ロラン・バルト 『言語のざわめき』 花輪光 訳

「支配統御を避けること(中略)、そのためには、おそらく二つの方法がある。一つは、穴だらけで、省略的で、漂流し、横すべりする言説を生み出すこと、もう一つは、反対に、過度の明晰さを知に負わせることである。」
(ロラン・バルト 「学ぶことと教えること」 より)


ロラン・バルト 
『言語のざわめき』 
花輪光 訳


みすず書房
1987年4月3日 第1刷発行
1987年12月5日 第2刷発行
267p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円
カバー: ギリシアの詩人アラトスの詩のラテン語訳。カロリンガ朝のコピーによる。(大英博物館蔵)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、左記の原書(七部四二篇)の第五部までを訳出したものである。
Roland Barthes: Le bruissement de la langue - Essais critiques IV, Editions du Seuil, 1984.
ただし、第二部六篇のうち、(中略)四篇は割愛した。(中略)この四篇は、すでに『物語の構造分析』(拙訳、みすず書房)に収められているので、併読をお願いしておきたい。」



そういうわけで、本書はF・ヴァール編による著者没後刊行評論集の抄訳であります。


バルト 言語のざわめき


目次:

第一部 科学から文学へ
 1 科学から文学へ
 2 書くは自動詞か?
 3 読書のエクリチュール
 4 読書について
 5 ある文学史提要についての考察
 6 綴りの自由を認めよう

第二部 作品からテクストへ
 7 言語のざわめき
 8 若い探究者たち

第三部 言語活動と文体
 9 文化が強制する平和
 10 言語活動の分裂
 11 言語活動の戦い
 12 修辞の分析
 13 文体とそのイメージ

第四部 歴史から現実へ
 14 歴史の言説(ディスクール)
 15 現実効果
 16 五月の事件のエクリチュール

第五部 記号の愛好家(アマチュア)
 17 眩惑
 18 実に素晴らしい贈物
 19 なぜバンヴェニストを愛するか
 20 異邦の女
 21 詩学者の回帰
 22 学ぶことと教えること

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「科学から文学へ」より:

「一神教によって「罪」の観念を徹底的に教え込まれた文明においては、あらゆる価値は苦悩によって生み出されるものとされるから、快楽という語は耳に心地よく響かない。(中略)コールリッジは言った。《詩作品とは、真理ではなく快楽を、その直接の目的とすることによって、科学の著作と対立するたぐいの作品である》と。だが、この宣言は両義的である。というのも、それは詩(文学)のいわばエロティックな性質を受け入れてはいるが、まだ依然として詩(文学)に、真実の本拠地とは別の、特殊な、いわば、監視つきの地区を割り当てているからである。しかし《快楽》というものは(中略)《趣味》の単なる満足よりもはるかに広く、はるかに意味深い敬虔を含意しているのである。ところが、言語活動の快楽は、これまで一度も真面目に評価されたことがない。(中略)ただバロック芸術だけが、言語活動の「エロス」とでも呼べるものを、あえていささか追求したが、その文学的実験は、西欧諸国の社会、少なくともフランスの社会においては、ただ単に黙認されていたというにすぎなかった。科学的言説は、言語活動の「エロス」からはほど遠い。というのも、科学的言説は、もしそうした考えを受け入れたら、社会的な制度が身にまとわせてくれているあらゆる特権を放棄しなければならず、ボードレールがエドガー・アラン・ポーについて言ったあの《文学の世界》、つまり、《落ちこぼれたある者たちが、息をすることのできる唯一の環境》、にもどることを承知しなければならなくなるからである。
 科学的言説の意識、構造、目的を変革すること、今日おそらく要求しなければならないのはこれであるが、しかし今日、人文諸科学は確固として繁栄し、一般に非現実的、非人間的であるとして非難される文学の場は、次第にせばめられつつあるように見える。だが、ほかでもない、文学の役割は、科学的体制が拒否するもの、すなわち言語活動の至上権を、科学的体制に対して積極的に突きつける=代表することにあるのだ。」



「読書のエクリチュール」より:

