして孤立を孤立とも思わない、島かぎりの生活が長い間続いたのである。」
「人々は、島が生み出すものだけで甘じ、すべてを自分の手で作った。」
「しかし海運が発達し、どんな不便な島にも、一週間に一度は船便が通うようになり、ラジオ、テレビを通じて情報がすみずみまでゆきわたる時代になって、かえって島の孤立感は深くなった。
 実際、孤立とは、それを意識したときにはじめて孤立となり、災いとなるのだから。」
「私は、島は孤立しているのではなく、孤立させられているのだ、と思わずにはいられなかった。」
「中央を認めた途端、島は末端になる。島はたちまち求心力の中にまきこまれる。こうして過疎がはじまる。」



「沖縄で」より:

「岡本太郎の『忘れられた日本――沖縄文化論――』の中には、本島の中部の村で闘牛を見た際、勝った牛の飼主らしい中年の女性が、嬉しさのあまり観衆の面前で踊り出す場面が出てくる。喜びがそのまま、手足の動きとなり、「アッと思うような見事な踊り」となる。この本の中でもっとも印象的な個所の一つだが、私はそののち、こうした光景を沖縄の到るところで見た。
 「内地の人はすぐ分ります。いきなりぺらぺら喋りはじめますからね」
 このコンパの途中、学生の一人が私に言った。私たちのあいだの、悪質な黴菌めいた、言葉の異常な繁殖は、こうした直截な体の表現を失ってしまった人間の病徴ではないだろうか?」

「私は一度、新しい石垣を積んでいる場面にゆき合わせた。(中略)中年の痩せた石工が、ただ一人だけで積んでいた。彼は、一筆描き加えるごとにキャンバスをためつすがめつする画家のように、石を一つ積んでは、後にさがって効果を調べる。時には、折角積んだ石をおろして、別の石にかえたりする。雨がぱらついてくると、近くの木蔭に入りこみ、しゃがんで煙草を吸いながら、じっと石垣を眺めている。そこには、石垣とのひそかで濃密な対話のようなものが感じられた。」



「『海上の道』論」より:

「それにしても、柳田国男の海と、折口信夫の海とは、なんという相違だろうか。前者の海はどこまでも明るく、美麗な宝貝を豊富に産する干瀬に砕ける白波のきらめきに満ち、たゆたう光の彼方に、常世やニライカナイの幻を髣髴とさせるが、後者の海は、青という色をうばわれ、暗く、さむざむとして、まるで北方の海のようだ。」

「折口の暗さは、古代人の心性と一体化したようなところから生れてきている。それゆえ、その暗さは或る種の現実性がある。ひたすら明るさを求めていた柳田国男にとって、こうした暗さは、気うとい、できれば触れずに済ましたいものだったにちがいない。
 二人の他界観の明暗が、二人の気質、及び人生とのかかわり方から来ていることは明らかである。柳田国男に関していえば、明るさへの志向は、他界観にかぎらず、彼の学問の基調であるとさえ言うことができる。
 一例として、彼の文芸観をあげよう。彼は、文芸というものは、「人を意外の怡楽に誘ひ込むもの」(「不幸なる芸術」)でなければならぬ、「アミュージングなものでなければならぬ」、「かならず終いは幸福におわらなければならぬ」(『柳田国男対談集』)と、機会あるごとに繰り返してきた。このような主張の背後には、「もう芸術の花野より外には楽しみを求めに行く処は誰にも無い」(「病める俳人への手紙」)という認識がある。彼が自然主義文学を嫌う理由の一つは、この点に存する。人生をありのままに描いて、明るくなるはずはないからである。
 言うまでもなく、これは、暗さを避けて通ったのとは違う。『山の人生』の中の、貧苦の余り、わが子の首を鉈で切り落した有名な炭焼きの物語一つとってみても、彼が人生の暗部に通じていたことが分る。あのような話を、あのように、一切の説明を加えず、投げ出すような形で書くとは、生半可な人間認識でできることではない。彼が『故郷七十年』の中で、淡々と、時には得意げに語る生い立ちからも、客観的にみて暗い材料は、いくらでも拾い出すことができる。」
「暗さを捨てて、明るさに即くとは、気質から来る好みが働いているにせよ、一つの選択であり、決断である。柳田国男は、文芸に対して要求したことを、自らの学問においても実践する。
 他界観に話を戻すならば、この現世が暗く、時には悲惨でさえあるのだから、他界は明るくなければならないのである。」

「柳田国男と折口信夫の他界観のどちらが、日本人の祖先の抱いていた他界観に近いのか、私には判断する資格がない。(中略)ただ、柳田国男の他界観は、暗い部分を意識的に切り捨てているところがあり、その点に関しては、私は、折口信夫の他界観の方に現実性を感じる。
 一方、私は、谷川健一氏の次の言葉に心から賛同するものである。

 「私は沖縄になぜ関心をもつのかと問われて返答に窮することが少なくなかったが、今は『明るい冥府がほしいばかりに珊瑚礁(リーフ)の砂に踝を埋めているのだ』と答えることができる。私は死んでなお刑罰を受けねばならぬような他界を信じていない」(「孤島文化論」)」



「死場所としての島」より:

「ルーセルの頑なまでの現実拒否は、立場というよりは、彼の存在そのものであり、生きてゆくための条件と化している。(中略)彼は現実を怖れ、嫌悪し、拒否する。それは、治療の手段をあらかじめ放棄しなければならないたぐいの病なのだ。」




こちらもご参照ください:

ミッシェル・セール 『五感 ― 混合体の哲学』 米山親能 訳 (叢書・ウニベルシタス)



























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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