森銑三 『おらんだ正月』 (冨山房百科文庫)

「蘭山は、まったく仙人のような、人間ばなれのした人でした。」
(森銑三 「世界的の大植物学者小野蘭山」 より)


森銑三 
『おらんだ正月
― 江戸時代の科学者達』
 
冨山房百科文庫 20

冨山房 
1978年10月9日 第1刷発行
1996年7月27日 第3刷発行
xiv 312p 人名索引vi 口絵(折込)
新書判 並装 カバー
定価1,236円(本体1,200円)
装幀: 辻村益朗
画装: 瀨川康男



本書「凡例」より:

「本書は、昭和十三年八月、旧冨山房百科文庫版として初版刊行された。その後数次の改訂を経ているので、今回の新版発行に際し、本文は、中央公論社版『森銑三著作集』所収の「おらんだ正月」を底本とした。若干の訂正箇所がある。」
「漢字・かなづかいは、それぞれ新字・新かな表記に改めたが、用事・送りがな等についてはおおむね底本のとおりである。(中略)人名・地名・書名等の固有名詞のほか、難読と思われるものにルビを補った。」
「図版に関しては、旧冨山房百科文庫本の体裁に準拠したが、若干の異同がある。」
「「人名索引」を巻末に付した。」



口絵図版(モノクロ)2点(「おらんだ正月を祝う人々(「芝蘭堂新元会図」)」および「「伊能小図」(部分)」。本文中図版(モノクロ)多数。


森銑三 おらんだ正月 01


目次:

解題 (富士川英郎)
凡例


一 牛に乗って外へ出た仙人のような医者永田徳本(ながたとくほん)
二 大貿易家で大土木家を兼ねた角倉了以(すみのくらりょうい)
三 一派の鍼術(しんじゅつ)を興した検校(けんぎょう)杉山和一(すぎやまわいち)
四 奥羽(おうう)に水路を開き畿内(きない)に河を治めた河村瑞賢(かわむらずいけん)
五 博物学者としてもすぐれていた貝原益軒(かいばらえきけん)
六 関流算法(せきりゅうさんぽう)の祖と仰がれる関孝和(せきたかかず)
七 わが国に本草学(ほんぞうがく)を開いた稲生若水(いのうじゃくすい)
八 対島(つしま)全島の猪(いのしし)を狩尽(かりつく)した陶山訥庵(すやまとつあん)
九 湯熊灸庵(ゆくまきゅうあん)とあだ名せられた大医後藤艮山(ごとうごんざん)
一〇 荒川(あらかわ)・多摩川(たまがわ)・酒匂川(さかわがわ)を治めた田中丘隅(たなかきゅうぐう)
一一 師匠の墓の前で花の詩を読上げた松岡恕庵(まつおかじょあん)
一二 武士を捨てて町医者となった戸田旭山(とだきょくざん)
一三 日本全国に甘藷(かんしょ)を拡めた青木昆陽(あおきこんよう)
一四 乞食の病気まで見てやった御医師(ごいし)望月三英(もちづきさんえい)
一五 わが国で始めて人体を解剖した山脇東洋(やまわきとうよう)
一六 万病一毒の説を唱えた古方医家(こほういか)吉益東洞(よしますとうどう)
一七 農家から出た地理学の大家長久保赤水(ながくぼせきすい)
一八 二十三年間に二十三回稿本を書改めた三浦梅園(みうらばいえん)
一九 わが国洋学界の一大恩人前野蘭化(まえのらんか)
二〇 蘭化を助けて解体新書(かいたいしんしょ)を翻訳した杉田玄白(すぎたげんぱく)
二一 石の長者といわれた石の蒐集家(しゅうしゅうか)木内石亭(きのうちせきてい)
二二 戦術まで研究した地理学者古川古松軒(ふるかわこしょうけん)
二三 わが国電気学の祖平賀源内(ひらがげんない)
二四 世界的の大植物学者小野蘭山(おのらんざん)
二五 独学で西洋暦学(れきがく)を修めた麻田剛立(あさだごうりゅう)
二六 同心(どうしん)の子から暦学者となった高橋東岡(たかはしとうこう)
二七 質屋の主人で暦学者だった間長涯(はざまちょうがい)
二八 始めて日本の実測地図を作った伊能忠敬(いのうただたか)
二九 わが国砲術界の革新者阪本天山(さかもとてんざん)
三〇 大坂の生んだ博物学者木村蒹葭堂(きむらけんかどう)
三一 医術の修業に全国を漫遊した橘南谿(たちばななんけい)
三二 ロシア人までその名を知っていた桂川甫周(かつらがわほしゅう)
三三 一生に九回蝦夷地へ渡った最上徳内(もがみとくない)
三四 オランダ流の内科を興した宇田川槐園(うだがわかいえん)と同榛斎(しんさい)
三五 蘭学(らんがく)を拡めた大功労者大槻磐水(おおつきばんすい)
三六 始めてオランダ語の辞書を作った稲村三伯(いなむらさんぱく)
三七 寒中水泳まで試みた兵学者平山行蔵(ひらやまこうぞう)
三八 独力で星雲説を唱えた物理学者中野柳圃(なかのりゅうほ)
三九 命がけで眼科医術のために尽した土生玄碩(はぶげんせき)
四〇 北海の探検家で書誌学者だった近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)
四一 四十余歳でオランダ語を修めた帆足万里(ほあしばんり)
四二 太陽の黒点を観測した鉄砲鍛冶国友一貫斎(くにともいっかんさい)
四三 樺太(からふと)から東満州(ひがしまんしゅう)までも探検した間宮林蔵(まみやりんぞう)
四四 満州語まで研究した地理学者高橋景保(たかはしかげやす)
四五 通詞(つうじ)から幕府に召出された語学の天才馬場轂里(ばばこくり)
四六 辛苦の末に西洋医の大家となった坪井信道(つぼいしんどう)
四七 西洋の植物学や化学を伝えた宇田川榕庵(うだがわようあん)
四八 西洋兵学をわが国に取入れた鈴木春山(すずきしゅんさん)
四九 シーボルトの高弟として知られた岡研介(おかけんかい)
五〇 洋学者中で最も悲惨な最期を遂げた高野長英(たかのちょうえい)
五一 洋学者・科学者としての佐久間象山(さくましょうざん)
五二 農家から出て幕府の奥医師となった伊東玄朴(いとうげんぼく)