「ある本を読んでいるとき、興味がもてないからではなく、むしろ逆に、思いつきや刺激や連想の波が押し寄せてきて、読書のとちゅうでたえず立ち止まる、というようなことが、かつてなかったであろうか? 一言で言えば、顔を上げながら読む、というようなことがなかったであろうか?
 私が〔『S/Z』で〕試みたのは、そうした読書の記述(エクリチュール)である。」

「私はある一人の読者(中略)を再構成したわけではなく、読書というものを再構成したのである。私がここで言いたいのは、いかなる読書も個人を超えた形式から派生する、ということだ。テクストの字義どおりの意味(中略)が引き起こすさまざまな連合作用は、どのようにおこなわれたところで、決して無秩序なものではない。それは常に、何らかのコード、何らかの言語(ラング)、何らかのステレオタイプのリストからのがれられない(中略)。想像しうるもっとも主観的な読書といえども、何らかの規則に従っておこなわれる戯れ以外の何ものでもないのだ。では、その規則は、どこからやって来るのか? もちろん作者からやって来るわけではない。作者はただその規則を、自分のやり方で適用するだけである(中略)。作者よりもはるか以前に認められるその規則は、物語の大昔からある論理、われわれが生まれる前からすでにわれわれを形づくっている象徴形式、つまり要するに、あの果てしない文化の空間からやって来るのだ。われわれ(作者や読者)個人は、そうした文化の空間を通過するものにすぎないのである。それゆえ、テクストを開いたものにするということ、テクストの読みのシステムを想定するということは、単に、テクストが勝手に解釈できるということを要求したり、示したりするということではない。それはとりわけ、そしてはるかにラディカルに、つぎのことを認めさせようとすることなのである。すなわち、読書には、客観的または主観的な真実など存在せず、ただ戯れの真実だけが存在するということ。といっても、その戯れは、この場合、(中略)労働――ただし、一切の苦痛が拭い去られた労働――として理解されるのでなければならない。読むということは、われわれの身体を働かせて、テクストの記号の呼びかけに応ずるということであり、テクストを横切ってさまざまな文のいわばモアレ織りの深層を織り成している、あらゆる言語活動の呼びかけに応ずるということなのである(そしてその身体が、われわれの記憶や意識をはるかに超えるものであるということは、精神分析が登場して以来、よく知られたことだ)。」



「読書について」より:

「まず第一に、読書の抑圧について語らなければならない。私が思いつく抑圧には、二つの種類がある。
 第一の抑圧は、読書を一つの義務に変える、社会的なあらゆる拘束、または無数の媒介を経て内面化されたあらゆる拘束から生ずる。この場合には、読む行為そのものが、あるおきてによって定められ、読む行為というよりもむしろ、こう言ってよければ、読んだという行為となり、通過儀礼のほとんど儀式的な痕跡となる。(中略)つまり、(『クレーヴの奥方』や『アンチ・オイディプス』を)読んでおかなければならないということなのだ。このようなおきては、どこからやって来るのか? それは、いずれもある価値やイデオロギーに立脚する、さまざまな審級からやって来るのだ。(中略)つまり私が言いたいのは、さまざまな集団のおきて、小さなおきてが存在するということであり、そうしたおきてに対しては、自由でいる権利をもたなければならない、ということである。あるいはまた、読書の自由とは、いかなる代価を支払わねばならぬとしても、読まない自由でもある、ということである。」
「第二の抑圧は、おそらく、「図書館」による抑圧であろう。」
「1 「図書館」は、その規模がどのようなものであっても、本来的に、際限のないものである。というのも、「図書館」は常に(中略)、欲求を下回ると同時に上回るからである。「図書館」にはある癖があって、欲しい書物は決してない、かわりに別の書物を提供する。「図書館」は、欲望の対象の代理物に満ちた空間なのである。(中略)「図書館」は、常に大きすぎるか小さすぎて、「欲望」とは根本的に合致しないのだ。」
「2 「図書館」は、人が訪れる空間であって、住む空間ではない。(中略)自宅の(公共的でない)空間では、書物は、社会的、文化的、制度的な見せかけの機能をすべて失う。」
「読書のエロティシズムといったものが存在することはたしかである(読書においては、欲望がその対象と水いらずでいる――これがエロティシズムの定義である)。」

