金関丈夫 『日本民族の起源』

「反逆児の存在は、社会の健康には必要だ。」
(金関丈夫 「成川遺跡の発掘を終えて」 より)


金関丈夫 
『日本民族の起源』
 

法政大学出版局
1976年12月1日 初版第1刷発行
v 397p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円



本書「あとがき」より:

「集められた三三編のうちのほぼ半数は、日本人の生成に関する人類学的記事であり、内容の重複するものも多い。残りのうちの十数編には、多くは考古学的雑文、その他に解剖学名に関する史的考証などがあり、読者にとっては或る部は無用、著者にとっては雑然の責めを免かれないものがある。読者よりも著者の自作整理のためにできた冊子と見えないこともない。」


本文中図・表、図版多数。

本書はアマゾンマケプレのもったいない本舗さんで1円(+送料)で売られていたのを注文しておいたのが届いたので、専門的な部分は適宜はしょりつつ、ホネの写真にみとれつつよんでみました。


金関丈夫 日本民族の起源 01


目次 (初出):


日本民族の系統と起源 (ブリタニカ『国際大百科事典』15、1974)
日本人の体質 (平凡社『世界大百科事典』22、1958)
日本人の生成 (角川書店『世界文化史大系』20、日本Ⅰ、月報、1960)
形質人類学から見た日本人の起源の問題 (「民族学研究」特集・日本民族文化の起源、1966)
弥生人種の問題 (河出書房『日本考古学講座』4、弥生文化、1955)
こんにちの人類学から (読売新聞社『日本の歴史』1、日本のはじまり・日本民族の成り立ち、1959)
弥生時代の日本人 (『日本の医学の一九五九年』、第十五回日本医学会総会。後に平凡社『日本文化の起源』5、1973に再録)
日本人の形質と文化の複合性 (平凡社『日本語の歴史』1、民族のことばの誕生、1963)
弥生時代人 (河出書房『日本の考古学』3、弥生時代、1962)
日本人種論 (雄山閣『考古学講座』10、1972)
人類学から見た古代九州人 (平凡社『九州文化論集』福岡ユネスコ編1、1973)
弥生人の渡来の問題 (西日本新聞 1958. 3. 12)
人類学から見た九州人 (朝日新聞(西部版) 1960. 2. 19)
日本文化の南方的要素 (朝日新聞(西部版) 1967. 4. 3)
古代九州人 (『学士鍋』11、九州大学医学部同窓会、1974)
形質人類学 (日本民族学会『日本民族学の回顧と展望』6 民族学と周辺諸科学、1966)
アジアの古人類 (平凡社『世界考古学大系』8、1961)


沖縄県那覇市外城嶽貝塚より発見された人類大腿骨について (「人類学雑誌」44、六号、1929)
沖の島調査見学記 (毎日新聞(西部版) 1954. 8. 19)
根獅子人骨について(予報) (『平戸学術調査報告』「考古学調査報告」京都大学平戸調査団、1951)
土井ケ浜遺跡調査の意義 (朝日新聞(西部版) (一)1955. 9. 30、(二)1956. 10. 19、毎日新聞(西部版) (三)1957. 8. 26、(四)1957. 8. 27)
沖永良部西原墓地採集の抜歯人骨 (「民族学研究」21、四号、1956)
種子島長崎鼻遺跡出土人骨に見られた下顎中切歯の水平研歯例 (「九州考古学」三―四、1956)
成川遺跡の発掘を終えて (『成川遺跡』、埋蔵文化財発掘調査報告7、五章一節「人骨概要」、1973(序文三頁追補)
無田遺跡調査の成果 (毎日新聞(西部版) 1961. 1. 20)
大分県丹生丘陵の前期旧石器文化 (毎日新聞(西部版) 1963. 3. 24)
古浦遺跡調査の意義 (島根新聞 1962. 9. 8―9)
着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋 (「人類学雑誌」69、三―四号、1962)
人類学上から見た長沙婦人 (読売新聞(大阪版) 1972. 8. 5)


三焦 (「福岡医学雑誌」46、六号、1956)
『頓医抄』と「欧希範五臓図」 (「医譚」(復刊)12、1956)
琵琶骨 (「解剖学雑誌」40、三号、1964)
「縦横人類学」を読む (「季刊人類学」2、二号、1970)

あとがき
初出掲載紙誌一覧
解説 (池田次郎)



金関丈夫 日本民族の起源 03



◆本書より◆


「日本人の形質と文化の複合性」より:

