デュアメル 『真夜中の告白』 蛯原徳夫 訳 (岩波文庫)

「この世が私から消え失せてしまつた。私は影のなかで踠いてゐる。誰が私を助けに來てくれるだらう。」
(デュアメル 『真夜中の告白』 より)


デュアメル 
『真夜中の告白』 
蛯原徳夫 訳
 
岩波文庫 赤/32-581-1 

岩波書店
1941年10月25日 第1刷発行
1988年4月7日 第2刷発行
199p
文庫判 並装
定価400円



Georges Duhamel: La Confession de Minuit, 1920
正字・正かな。本文中図版1点。


デュアメル 真夜中の告白 01


帯文:

「わけもなく社長の耳に触って解雇された平凡な会社員の主人公。20世紀仏文学の傑作長篇連作『サラヴァンの生活と冒険』の第1部。」


内容:

眞夜中の告白
 一~二十二

あとがき



デュアメル 真夜中の告白 02



◆本書より◆


「或る朝のこと、電話が鳴りはじめたのです。鈴とか鐘とかベルとかいふ、さういふ堪らない種類の道具に對して、貴方が敏感でいらつしやるかどうかは知りませんが、私は大嫌ひなんです。自分の居る場所に電氣仕掛のベルが在るといふことだけで、私の生活はすつかり掻き紊(みだ)されてしまふのです。私は時をり、その理由だけで、勤めを止めてよかつたと思ふことさへあります。ベルの音といふものは他の物音とは違ひます。それは不意にわれわれの身體に錐を刺しとほして揉んだり、われわれの考への中に燒串を突込んだり、すべてのものを――心臓をさへも止めてしまつたりします。それに慣れつこになるといふことは決してありません。」

「お斷りしておかなければなりませんが、私はソック・シュロー商會ではとても低い地位にゐたのです。そして、自分の職務や習慣以外の場所に出ることを、いつも厭がつてゐました。私の仕事は文章を修正することで、實業界の大立物の前に突立つことではありませんでした。」
「突然、氏は顏も上げずに、食指を頁の上に強く押しつけて、かう言ひました。
 「なんといふ書き方だ……讀めやせん……この字は一體なんだ。」
 私は思はず近寄つてゆきました。そして跼みこみ、ためらはずに大聲で、「餘分ノ」と讀みました。かうしたために、私とシュロー氏とはごく近くになり、氏の安樂椅子の左の肱に手が屆くほどになりました。
 その時に私は氏の左の耳に氣がついたんです。(中略)その耳は私の直ぐ側(そば)にあつたのですが、その耳くらゐ遙かなもので、また珍しいものはないやうな氣がしました。「これは人間の肉だ。この肉に觸(さは)ることが全く自然のことであるやうな、さういふ人たちがこの世の中にはゐる。この肉が親しいものであるやうな、さういふ人たちがゐる。」と、私は考へてゐました。」
「すると、突然、私は自分が食指をのばしながら、右手を少し動かしてゐたのに氣がつきました。そして、その食指をそこへ、つまりシュロー氏の耳の上へ、乘せてみたいといふ慾望が、自分に起つてゐることを知りました。」
「その耳が禁制物でないこと、存在しないものでないこと、架空のものでないこと、又それが私の耳と同じやうに人間の肉であるといふことなどを、自分自身で證明してみる必要があることになつたのです。そして、不意に、私は思ひきつて腕をのばし、食指をそつと、私の乘せたいと思つてゐたところへ、つまり耳朶のやゝ上の、煉瓦色をした皮膚の一隅に、置いたのでした。」

「私はごく僅かなことで幸福になれるのです。ところが調子の狂つてしまふのも、又なほさら僅かのことからなんです。」

「私は大體オーステルリッツ橋の邊りが好きです。私の不愉快な想ひ出にあまり關はりのない場所なんです。其處を通つた時に、なにか恥しい思ひをしてゐたとか、又は腹を立ててゐたとかいふ記憶は、何もありません。さういふことは全く大事なことなんです。」

「御存じかどうかは知りませんが、歩道の縁どりの花崗岩は一つづつ接ぎ合せたやうになつてゐます。私は始めのうちはその上を何も考へずに歩いてゐました。けれどもそのうちに、二歩目ごとにその縁どりの二つの石の接ぎ目の上に足がゆく、といふことに氣がつきました。すると、無意識的に、二歩目ごとに正確にその接ぎ目の上に足をのせよう、としはじめました。さうするつもりはないやうに、又そんなことをしてゐる風を見せないやうに、さうしはじめたのです。といふのも、そんな馬鹿げたことをしてゐるのを通りすがりの人に知られたくありませんし、それは單に肉體上の遊びであつて、私の精神の關はり知るところではないと固く信じてゐたからなのです。
 すると、馬鹿げたことが始まつたのです。もうその接ぎ目のことばかりしか考へなくなつてしまつてゐたのでした。つとめて何もしてゐないやうな振りをしてゐながらも、接ぎ目に丁度靴底がのるやうにと歩を伸ばしたり縮めたりしてゐることに氣付きました。而もそれを自分自身にも隱さうとでもするやうに、すこぶる無關心な遣り方でやつてゐたのです。そんな状態が暫くのあひだ續きました。すると不意に、自分の空想が踊りはじめてゐることに氣付いたのでした。かうしてきちんと二歩づつ花崗岩の上を歩いていつて、若しあの三本目の瓦斯燈へ達しなかつたとしたら、俺の生涯は駄目になる、すべての計畫は失敗に終る、と私は心の中で考へてゐたのです――いや、さう考へてゐたのは私でなく、私の心の中に居ながらも私ではない何者かなのでした。」























































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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