『ミシェル・レリスの作品 4 日常生活の中の聖なるもの』 岡谷公二 訳

「私にとって聖なるものとは何だろうか? もっと正確にいえば、私の聖なるものとは、どのようなものから成立っているのだろうか? あの恐怖と愛着との混淆を、魅力的であると同時に危険なもの、心をうばうと同時に拒まれているものに近づくとき生じるあの相反する態度を、聖なるものについての心理的徴候とみなすことのできるあの畏れと恐怖とのまじりあった感情を、私のうちによびおこす事物や場所や情況とはどのようなものだろうか?」
(ミシェル・レリス 「日常生活の中の聖なるもの」 より)


ミシェル・レリス
『日常生活の中の聖なるもの』 
岡谷公二 訳

ミシェル・レリスの作品 4

思潮社
1972年5月25日 発行
290p 索引xxxiv 
口絵(モノクロ)4p
21.6×13.6cm 
角背紙装上製本 機械函
定価1,500円
装幀: 田辺輝男
表紙: Paul Klee: Kranker im Boot
見返し: Paul Klee: Flucht vor sich



本書「解題」より:

「本書は、ミシェル・レリスの民族学者乃至民族誌学者としての側面に照明を与えるために、訳者が編集したものである。」
「「日常生活の中の聖なるもの」 Le sacré dans la vie quotidienne は、最初「新フランス評論」(N・R・F)の一九三八年七月号に発表された。」
「「アフリカ黒人の美的感情」 Les noirs Africains et le sentiment esthétique は、西ドイツのシュトットガルトにあるゲルト・ハッティエ社から一九六五年に出た『カンウェイレルのために』という表題の論文集に発表された。」
「レリスのこの一文は、のちに(中略)『黒人アフリカの美術』(一九六八)の一章となった。」
「「ゴンダルのエチオピア人にみられる憑依とその演劇的諸相」 La possession et ses aspects théâtraux chez les Éthiopiens de Gondar は、一九五八年にプロン社から「人間の土地」叢書の一巻として出版された。これはその全訳である。」
「「マルティニック、ガドゥループ、ハイチ」 Martinique, Guadeloupe, Haiti は「レ・タン・モデルヌ」誌の一九五〇年二月号に発表された。」



本体表紙にクレーのデッサンが金箔押しされています。栞ひも(赤)付です。


レリス 日常生活の中の聖なるもの 01


帯文:

「心の内襞より憑依の諸相へと屈折しながらも貫走する表現の営為
黒人アフリカ・西印度諸島に向けられた対象化する視点を、やがては自ら自身にまで適用しようとする意図を含みつつ、詩=《私》から民族誌学=《われわれ》への脱皮を賭した試行を聖・禁忌を視軸に据えて論究する本論集は、きわめて独自な個性レリスの深く重い屈折の徴憑である。」



レリス 日常生活の中の聖なるもの 02


目次:

解題 (岡谷公二)

日常生活の中の聖なるもの
マルティニック、ガドゥループ、ハイチ
アフリカ黒人の美的感情
ゴンダルのエチオピア人にみられる憑依とその演劇的諸相
 はしがき
 第一章 ザール信仰とシャーマニズム
 第二章 憑依のもつ遊戯的、美的側面
 第三章 一つのあり方の象徴としての、一つの行為を促す存在としてのザール
 第四章 憑依の諸場面の主役たちにみられる意識と無意識
 第五章 ザール信仰における生きられた演劇と演じられた演劇

民族学者にならねばならなかった詩人――ミシェル・レリスの場合 (岡谷公二)
インデクス――訳註つき



レリス 日常生活の中の聖なるもの 03



◆本書より◆


「日常生活の中の聖なるもの」より:

「私にとって聖なるものとは何だろうか? もっと正確にいえば、私の聖なるものとは、どのようなものから成立っているのだろうか? あの恐怖と愛着との混淆を、魅力的であると同時に危険なもの、心をうばうと同時に拒まれているものに近づくとき生じるあの相反する態度を、聖なるものについての心理的徴候とみなすことのできるあの畏れと恐怖とのまじりあった感情を、私のうちによびおこす事物や場所や情況とはどのようなものだろうか?」
「明白に思われるのは、子供のころ私たちを魅惑し、このようなとまどいの記憶を私たちのうちにのこしたものすべてが、まず第一に問いただされねばならないということです。といいますのも、私たちの扱うことのできる素材のうち、幼年期の霧の中からとり出されたこれらの素材こそ、多分最も装われることすくないものではないか、と思われるからです。」

