武田泰淳 『ひかりごけ』 (新潮文庫)

「忍耐づよいこと。ただ忍耐強いことだけが、Q島の住民を保護してくれる唯一(ゆいいつ)の生き方なのだ。」
(武田泰淳 「流人島にて」 より)


武田泰淳 
『ひかりごけ』
 
新潮文庫 1506/た-10-3

新潮社
昭和39年1月25日 発行
平成4年4月20日 42刷改版
平成17年11月30日 60刷
246p
文庫判 並装 カバー
定価400円(税別)
カバー写真: ヘラルド・エース提供
イラストレーション: 石井みき



『目まいのする散歩』がおもしろかったのでまえに買っておいた本書もよんでみました。


武田泰淳 ひかりごけ


カバー裏文:

「雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生死の境に追いつめられた人間同士が相食むにいたる惨劇を通して、極限状況における人間心理を真正面から直視した問題作『ひかりごけ』。仏門に生れ、人間でありながら人間以外の何ものかとして生きることを余儀なくされた若き僧侶の苦悩を描いて、武田文学の原点をうかがわせる『異形の者』。ほかに『海肌の匂い』『流人島にて』を収録する。」



◆本書より◆


「海肌の匂い」より:

「「新ちゃんの嫁さんかね」市子が挨拶すると老人はふり向いた。「どうかね、村の生活は? つらかろうが」」
「「あんたはこの村へ一番新しく来た人だ。だからおらはあんたに興味を持っている。これからあんたがどんな風に暮し、どんな風になるかな」」
「「人間はほんとは、どこに住んでも同じこんだ。だけどとかく自分の住むところを選びたがるもんだ。おらも昔は何回も村を飛び出したもんだからな。(中略)それからあともいろんなことをしでかしたさ、どれが良いことか、どれが悪いことか、自分で考えたって、他人が考えたってわかりゃしねえさ、どうしたって人間やる時はやるだからな。(中略)気まぐれとか魔がさすとか言うが、なあにみんな正々堂々の運命なのよ。なにも後悔するこたぁねえかわりに、何も自慢するこたぁねえ。魚を見たってわかるさ。魚はお前さん、どんな具合になったって自慢は言わねえし、グチ一つこぼしやしねえ」」
「「たまにはダイボの船にでも坐って、網の見物でもしなさい。そりゃ、とても気持がいいもんだからよ」
 「だけどダイボの船には女衆は乗せないでしょうが」
 「そりゃ今までは乗せなかった。乗りたがる女がいなかったから、自然々々とそんなしきたりが出来ただけの話よ。乗ってみなさい。気がねはいらねえ。乗ってみなさい。おらが男衆に話してやるだからよ」
 「乗ってみたいけんどな」
 老人の息子は四人とも戦死していた。(中略)老人に似て放浪性のあった娘は、発狂して家にとじこもっていた。その娘は発作が起きると二階から立小便した。陽気に喋(しゃべ)る老人には、そのような度重なる家庭的な不幸の暗さが見られなかった。」
「不自由のない家庭から湯の町、伊東へまで放浪して行ったその狂女は、おそらくは気のやさしいひとだったのであろう。村にとっては老人同様、異端者の一人ではあったが、やはり人に愛され、人を愛する生れつきだったにちがいない。それだのにフトした原因で、ついに人間社会のとりかえしつかぬ異端者になってしまったのだ。」

「老人は新三の嫁を自分たちの漁船にのせ、ダイボ網を見物させろと主張したのであった。今までにない異例なので、それが案外に重大な問題になった。(中略)「遊びじゃねえだからよ。な、漁は遊びじゃねえだからよ」嫌悪の色をうかべて、吐き出すように言う青年もあった。「町場の女ら、ひとの苦労も知らねえで図にのってるだよ」とささやく者もいた。
 それでなくても、ひどい不漁の日は、当番になった若い者はこっぴどく仲間にからかわれた。」

「市子の肩に大きな掌(て)がやさしくかかった。
 「よかったな。魚がとれてよ」秋山老人はおだやかに、彼女の耳に口をよせるようにして言い、悪戯(いたずら)らしく笑った。「一年ぶりだよ。こんなに獲(と)れたは一年ぶりだよ」」
「「新三の嫁さん。おかげで獲れましたよ」
 キャプテンは悪漢のような眼を細めて、嬉(うれ)しげに言った。「これから毎日、船に乗ってもらうだよ、なあ」
 市子は放心したように船べりにもたれていた。」
「「……なぜ魚が獲れたのかしら。今日にかぎって、なぜ魚がここへ寄って来たのかしら」市子は秋山老人の腕につかまりながら、弱々しくたずねた。
 「なあに気まぐれだよ。気まぐれでやって来て、つかまっただよ」と老人は答えた。」

