芳賀徹 『平賀源内』 (朝日選書)

芳賀徹 
『平賀源内』
 
朝日選書 379

朝日新聞社
1989年6月20日 第1刷発行
ii 428p 
四六判 並装 カバー
定価1,300円(本体1,262円)
装幀: 多田進



本書「選書版のためのあとがき」より:

「この本はもと「朝日評伝選」の一冊として、昭和五十六年(一九八一)七月二十日に刊行された。」


本文中図版(モノクロ)多数。


芳賀徹 平賀源内 01


帯文:

「評伝 平賀源内
18世紀の江戸、物産学に戯作に油絵に鉱山開発に、八面六臂の大活躍をした、風来山人こと平賀源内。神出鬼没、江戸の知と感性の枠組みを痛快にゆさぶった「非常の人」の生涯を鮮かに描く。朝日評伝選の選書版。」



目次:

一 ホルトの木の蔭で
二 源内哀悼
三 博物学の世紀
四 源内の長崎
五 讃岐から江戸へ
六 物産学修業
七 物産ハ多く、見覚え候心ハ一ツ
八 東都薬品会
九 『物類品隲』の世界
 1 紅毛博物学へ
 2 『物類品隲』記述の態度
 3 「人参」の比較文化史
一〇 戯作者の顔
 1 風来山人の出発
 2 『根南志具佐』
 3 『風流志道軒伝』
一一 秩父山中
一二 神田白壁町界隈
一三 紅毛の博物書
一四 再び長崎へ
一五 古今の大山師
一六 秋田行
一七 憤激と自棄
一八 非常の人

あとがき
選書版のためのあとがき
平賀源内年譜
主要参考文献



芳賀徹 平賀源内 02



◆本書より◆


「博物学の世紀」より:

「だいたい、今日から遠く十八世紀の世界に眼を放ってみれば、東西を問わずこの世紀は博物学の世紀だったともいえるのではなかろうか。(中略)遠い大洋をへだてたこの日本の孤島でも、松平頼恭や薩摩藩主島津重豪や熊本藩主細川重賢(しげかた)や富山藩主前田利保などをはじめとして、上は大名連から下は旗本や諸藩の潘医や市井の学者や商人や地方の豪農などにいたるまで、実に多様な階層職種の人間が、本草学・物産学・地誌・園藝などの名のもとに趣味と実利とを兼ねた博物研究に熱をあげ、競いあっていたというのは、思えばまことに不思議にも面白い文化史的平行現象だったのではなかろうか。」

「博物学は、(中略)なんといっても本来は本草(薬用、herbal)の学として出発し、やがて殖産興業とか「国益」開発とかを公の契機とし、またおそらく私の動機ともして、発達したはずである。(中略)ところが、前にも触れたように、その専門家たちの周辺に、上下各層にわたって数多くの博物愛好家が輩出したのである。博物図譜を作ったのは、この愛好家たちのなかの上層に属する者が多かったのは当然だが、いわばこの愛好家群が博物学を実学志向から開放し、そこによい意味での趣味的な要素をゆたかにもちこんだといえる。博物学という学問にもともとそのような性格がひそんでいるのでもあろうか。自然の造化の千変万化の不思議と美とに惹かれてこの学問に従うとき、そこに、ホイジンガも十八世紀ヨーロッパの博物蒐集熱について指摘したような「遊戯の躍動(エラン)」が働くのは当然である(中略)。むしろ、この「遊び」の要因こそが博物学の学問としての自律性といきいきとした豊かさとを保証していたともいえよう。
 徳川後期の日本の博物学についても、それはたしかに強く働いていた。釣りと猟の好きな松平頼恭が動植物をとりまぜて七百数十点もの標本を集めて、これを極彩色の図録におさめ、さらにその図を長崎在留の中国人のもとに送って中国名による同定を求めたりしたとき、また細川重賢が昆虫の幼虫から蛹(さなぎ)となって羽化し成虫となるまでの生態を観察して、それを賦彩も美しい『昆虫胥化図』にまとめ、伊勢長島藩主増山雪斎(一七五八~一八一九)が数百種にも及ぶ蝶やトンボを目の前において、一つ一つ虫眼鏡を使ってトンボの翅の筋一本、蝶の翅の縞や斑点一つにいたるまでを克明に濃彩で描きわけていったとき――彼らがホイジンガのいう「いかなる疑惑の念によっても弱められることのない献身」(中略)、つまり「遊戯のエラン」につき動かされていたことは、疑いえない。そのとき彼らの努力は、もはや殖産興業の掛け声や「薬用」の観念とは、なんの直接のかかわりをももっていなかったろう。博物を蒐集し観察すること自体のよろこび、面白さに、彼らは夢中になっていたのにちがいない。私たちはその点を十分にたっぷりと評価しなければならない。彼らの博物学と博物図譜とが、明治以後の「近代的」動植物学にいかにつながり、寄与したか、あるいは寄与しなかったか、といった直線的一方向の史観からのみ彼らの仕事を眺めてはならないのである。」



「源内の長崎」より:

「たとえば、(中略)ドドネウスの『阿蘭陀本草』にしても、源内はもうこの宝暦二年の長崎で見ていたのではなかろうか。彼はこの高価な大冊を、十三年後の明和二年(一七六五)春三月には、ついに無理算段して買入れて、わが宝の一つとするのだが、それも長崎以来の執心のせいではなかったか。(中略)この本は本草学者としての源内の一生につきまとったといってもよい。この書物は彼の野心であり、誇りであり、夢想であり、そしてまた最後には慙愧の種ともなったのである。」


「非常の人」より:

「安永八年(一七七九)冬の源内は、事件の起るしばらく前から、やはり言動が異常であった。境町人形芝居で、門弟森島中良作の浄瑠璃が大当りで、自分の作は不評だったことから、異様に嫉妬心を起し、楽屋裏で顔色をかえて中良を罵ったという(鳥海玄柳『弘釆録』)。そのころはごく些細なことで癇癪を爆発させるようになり、この回想をしるす鳥海玄柳自身も叱られること度々であったという。またあるときは、大田南畝らが源内を訪ねて書を乞うと、「我此頃甚だ得意の絵あり」と言ってすぐに描いてくれたのは、なんと、岩上から一人が小便をしていると、岩下の一人がそれを頭から浴びて有難涙を流しているという、ついにまったく意味不明の図であった。南畝は、「此時已に癲狂の萌ありけるにや」と、後に語っていたと伝えられる(『鳩渓遺事』)。
 事件は同年十一月二十日の深夜から翌未明にかけて、その年の夏から引越して住んでいた神田橋本町の源内宅で起った。それは代々不吉なことのつづいた凶宅として人々が敬遠していたのを、安くて大きいからと源内が買いとった家だったといわれる。事件の実相については諸説紛々である。」
「いずれにしても、この雨もよいの冬の夜明け方の源内乱心によって、一人の男が手傷を負って死んだ。後代の精神病理学者によって、「わが国で、天才・狂気・犯罪が手を結んであらわれたことが明瞭な最初の例」と呼ばれる(小田晋『日本の狂気誌』思索社、昭和五十五年)事件が、ここに発生したのである。源内はその日のうちに官に従って伝馬町の獄に入り、一月ほど後の安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)、獄中で病死した。これも一説によれば破傷風、一説によれば後悔と自責から絶食して死んだのだという。歿年五十二歳であった。」





こちらもご参照ください:

杉田玄白 著/緒方富雄 校註 『蘭学事始』 (岩波文庫)
荒俣宏 『増補版 図鑑の博物誌』 (集英社文庫)












































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