萩原朔太郎 『詩の原理』 (新潮文庫)

「詩的精神の第一義感的なるものは、何よりも宗教情操の本質と一致している。その宗教情操の本質とは、時空を通じて永遠に実在するところの、或るメタフィジカルのものに対する渇仰で、霊魂の故郷に向える のすたるじや、思慕の止(や)みがたい訴えである。」
(萩原朔太郎 『詩の原理』 より)


萩原朔太郎 
『詩の原理』
 
新潮文庫 710/草 197 C

新潮社
昭和29年10月30日 発行
昭和47年3月10日 20刷改版
昭和56年7月30日 34刷
254p 「文字づかいについて」1p
文庫判 並装 カバー
定価240円



新字・新かな。
昭和三年に刊行された長編詩論です。とはいうものの、ほんとうのところ「詩」とか「詩人」とか「文壇」とかいうのは何か別のものの比喩であって、本書はむしろ著者にとって切実な人生の困りごとについての本なのではないでしょうか。


萩原朔太郎 詩の原理


カバー裏文:

「孤独な魂を抱いて、感覚世界を彷徨する詩人、萩原朔太郎。鋭角的なリリシズム、幻視幻覚のもたらす逆説的美のイメージ――本書は日本の近代詩に新時代を画した彼が、十年の苦心琢磨(たくま)の末、概論、内容論、形式論、結論の四部に分け、詩の本質と詩精神を論究した名著である。「自分の頭脳を往来した種々の疑問の総譜表」と自ら言うように、その詩論は幾多の実作から導かれている。」


目次:


新版の序
読者のために

概論
 詩とは何ぞや

内容論
 第一章 主観と客観
 第二章 音楽と美術
 第三章 浪漫主義と現実主義
 第四章 抽象観念と具象観念
 第五章 生活のための芸術・芸術のための芸術
 第六章 表現と観照
 第七章 観照に於ける主観と客観
 第八章 感情の意味と知性の意味
 第九章 詩の本質
 第十章 人生に於ける詩の概観
 第十一章 芸術に於ける詩の概観
 第十二章 特殊なる日本の文学
 第十三章 詩人と芸術家
 第十四章 詩と小説
 第十五章 詩と民衆

形式論
 第一章 韻文と散文
 第二章 詩と非詩との識域
 第三章 描写と情象
 第四章 叙事詩と抒情詩
 第五章 象徴
 第六章 形式主義と自由主義
 第七章 情緒と権力感情
 第八章 浪漫派から高蹈派へ
 第九章 象徴派から最近詩派へ
 第十章 詩に於ける主観派と客観派
 第十一章 詩に於ける逆説精神
 第十二章 日本詩歌の特色
 第十三章 日本詩壇の現状

結論
 島国日本か? 世界日本か?
 『詩の原理』の出版に際して

解説 (伊藤信吉)




◆本書より◆


「序」より:

「日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹(キリシタン)の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人(ごじん)は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂(にお)いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑(けいべつ)されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒瀆(ぼうとく)され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾(つばき)かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故(ゆえ)に嘲笑(ちょうしょう)され、文壇的人非人(にんぴにん)として擯斥(ひんせき)された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯(ひきょう)なおどおどした人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹等が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐(しい)たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽(いんぺい)され、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹(あんたん)たる事態の下に」自分は幾度か懐疑した。「詩は正(まさ)に亡(ほろ)びつつあるのでないか?」と。それほど一般の現状が、ひどく絶望的なものに見えた。」
「実に自分は長い間、日本の文壇を仇敵視(きゅうてきし)し、それの憎悪(ぞうお)によって一貫して来た。あらゆる詩人的な文学者は――小説家でも思想家でも――日本に於ては不遇であった。のみならず彼等の多くは、自殺や狂気にさえ導かれた。――正義は復讐(ふくしゅう)されねばならない。」



「浪漫主義と現実主義」より:

「文学上に於ける主観派と客観派との対立は、常に浪漫派と自然派、もしくは人道派と写実派等の名で呼ばれている。先(ま)ず客観派に属する文学、即ち自然主義や写実主義の言うところを聞いてみよう。
   ● 感情に溺(おぼ)れる勿(なか)れ。
   ● 主観を排せよ。
   ● 現実に根ざせ。
   ● あるがままの自然を描け!
 これに対して主観派に属する文学、即ち浪漫主義や人道主義の言うところはこうである。
   ● 情熱を以て書け!
   ● 主観を高調せよ。
   ● 現実を超越すべし。
   ● 汝(なんじ)の理念を高く掲げよ!」
「そもそも何故(なにゆえ)に二つの主張は、かくも反対な正面衝突をするのだろうか。けだしこの異議の別れる所以(ゆえん)は、両者の人生に対する哲学――人生観そのもの――が、根本に於てちがっているからである。」
「この二つの異った思想に於て、読者は直(ただち)に希臘(ギリシャ)哲学の二つの範疇、即ちプラトンとアリストテレスを聯想(れんそう)するであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、形而上(けいじじょう)の観念界(イデヤ)に存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向ってあこがれ、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を駁(ばく)して真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、尚(なお)一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。」

「ところでこの「主観を捨てよ」は、自然派その他の客観主義の文学が、常に第一のモットオとして掲げるところであるけれども、一方主観主義の文学に取ってみれば、主観がそれ自ら実在(レアール)であって、生活の目標たる観念である故に、主観を捨てることは自殺であり、全宇宙の破滅である。彼等の側から言ってみれば、この「あるがままの現実世界」は、邪悪と欠陥とに充ちた煉獄(れんごく)であり、存在としての誤謬(ごびゅう)であって、認識上に肯定されない虚妄(きょもう)である。何となれば、彼等にとって、実に「有り(レアール)」と言われるものはイデヤのみ。他は虚妄の虚妄、影の影にすぎないからだ。
 然るに、客観主義の方では、この影の影たる虚妄の世界が真に「有る(レアール)」ところのもの――この非実在とされる虚妄の世界が、レアールの名で「現実」と呼ばれてる。(中略)故に両方の思想は反対であり、同じレアールという言語が、逆に食いちがって使用されてる。」



「詩人と芸術家」より:

「詩人とは何だろうか? 言うまでもなく詩人とは詩的精神を高調している人物である。では詩的精神とは何だろうか? それについては前に述べた。即ち主観主義的なる、すべての精神を指すのである。故に「詩人」の定義は、一言にして言えば「主観主義者」である。詳しく言えば、詩人とはイデアリストで、生活の幻想を追い、不断に夢を持つところの人間夢想家(ヒューマンドリーマア)。常に感じ易(やす)く情熱的なる人間浪漫家(ヒューマンロマンチスト)を指すのである。」


























































































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