「読む快楽には、少なくとも三つのタイプがある、あるいはもっと正確に言うなら、読書の「イメージ」が読む主体をとりこにするには三つの方法がある、と私には思われる。第一のやり方の場合、読者は、自分が読んだテクストに対してフェティシスト的な関係を結ぶ。彼は語句に、ある種の語句に、語句のある種の配列に、快楽を見出す。(中略)これは、隠喩的または詩的タイプの読書ということになろう。(中略)第二のやり方は、第一のやり方と正反対であって、それによると、読者は、いわばある力によって書物の先のほうへと引き寄せられていく。その力というのは、(中略)サスペンスの範疇に属するものである。書物が次第に読み尽くされていく、その待ちきれない、はやりにはやる消尽のうちに、快楽があるのだ。それはもちろん、あらゆる物語に共通する、主として換喩的な快楽なのであるが、知識そのものや思想もまた、サスペンスの動きに従って語られうるということを忘れてはなるまい。(中略)最後に、読書の第三の冒険(アヴァンチュール)がある(中略)。それは、もしこう言ってよければ、「エクリチュール」の冒険である。読者は、書く「欲望」を伝導する(中略)。といっても、必ずしも、われわれが読んで気に入った作家のように書きたいと欲する、というわけでは決してない。われわれが欲するのは、ただ単に、書き手がいだいていた、書く欲望だけである。あるいはまた、われわれが欲するのは、作者が書くときにいだいていた読者に対する欲望である。(中略)読書とはまさしく生産なのである。(中略)同時に書くこと(エクリチュール)を解放しないかぎり、読書(レクチュール)を解放することは決してできないだろう。」

「ある物語を語る――あるいは単にあるテクストを言表する――にあたって、作者はさまざまな視点に立つことができるが、(中略)「語り」の理論、あるいはもっと広くいって「詩学」に、読者を導入する一つのやり方は、読者自身が一つの視点をとる(あるいは、いくつかの視点をつぎつぎにとる)ものと見なすことであろう。言いかえれば、読者を、一人の登場人物として扱うこと、フィクションおよび/または「テクスト」の登場人物の一人(といっても、必ずしも特権的な人物である必要はない)にすることであろう。」
「一般に、読むということは、文字を、語句を、意味を、構造を、コード解読することである、とされていて、これには異論の余地がないが、しかし読みは、権利上無限であるから、コード解読を積み重ね、意味の歯止めを取り払い、自由自在に読む(それが読みの構造的天性である)ことによって、読者は、ある弁証法的な逆転現象に巻き込まれる。つまり読者は、最終的に、コード解読(décoder)するのではなく、多重コード化(sur-coder)することになるのだ。読者は読解するのではなく、生産し、言語活動を積み重ね、それらの言語活動によって無限に倦むことなく横断される。読者とは、その横断運動そのものとなるのである。」



「綴りの自由を認めよう」より:

「理不尽なのは、フランス語の正書法の恣意的な性格ではない。その恣意性が合法化されているということだ。一八三五年以降、アカデミー・フランセーズ公認の正書法が、まさに国家的見地から、おきてとしての価値をもつようになる。フランスの青少年は、最初の勉強を始めるやいなや、《綴りの過ち》を罰せられる。いくつかの綴りの誤りのために、どれほど多くの人生が台無しにされたことか!
 正書法の第一の効力は、選別することにあるが、しかしまた、正書法には、心理的次元に属するいくつかの二次的効力もある。仮に正書法が自由になったら――主体の欲求に従って略すのも略さないのも自由ということになったら――、正書法は、きわめて積極的な表現活動を生み出すようになるだろう。語が書かれたときの姿形が、まさしく詩的な価値をおびるようになるだろう。というのも、その姿形は、一律で還元的なおきてからではなく、書き手の幻想系(ファンタスマティック)から生ずるようになるからである。昔の写本や、子供が書いたテクストや、外国人の手紙のなかで、綴りの《錯乱》を通して爆発する、一種の陶酔、バロック的な歓喜の情を考えていただきたい。そうした綴りの開花のなかで、主体は自由を求めている、と言えないだろうか? 綴る自由、夢想する自由、思い出す自由、聴き取る自由を求めている、と言えないだろうか? われわれは実に《幸運な》綴りの誤りに出くわすことがないであろうか? そのような場合、書き手は、学校で教えるおきてに従って書いているのではなく、自分自身の生活史――いやおそらく自分の身体から発する神秘な命令に従って書いている、とでもいうかのようである。
 それとは逆に、正書法が、まさにその煩雑さと不合理性とを含んだまま、国家によって統一され、合法化され、承認されるやいなや、強迫神経症が蔓延する。綴りの誤りが「罪」となるからである。私は、自分の人生を変えるかもしれぬある就職口に、応募の手紙を出したところである。だが、あの複数形にたしかに s をつけたろうか? appeler(呼ぶ)という動詞に、p を二つ、l を一つ、たしかにつけたろうか? 私は疑いをもち、ひどく不安になる。ヴァカンスに出かけた人が、自宅のガスや水道をたしかに止めてきたかどうか、火事や洪水が起こらないようにしてきたかどうか、思い出せないのと同じである。そして、こうした疑いがヴァカンスを楽しむことをさまたげるのと同じく、合法化された正書法は、書き手がエクリチュールを、あの幸福な行為を、享受するのをさまたげるのである。その行為によってこそ、ある語の描線のうちに、単なる伝達の意図よりも少しばかり多くのものを含ませることができるというのに。
 正書法を改革すること? それは何度も試みられてきたし、いまも周期的に試みられている。しかしたとえ改善されても、それがふたたび強制され、合法化され、著しく恣意的な選別の道具になるとしたら、コードを変えても何になろう? 改革しなければならないのは、正書法ではなく、正書法の細々とした規則を命ずるおきてである。要求しうるのは、ただ、つぎのことだけである。すなわち、制度のある種の《寛容主義》。もし私が、《正確に》、つまり《規則どおりに》書くことを好むなら、そうするのはいっこうにかまわないし、(中略)合法的な正書法にも魅力がないわけではないのだ。なにしろそこには、倒錯した面がないわけではないからである。だがしかし、《無知》と《不注意》が、もはや不利益とならないようにしなければならない。それらを非常識や弱点と見なすことはやめなければならない。(中略)つまり要するに、正書法を理由にして排除することをやめるようにしなければならないのだ。」



「言語のざわめき」より:

「ざわめきというのは、順調に動いているものの音のことである。そこで、つぎのような逆説が生ずるのだ。すなわち、ざわめきとは、極限の音、不可能な音であり、完璧に動いているために音をたてないものが発する音である。ざわめくということは、音の消滅そのものを聞かせるということである。かすかな音、ごちゃ混ぜの音、ふるえる音が、音の抹消を示す記号として受け取られるのだ。
 それゆえ、ざわめきを発しているのは、幸福な機械なのである。(中略)実際、ざわめきというものは(中略)、肉体の共同体を含意しているのだ。《進行する》快楽の響きのなかでは、いかなる声も高められず、他を導かず、遠ざけられない。いかなる声も構成されない。ざわめきとは、複数的な――しかし決して集団的ではない悦楽の、響きそのものなのである(それとはまったく反対に、集団は、ただ一つの、それも恐ろしく強力な声をもつ)。」

「言語のざわめきとは、一つのユートピアなのだえる。では、それは、いかなるユートピアなのか? 意味の音楽というユートピアである。私がこの意味の音楽という言葉によって言いたいのは、こういうことだ。つまり、ユートピアの状態においては、言語は拡大されて、いやむしろその本性を変えられて、果てしない音の織物を形成するにいたり、そこでは意味論的装置が働かなくなるだろうということである。(中略)言語はざわめき、われわれの合理的な言説(ディスクール)の聞いたことも見たこともない動きによって記号表現にゆだねられるが、だからといって、意味の地平から離れることはないだろう。分割されない、不可解な、名指しえない意味が、やはり、蜃気楼のように遠くに置かれ、それが音声的営為を、ある一つの《内容》をもった二重の風景に変えるだろう。しかし(中略)音素の音楽がメッセージの《内容》となるということではなく、ここでは意味が悦楽の消尽点となるだろう。そして機械の場合、ざわめきは、音の不在を示す音にほかならなかったが、それと同じく、言語の場合、ざわめきは、意味の免除を告げる意味となるだろう。あるいは――こう言っても同じことだが――遠くにある一つの意味を告げる無=意味となるだろう。遠くにあるその意味は、以後、《人類の悲しく野蛮な歴史》を通じて形成された記号、つまりパンドラの箱、によって表わされる一切の攻撃性から、完全に解放されたものとなるだろう。
 なるほど、それはユートピアである。しかしユートピアというものは、往々にして前衛の探究を導くものとなる。それゆえ、ざわめきの実験とでも呼べそうな試みが、ときおりあちこちに存在することになるのだ。」