「客間――お客をよんだ日には、私たちの立入ることのできなかったオリンポス山――にくらべると、こうした便所は、人々がやってきては、もっとも混沌とした、もっとも地下的なもろもろの力と接触することによって、生気をとり戻す洞窟や穴ぐらの役割を果たしているのです。(中略)そこはまた、私達が、家族の他の全員に対し、自分をもっとも埒の外へ出た、切り離された存在と感じる場所であり、一方私達兄弟二人で形づくっていた萠芽の形の秘密結社の中にあって、互いをもっとも身近な、心のかよいあう存在と感じる場所でもありました。要するに私たちにとっては、あらゆる種類の契約というこのすぐれて聖なる事柄が問題なのでした。」
「母か姉が私たちをブーローニュの森か、パリ市立温室園附属の公園へ散歩につれていってくれるとき、よくこのなんとも名づけようのない空間(《未開》と言われている社会に属する人たちにとって、村という位置のきちんときまった世界に対し、ブッシュ、即ち村を離れた途端にはじまる、神話的な冒険や異常な遭遇に出会いがちの、境界のあいまいな世界が対立するように、家々のブルジョワ的世界に対立する空間)、実際に強盗たちの出没するこの《地帯》を横切ることがありました。そのような折、たとえば遊ぶためにそこに足をとめる場合、私たちは、まことしやかな口実を作って私たちを茂みの方へひきずってゆこうとするかもしれぬ見知らぬ人たち(今日、私はサテュロスというものの意味がよくわかります)を警戒するようにといわれたものでした。そこは、ことさらにタブーとされた特別の場所であり、超自然的なものと聖なるものとに重大なかかわり合いを持つ、公園とは全く違った地帯でした。公園の方はといえば、そこでは一切があらかじめ解っており、秩序立てられ、かきならされていて、芝生に立入ることを禁じる貼札さえも、タブーのしるしとはいいながら、ごく冷やかな聖性しかその場所に与えることができませんでした。
 兄たちの一人と私とを魅惑したもう一つの野天の場所は、オートゥイユの競馬場です。(中略)そこは、そこでくりひろげられる光景と、そこでかせいだり、すったりする莫大な金額のために、特別輝かしい場所であり、そこでは一切が運不運によってはかられるだけに、また、大きくなって私たちが賭博好きになるかもしれないと心配して、父が糞味噌に非難していただけに、特別不道徳な場所でした。」
「兄と私とは、(中略)大きくなったら競馬の騎手になろうとしばしば想像したものでした。宗教の創始者、大革命家や大征服家と同様、チャンピオンは特別の運命を持っているらしい。そして、社会のもっともめぐまれない階層の出身者であることが多い彼の、めくるめくような高みへのその上昇は、幸運の、呪力の――例外的なマナのしるしのように思われます。このマナのおかげで、彼はあらゆる階級を一気にとびこえ、たしかにいくらかアウトサイダー的なところはあるが、一般の人々が、その生まれの如何を問わず、まともにしていて期待できるものとは桁違いの社会的地位に達することができるのです。ある点で彼は、シャーマンを思わせます。シャーマンもまた、その当初において、多くの場合一介のめぐまれない人間にすぎません。しかし彼は、他人とは違って彼一人だけが精霊たちとむすびついた部分を持つという事実によって、運命に対し華々しい復讐をとげるのです。」

「私は言語についての、もっとくわしくいえば、それ自身ゆたかに意味を拡大できる言葉についての、また、よく理解していなかったり、読み違えたりしていて、それまで信じていた意味とは違う意味を持つことに気づいた途端、不意に一種のめまいをおこさせた言葉についてのある種の事実をお話ししたいのです。そのような言葉は、私の幼年時代にあって、そのひびき自体からおどろくべき展望がひらけた場合にせよ、以前いつもそれらの言葉を不正確に発音していたのに気づき、一気にそれらを完全に理解して、ヴェールが不意にはがれたり、何かの真実が明らかになったりするのに似ていくらか啓示に似た思いを味わった場合にせよ、しばしばの役目を果たしました。」

