成瀬駒男 『ルネサンスの謝肉祭 ― ジャック・カロ』

成瀬駒男 
『ルネサンスの謝肉祭
― ジャック・カロ』


小沢書店
昭和53年6月30日 初版発行
192p 口絵(モノクロ)16p
四六判 角背クロス装上製本 貼函
定価1,700円



ジャック・カロ評伝。口絵図版40点。


成瀬駒男 ルネサンスの謝肉祭 01


帯文:

「ルネサンスの黄昏、マニエリスムの時代の笑いと苦悩とを諧謔と共感の筆で活写した謎の天才銅版画家ジャック・カロ。その飄逸な足どりを辿りながら、同時代の民衆の生活感覚を掴みとる、ユニークな精神史の試み。カロを通して描くルネサンスの深層。」


帯背:

「評伝による精神史
ジャック・カロ」



帯裏:

「笑いの本質
 ジャック・カロの銅版画のすばらしさは、最近ようやく日本でも認められはじめたが、その人物や生涯についてはまだ殆ど何一つ紹介されてはいない。成瀬駒男君はは十年来、この天才肌の男の陽気でグロテスクで残酷な笑劇の世界に魅せられて、ここにカロ芸術の謎はもとより、ルネサンス末民衆の知られざる生活の諸相を、活々と描き出してくれた。面白くかつ珍重すべき本である。
安東次男」



成瀬駒男 ルネサンスの謝肉祭 02


目次:

はじめに
Ⅰ ロレーヌ公国
Ⅱ ロレーヌでの幼年・修業時代
Ⅲ ローマでの修業
Ⅳ フィレンツェでの研鑽と開花
Ⅴ ナンシーでの制作期
Ⅵ ブレダ、パリ逗留期
Ⅶ ナンシーでの晩年
Ⅷ カロと北欧芸術
おわりに

あとがき
参考文献



成瀬駒男 ルネサンスの謝肉祭 03



◆本書より◆


「フィレンツェでの研鑽と開花」より:

「さて、演劇史の中でこのコンメディア・デルラルテの役者ほど荒々しい技をあみ出した連中はいないのではないか。その技の極限はラッチとよばれる軽業にあるが、(中略)こうした荒技の絶えざる習練の結果がカロの版画の中にも表現されている。腰回りと股の辺の筋肉の異常な発達、腕と手首の異常なねじまげと関節はずしがそれである。そこにはむろんカロの誇張もあろうが、全体を幻想的と見る理由は全くなかろう。彼らを幻想的形象と誤解させるもう一つの要素は仮面、つけ鼻、羽根飾りである。即興喜劇が仮面を必要とした理由は、観る人との関連においては、この仮面は吝嗇を、こっちは空威張りをという具合に、各登場人物固有の性癖を示すためのものであった。しかし被る人との関連ではどうであったろう。自分の演技が高潮するにつれて、役者は、自分の仮面の象徴する動物の本性がわが身にのりうつるのを感じたのではないか。役者は一瞬怪鳥になった。カロの表現のすばらしさは、まさしくその憑かれた内面にまで立ちいたっている点である。それは心理だけでなく生理の面でもそうなのだ。大道で暴れの型を見せるタイツ姿の道化がセックスを直立させている図は先に指摘した。これはむろん外から観る者の表現ではない。それはカロ自身が道化と同様に性的になっているからである。それはこの喜劇が乱暴狼藉、残酷、猥雑の劇でもあることと関係がある。狼藉と芝居のことを折口信夫が書いている。

  歌舞妓芝居はそれ(散歩芸・筆者註)から生れたのだが、尚、此には、狼藉の所作振りと、人目を驚かす異風とがとり入れられた。勿論、此にも、理由はあるので、前にも言うた様に、かぶくとはあばれる事であつた。かぶき者かぶき衆とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。
  ………
  しかし、歌舞妓芝居にあつては、既に、其起りが、乱暴・異風――そして、それが性欲的であつた――を採り入れた芸術なのであるから、さうしたこと――残虐的、或は、性欲的な場面――が、多分にあつたとしても、其は、必しも、不思議とするには当らないのである。(「ごろつきの話」)