「かりに、こんにちの日本人の人種型を論ずるとして、私たちは、どの地方の日本人をその代表とするか。実は、この設問に答えることは、むしろ不可能である。というのは、たとえば、近畿地方の日本人と北陸地方の日本人とをくらべたとき、そこにはいちじるしい形質上の違いがあって、どちらを代表的な日本人にすべきか、決定しかねるという結果がみられる。近畿地方の日本人を畿内人、北陸地方の日本人を北陸人とよんでみる。両者の男性の頭骨を計測して総合的な類似性を示す数値をだしてみる(これを平均型差といい、この数字の小さいほど類似性がつよくなる。(中略))。北陸人と畿内人とのあいだでは一〇〇・五となるが、朝鮮人と畿内人とのあいだでは六一・八である。かりに、畿内人を日本人の代表とすれば、北陸人よりも、朝鮮人のほうが、はるかに日本人的であるという奇妙なことになる。
 同じく、畿内人と琉球人の頭骨比較によれば、その平均型差は一〇六・一、機内人と中国福建省人とのあいだでは七五・一という数値がでる。琉球人よりも、福建省人のほうが、はるかに畿内人に近いことになる。
 一つの地方をとって、日本人を代表させると、このように、日本人と朝鮮人、日本人と福建人のあいだには、日本人の相互のあいだのつながりよりは、もっと密接なつながりがでてくる。民族としては、これらの三者はまったく別種である。しかし、人種としてはあるいは一つの種族かもしれない。あるいは逆に、民族としての日本人は、すべて一つであっても、人種としては、一つにできないのかもしれない。」



「古浦遺跡調査の意義」より:

「東大解剖学教室の小金井良精は、日本各地におびただしい貝塚をのこした、農業も金属器もまだ知らなかった縄文人は、その骨格の類似から推定して、いまのアイヌの祖先だったにちがいないと考証した。(中略)アイヌ説は一世を風靡した。一時は縄文土器はアイヌ式土器といわれ、全国の意味不明の地名をアイヌ語で解釈しようとする流行までおこった。
 この説が正しいとなると、われわれ日本人の祖先は、縄文時代以後にどこからか渡ってきた、新渡の種族だ、ということになる。その文化もちがっていたはずだ。ところが、小金井の住居にごく近くの、本郷弥生町から発見された土器がある。これは縄文土器とは非常にちがっている。のちにこの系統の文化が弥生式といわれるもととなったものだ。(中略)鳥居竜蔵は、はじめはこの系統の土器を「マレイ式」と呼び、南方に関係があるかと考えた。日本人の祖先は、南方渡来民だったろう、という考えが、鳥居の胸中にあったらしい。しかし、弥生文化の研究が進むと、これは直接には南朝鮮に関係のある、高級文化だ、ということがわかった。水田で米作をするという高級な農業を日本にもたらし、銅や鉄の利用法を伝えた新しい文化である。
 そこで鳥居は、これこそ今の日本人の祖先がこの列島にもたらした文化であり、アイヌの祖先である縄文人を南北に駆逐して、この島を占有した、この朝鮮経由の新渡の大陸人が、われわれ日本人の祖先となったのだ、と結論した。」
「縄文人は先住アイヌ族であり、日本人の祖先は、その後に高級の文化をたずさえて、アジア大陸から渡来した民族だ、という鳥居のこの説は、古来の天孫降臨説をも裏づけることができて、たいへん明快な説である。大正のころまではこの説が専ら行なわれ、人々はそれを疑わなかった。
 しかし、小金井の縄文人即アイヌ説の根拠になった、縄文人の骨格の材料は、発見の地域も限られているし、その数も非常に少ない。統計学的の正確な結論を出すには、もっと多くの縄文人の骨格材料を必要とする。このことを痛感して、日本全国の貝塚人をひろく集めたのは、京大の清野謙次だった。(中略)清野とその門下の諸学者の調査の結果は意外だった。縄文人はアイヌにも似ているが、しかしそれ以上に現代日本人によく似ている。だから、縄文人をアイヌの祖先だというのは誤りで、彼らはいわば「日本石器時代人」とでもいうべき、独特の人間である。その後に分れて、アイヌにもなり、日本人にもなった。その分れた原因は、それぞれ異なった要素との混血によるものだろう、というのが、清野の新しい説である。日本人の祖先は、新渡の弥生人ではない。縄文人こそ、その根幹にある。弥生文化をもたらした大陸渡来人は、その形成に参加した一要素にすぎない、ということになる。
 さて、この新説が世人の理解を要求しているうちに、日本は大東亜戦争に入った。国粋思想が異常に宣揚され、日本人こそアジアを指導する神聖なる使命を有する選民だ。こうした民族が混成種であるわけはない。日本人は日本で発生し日本で作られた純系の聖民族だというような考えが、しだいにはびこる。その影響は学界にも及び、混血説は否定される。縄文人以来の変化は、新しい人種要素の混入によるものではなく、時代の経過による自然の変化だ、と説明される。この説をなすものは、戦後のいまでも一部に残っている。しかしこの説によると、弥生文化の導入は、単なる文化現象であり、その文化を日本にもたらした人間は、少なくとも日本人の体質に影響を与えるほどは、渡来しなかったということになる。果たしてそうであろうか。」