「黒緑色の丸石や灰色の切石、白々と貝殻(かいがら)をつけた岩肌を透し見せる淡青色の水の上を、一匹の うずわ が走っていた。うずわ は泳いでいるのではなく、身体を水面に横たえて、ただ動いているだけであった。片ヒレを失っているため直線に泳ぎ去ることができず、チリチリ、チリチリと残ったヒレをふるわせ、苦しげに動いていた。」
「群をはなれて網にかかり、そこから逃れ出したまま、弱りはててもがいているにちがいなかった。狂女はゆるい半円を描いて水中を走るその魚を、突堤の上から見下しているのだった。」
「狂女はもとより、大漁を知らなかった。今、その娘の視野に入るのは群をはなれて死にかかったその一匹の魚だけであった。老人がそれを身にしみて感じている。そのことが市子には痛いほどよくわかっていた。S部落のすべての漁民からはなれ、老人からも市子からもはなれて、娘はただひとり海の中の弱りはてた魚を見守っているのであった。」
「狂女はとりかえしのつかぬ異端者になっている。それはどうしようもない。淋しくおそろしいことではあるが、もうきまってしまったことだ。自分は彼女とはちがう。しかしもしかしたら……、と市子は思った。もしかして狂女のようなものに自分がなるとして、そのようなこともまたあり得ないことではない、と彼女は思った。」



「ひかりごけ」より:

「トッカリの肉は、誰が喰ってもうめえもんよ、な。煮ても焼いても、うめえもんよ、な。アイヌのこせえる料理で、フイベつうもん食べたことあっか。トッカリのはらわたをな。腸だの肺だの肝臓だのこまかに刻んでよ。トッカリのひげも、トッカリの脳みそもみんな入れて掻(か)きまぜてや、海の水で味さつけて、こせえるのよ。あの味だったら、まずあんなうめえものはねえべさ。」

「西川 おら、睡っても睡れねえだ。
船長 そんな風だな。
西川 起きてても、睡ってるみたいだしよ。
船長 寝ても起きても、せつねえだべ。
西川 せつねえだ。せつねえと考(かんげ)えると、なおのことせつねえだ。
船長 睡ってから、眼さあけたときが、一番せつねえだべ。」





◆感想◆


「ひかりごけ」の序文にあたる部分で、著者は「はまなす」と呼ぶのは誤りであるとして、「はまなす」のことを「はまなし」と書いています。そして「ひかりごけ」が生えている場所は「マッカウシ」洞窟であると書かれています。
しかしそれに続く本文にあたる「戯曲」の第一幕は「マッカウス洞窟の場」です。「はまなす」が誤りで「はまなし」が正しいのなら、「マッカウシ」が正しくて「マッカウス」は誤りです。誤りというのは、この「戯曲」が著者のことばでいえば「自己流の演出者」によって演出された「文学的表現」としての「難破船長人喰事件」であるということでありましょう。ようするに、リアリズムではないということであります。
「戯曲」の第二幕「法廷の場」では、「船長」は「キリスト」になぞらえられています。なぜキリストなのか。キリストは「罪なき者まず石を擲て」といいましたが、船長は「私はただ、他人(ひと)の肉を食べた者か、他人(ひと)に食べられてしまった者に、裁かれたい」といいます。つまり「罪ある者まず石を擲て」といっているわけで、このへんは、幕切れの船長のせりふ「見て下さい。よく私を見て下さい。」が、聖書のピラトの言葉「エッケ・ホモ(この人を見よ)」を「キリスト」であるはずの船長自身が発してしまうことになっているのや、著者が注記で西洋中世の「聖画」を念頭にうかべよと指示しているために「人喰い」(罪)の「目印」であるはずの「光の輪」(=「ひかりごけ」)が聖性のしるしである光輪(ハロー)と重なりあってしまうのとあいまって、一種のグロテスクなユーモアを感じさせるところです。
すなわち、人喰い(罪)こそが聖性であるといっているわけです。
カトリックの教義(化体説)によれば信者はキリストの肉(聖体)を食べるので、ウルグアイ空軍機571便遭難事故の例でもわかるように、人肉を食べてもなんら問題ないのであります。
ようするにわれわれは皆罪ある者であり人喰いであると自覚することが肝要であると著者はいっているのでありましょう。


















































































































































































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