 異風、乱暴を性的と感じ、また性的でもあったのは、なにも平安朝の京の街だけではなかったろう。そしてコンメディア・デルラルテの大道での異風の芸は祭礼の性的な躁宴の先触れでもあったと思う。」



「おわりに」より:

「大《戦争の惨禍》において、カロの芸術が最高水準に達したことは事実であるが、それが最もカロ的な作品かというと、わたしにはそうは見えない。技がその境地にまだ達せずとも、《バルリ》に代表されるコンメディア・デルラルテもの、《インプルネータの市》に代表される祝祭ものこそ、カロの真骨頂を示しているとわたしは見る。これらの作品の特質は、一言でいえばグロテスクというものだが、この語はルネサンス期という時代相のもとで正確に理解されるべきであろう。これをロマン派や現代芸術が理解しようとした次元で捉えようとすると、逆にラブレーやカロのグロテスクの特質が曖昧になってしまう。カイザーの『グロテスクなもの』は、この概念を〈疎外されたもの〉の相の下で理解しようとする試みである。

  機械的なものは生命を得ることによって疎外され、人間的なものはその生命を失うときに疎外される。グロテスクなものの永続的な題材は、人形やマリオネットやロボットなどとなって硬直した肉体、また化け物じみた醜貌や仮面などとなって硬直した顔なのである。……グロテスクなものは疎外された世界である。……疎外されたといえるためには、われわれになじみ深く気がおけないものが突如、奇異で無気味なものとして暴露せねばならぬ。
(竹内豊治訳)

 しかしこの相の下で捉えられるのは、ホフマンらロマン派と、アンソールやクービンら現代芸術のグロテスクであって、カロのそれではない。中世・ルネサンスのそれは、逆に世界を無気味、恐怖から解放し、世界を目一杯陽気にし楽しくするものだ。(中略)このグロテスクの中心は笑いであり、笑いの中心は道化であった。ボードレールはこの笑いの本質を真に理解した評家の一人である。『笑いの本質について』の中で、コミックが一種の模倣であるのに対して、グロテスクは創造であり、グロテスクによって惹き起される抱腹絶倒の笑には〈深遠で、公理的かつ原始的な〉何かが含まれている、と述べた後、このグロテスクのことを絶対的滑稽と呼び、かかるものを生んだ人としてラブレー、モリエール、カロの名を挙げ、カロの描くグロテスクな人物のことを〈謝肉祭風(カルナヴァレスク)」と呼んでいる。そしてこれら現実の道化たちは検閲、禁止、処刑からなる外的抑圧を免れる一定の特権を持ち、グロテスクな罵言と身振りで権力への恐怖を〈奪冠〉した。この恐怖の克服が謝肉祭ではどういう象徴のもとで行われるかについて、バフチーンは述べている。

  前にも述べたが、カーニバルに当然つきものとなっているものに《地獄》と名づけられるグロテスクなセットがある。この《地獄》は通例、祭りが頂点に達した時に荘厳に燃やされるのである。この恐怖の克服という契機(モメント)を考慮にいれなければグロテスクなイメージは決して理解することができない。恐ろしいものとたわむれ、それを嘲笑するのである。恐ろしいものが《陽気な怪物》となる。しかしこの契機(モメント)を単純化し、全イメージを抽象的な合理主義の立場から解釈しようとすれば、グロテスクなイメージを理解することはできない。どこで恐怖の克服が終り、どこから喜ばしい楽しみが始まるかということは言えない。このカーニバルの地獄そのものが、のみこみ、生み出す大地となり、地獄がしばしば豊饒なもの(コルヌー・コーピアエ)の象徴へと変形し、怪物や死が孕むものとなる。(川端訳)

 この笑いと〈奪冠〉の伝承こそが、ラブレーの文学、カロの芸術を生み出す巨大な母体なのだり、カロの広場、祝祭、饗宴、肉体、怪獣(キメラ)、滑稽な小鬼のイメージは、この民衆的グロテスクの感覚に息づいている。」





こちらもご参照ください:

谷口江里也 編 『画集 ジャック・カロ』











































































































































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