「『頓医抄』と「欧希範五臓図」」より:

「なお、欧希範の解剖については、二、三の随筆に、そのことを記したもののあることは、以前から耳にしていたが、(中略)億劫で、私はまだ原典を見ていない。幸い最近(一九五六年一月)右の『夢渓筆談』を、胡道静の校証した『夢渓筆談考証』が出版され、その考証中にこれらの文献が引用されている。」
「希範を討伐したのは杜杞で、呉簡は嚮導人であった。招降に応じたものを欺し討ちして、六百余人を殺し、首魁の希範を塩漬けにして蛮人に食わせた。その間に五臓を図して世に伝えた、というのである。」



「琵琶骨」より:

「元末明初の詩人楊維楨、字は廉夫、号は鉄崖。その作品の中に「金盤美人」の一篇がある。
  昨夜は金床喜々として、美人の体を薦め、
  今日は金盤愁々として、美人の頭を薦む。
  明朝、使君何れの処にか在らん。
  溷中、人は溺す血〓(漢字: 骨+占)〓(漢字: 骨+娄)。
  君見ずや東山宴上の琵琶骨の、
  夜々鬼語して箜篌に啼くを。
 この凄惨な詩は、鉄崖の自注によると、張士誠――元末に挙兵し、呉中に拠って自ら呉王と称した――の女婿で、潘元紹というもの、その擁する数十の美姫のうち、才色絶倫の蘇氏を、酔余に些細なことで斬殺し、その首を黄金の盤に盛って客に薦めた、その光景を叙したものだという。昨日はこう、今日はこう、そして、使君よ、明日お前のいるところは、どこだろう。糞溜めの中だ、お前の血塗れのくされ頭に、人々は小便をひっかけているだろう、という語句は、痛烈を極めている。
 それはさておき、句は一転して、ここに東山宴上「琵琶骨」の文字が出現する。これは何であろう。解剖家として、見過すことの出来ない一句である。
 『資治通鑑』巻一六六、北斉の顕祖文宣帝の暴状を記した一節がある。倡婦であった薛嬪なるものを寵愛したが、臣下の王岳と密通していたことを知ると、その首を斬って懐中に蔵し、東山の離宮に出て宴に臨む。宴たけなわになるに及んで、忽ちにその首を盤上になげ出し、またその屍を解体し、その髀を弄して琵琶に擬した。やがて心しずまると、帝は盤上の頭に対して、流涕滂沱「佳人再び得がたし」といった、という。
 鉄崖がもち出した「東山盤上の琵琶骨」とは、この六朝の残虐事を意味する。
 しかし、顕祖が弄して琵琶に擬したという「髀」は femur にはちがいないが、femur の語がそうであるように、これは大腿骨ともとれ、また大腿そのものともとれる。髀の字が骨に従うとはいっても、転用は可能である。(中略)顕祖が弄して琵琶に擬したものは、骨ではなくて、美人の腿そのものだ、ともとれる。
 しかるに、鉄崖が直ちにもってこれを琵琶骨としたのには、他に何かの拠りどころがあったにちがいない。」
「宋の張舜民の『画墁録』には、
 「太祖招軍、格不全、取長人要琵琶腿車軸」
 とある。すなわち宋の太祖が軍を催したとき、格――車の横棒、ここでは車軸――の材が不足である。急場に、長身の男を徴発し、その琵琶腿で作った車軸を取り用いた、という、残暴ここに極まるていの話がある。車軸に利用した琵琶腿は、大腿骨以外のものではない。ここで初めて、人間の大腿骨に、琵琶の名を冠したことがはっきりした。」
「これらの文献から推して、琵琶腿は古くは、大腿骨の名で(中略)あった、ということが判る。ただ「琵琶骨」の三字は、まだ現われていない。
 しかし、宋代にはこれも現われる。現われるが、しかし、それは大腿骨ではない、別の骨の名としてである。」
「即ち、大腿骨を意味した琵琶腿の他に、宋代には、肩胛骨を指して琵琶骨ということがあった。」
「琵琶骨の名はさらに一転する。いつの頃からそうなったかは判らない。しかし、今日の中国語の辞典を引くと、琵琶骨は鎖骨だとある。」
「中国文献に琵琶骨の語が見えた場合、その時代性や、前後の文意に注意しないと、思わぬ誤解におちいる恐れがある。この蕪稿が、なに分かの警告に役立てば幸いである。」



金関丈夫 日本民族の起源 02








































































































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