「私がこれらのさまざまな事柄――父の権威のしるしとしてのシルクハット、彼の勇気と力のしるしとしての弾倉つきのスミス・エンド・ウェッソン銃、(中略)彼が持っていると私の考えていた富のしるしとしての金貨入れ、元来は家の守護神だけれども、私たちがやけどをすることもあるストーブ、夜の縮図である両親の寝室、その中にかくれて、神話的な物語を話しあったり、性的な事柄の性質についてあれこれ仮設をめぐらしたりする手洗い、城壁のむこうにひろがっている危険な地帯、運に対して、あるいは服装も仕種も見る者の心を恍惚とさせる騎手たちの手綱さばきに対して大金が賭けられる競馬場、言語のある種の要素を通じて、これまで右も左も分らなかった世界にひらかれた窓――を比較するならば、そして私が子供であった頃の日常生活から借りたこれらの事実をことごとく集めるならば、私にとっての聖なるものの輪郭が少しずつ形づくられてゆくはずです。
 それは、父の持物や岩の大きな家のように、心をうばうなにか、競馬騎手のはなばなしい衣服や、エキゾチックなひびきをもつある種の言葉のように、人の意表をつくなにか、赤くもえている石炭や、あちこちにいかがわしい人々のさまよい歩いているブッシュのように、危険ななにか、胸をひき裂く一方で、私を悲劇の主人公にかえる咳の発作のように、異なった二つの性質を持つなにか、大人たちが儀礼をとり行なう客間のように、禁じられたなにか、便所の悪臭の中での秘密会議のように、秘密ななにか、ギャロップで走る馬の跳躍や、言葉の持つ底が何重にもなっている箱のごとき性質のように、めくるめくなにか、要するに、何らかの形で超自然的なものの刻印を打たれているなにか、とよりほかに私にはうまく考えられないなにかなのです。」



「アフリカ黒人の美的感情」より:

「もう一人の観察者ロラン・コランは、アフリカの芸術家がリズムを非常に重んずることを示す次のような事実を報告している。即ち、マリのシカソ地方に住むサモロ族の彫刻家ファコ・クリバリは、夜しか彫刻せず、その際には木を刻む音を伴奏に歌をうたう。《この歌は中断してはいけません。こうすれば(中略)歌とリズムが材木の中に入りこむのです。〔中略〕もしこのならわしにそむけば、作品全体が台無しになるでしょう。》」

「多かれ少なかれ社会の中心をはずれた部分に一つの階層を形成しているアフリカの鍛冶師は、単なる技術家ではなく、金属に加工する能力と、扉、錠、腰掛けなどの木工品を彫刻する能力とを兼ね備えた芸術家である。」
「バウレ族の地方では、彫刻家は村会に対して特別の発言力を持つ。重大な問題に関して首長が彼に意見をきくこともある。これは首長が鍛冶師に対してもすることで、後者は技術や呪術の知識に通じているため、意見を傾聴すべき人物とみなされているのである。」

「アフリカ内陸の偉大な発見者のひとりゲオルク・シュヴァインフルトは、芸術本能や、生活を整え美化するための作品をつくり出す喜びがもっとも手つかずに残っているのは、もっとも孤立した、もっとも粗野なアフリカ人、綿織物を用いることを知らず、今なお食人の風習を行なっている人々のあいだだとさえ書いているではないか?」



「ゴンダルのエチオピア人にみられる憑依とその演劇的諸相」より:

「《多数の異なったザールが憑くマルカーム・アッヤフの場合、彼女の日常の行動の一つ一つに、それぞれ特別のザールが割り当てられているように思われた。(中略)マルカーム・アッヤフの暮しぶりをみていて、私は、ザールとは彼女にとって一種の洋服ダンスのようなものであって、彼女は、日常生活の必要やさまざまな機会に応じて、洋服をとりかえるように、そこから人物をとり出して身につけるのだと考えるに到った。》」

「ある種のザールによる憑依は世襲とみなされており、治病を職業としていた憑依者が死ぬと、生前彼にとりついていた精霊の少なくとも一部が、家族の誰か、あるいは彼の信奉者の一人にのり移り、その人物が彼の後継者となるというのが規範とされている。」

「一般に容姿の美しさ(中略)は、ザールによる憑依に関係があるとしばしばみなされている。美しい人々はとくにとり憑かれやすい、というのが一般の意見だ。(中略)また(中略)マルカーム・アッヤフの家で行なわれたワダージャーの最中、トランスが終わって、精霊が離れ去った女たちを見ていた一人の男の口から出た次のような考察は、つねに意味深い。《ザールがいっちまうと、女たちの魅力もいっちまう。ああ、連中の顔が奇麗になるのはザールのせいなんだ。》」



レリス 日常生活の中の聖なるもの ほか


























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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