「今日、私は、ヘーゲルが語っているギリシア人に自分がいささか似ていると思う。ヘーゲルの言うところによれば、古代ギリシア人は、木の葉や泉や風のざわめき、要するに「自然」のふるえに、熱心に、たえまなく問いかけ、そこにある種の知性の姿を見出そうとしたという。そして私はと言えば、言語活動のざわめきに耳を傾け、意味のふるえに問いかけるのだ――現代の人間である私にとっては、「自然」とは、言語活動にほかならないのである。」



「言語活動の戦い」より:

「現代の社会においては、言語活動のもっとも単純な分裂は、「権力」との関係から生ずる。一方には、「権力」とそのさまざまな国家的、制度的、イデオロギー的装置との光(または陰)に包まれて言表し、発展し、幅をきかすさまざまな言語活動がある。これを権力内的(encratique)な言語活動ないし言説と呼ぶことにしよう。これに対して、「権力」の外で、および/または「権力」に反対して、自らを構築し、自らを知ろうとつとめ、武装するさまざまな言語活動がある。これを権力外的(acratique)な言語活動ないし言説と呼ぶことにしよう。」

「言語活動の戦いは全面的であるのだから、われわれはどうすればよいのか? (中略)もちろん、外にのがれることはできない。文化教養や政治的選択によって、われわれは、われわれの世界や歴史がわれわれに強制する種々の特殊な言語活動の一つに参加(アンガジェ)し、それを共有しなければならないのである。とはいえ、われわれは、たとえそれがユートピアであるとしても、脱状況化され、脱疎外化された言語活動の悦楽をあきらめることはできない。それゆえ、われわれは、参加(アンガージュマン)と悦楽の二つの手綱を同じ手に握り、言語活動の複数主義的な哲学を受け入れる必要があるのだ。ところで、もしこう言ってよければ、依然として言語活動の内部にあるそうした外部には、名前がついている。それが「テクスト」である。「テクスト」とは、もはや作品ではなく、エクリチュールの生産である。その社会的消費は、たしかに中立的ではない(「テクスト」は、ほとんど読まれていない)が、しかしその生産は、このうえもなく自由である。というのも、それは(中略)、言語活動の「全体」(「おきて」)を尊重しないからである。
 実際、ただエクリチュールだけが、もっとも真面目な、しかももっとも暴力的な、種々の語法の虚構的性格を引き受け、それらを演劇的距離に応じて位置づけなおすことができるのだ。」
「さらにまた、ただエクリチュールだけが種々の語法(中略)を混ぜ合わせ、知の異質論理(héterologie)と呼ばれるものを構成し、言語活動にカーニヴァル的な次元を与えることができるのだ。
 そして最後に、ただエクリチュールだけが、起源となる場所をもたずに自己を展開することができるのだ。ただエクリチュールだけが、ありとあらゆる修辞学的規則、ありとあらゆるジャンルの法則、ありとあらゆる体系の傲慢さをはぐらかすことができるのだ。エクリチュールは、アトピックなもの(場所をもたないもの)である。言語活動の戦いに対して、エクリチュールは、戦いをなくそうとするのではなく、それを転位させる。エクリチュールは、支配関係ではなく欲望が循環する、読書(レクチュール)とエクリチュールの実践の、ある種の状態を先取りしているのである。」





こちらもご参照ください:

ロラン・バルト 『物語の構造分析』 花輪光 訳


































































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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