参考文献一覧
図版目次
後記
人名索引



森銑三 おらんだ正月 02



◆本書より◆


「永田徳本」より:

「徳本は、外へ出る時には、薬を入れた頭陀嚢(ずたぶくろ)を首に掛けて、牛の背にゆったりと跨(またが)って、「甲斐の徳本、一服(ぷく)十八文(もん)――」と、呼ばわりながら行くのでした。そして、どんな病人でも快く診(み)てやった上、一服の薬価として十八文だけ貰(もら)います。どのような難病を治(なお)しても十八文、どのような物持からでも十八文と極(き)めて、それ以上の礼は受取(うけと)ろうともしませんでした。」


「松岡恕庵」より:

「恕庵の生活は、それほど質素でしたが、そうかといって決して吝嗇(りんしょく)なのではありませんでした。役に立つ書物といえば、金を惜しまずに買いました。それでそれらを納めるための書庫を二棟(ふたむね)建てて、一つには日本の書物、一つには支那の書物を納めておいて、弟子達にも、自由にそれを見せました。
 恕庵は、学問に対してはたいへん熱心で、多くの書物に、綿密に目を通しましたが、ある時ケマンという花草(はなぐさ)が何かの書物に出ていないだろうかと長いことかかって探した挙句(あげく)に、東福寺(とうふくじ)で写した支那の書物の中に、その花を詠じた詩の出ているのを、ようように見つけ出しました。恕庵はたいへんよろこんで、「これは稲生先生にもお知らせして来たい。先生もこれだけは御存じなかったのだ」と、わざわざ先生のお墓へ出かけて行って、その詩を三度まで、高らかに読上げて帰りました。」



「木内石亭」より:

「石亭は、十一歳の頃から、もう石が好きだったと自分自身で書いていますが、それから七十年あまり、石を弄ぶことの外には何の楽しみも持たなかったのでした。変った石を採集するために、暇さえあれば旅行に出かけて、四十歳の時には、行きめぐった国々が、もう三十余箇国になっていました。その間には、石亭は木樵(きこり)について深山(しんざん)に分け入ったり、漁師と一緒に海へ出たりなどもしたのですが、なおも自分の行かれないところへは人を遣り、また諸国の弄石家にも頼みなどして集めたので、その持っている石は、二千余種類という夥(おびただ)しい数に上りました。」

「『雲根志』は、前篇、後篇、三篇の三部から成って、全体で十八冊にもなる大部な著述ですが、その中には、石に関することばかりが書いてあるのです。(中略)いろいろのめずらしい石の産地や形状なども載せてあって、専門家の参考になる上に、専門以外の誰が見ても、石についての面白い話が沢山出ていて、興味の深い書物となっています。 
 大坂の学者中井履軒(なかいりけん)は『雲根志』に序文を書いて、その中で、「石亭は、起きるのも寝るのも、行くも止まるも、何から何まで石と一緒だ。夢も石の夢より外は見ない」といっていますが、石亭は実際に、めずらしい石の夢を見て、やがてその石を手に入れたことなどもありましたので、そのことは石亭自身書いています。また近江の田上山(たがみやま)で道に迷って、思わぬ谷底へはいり込んで、そこで図らずも大きな水晶を拾ったことなどを記して、「これらは石が自分を導いてくれたのであろう」などとしています。」



「小野蘭山」より:

「しかし蘭山は、もともと好きで学問に志したので、それに依って出世を図ろうなどという気持は少しもありませんでした。それで二十五の歳に、丸太町(まるたまち)に家を持って、弟子を取って本草学を教えましたが、植物の採集に出かけるのを除いては、家から出るということがなく、宵(よい)の口の戌(いぬ)の刻(こく)(午後七時)には床に就き、真夜中の丑(うし)の刻(こく)(午前一時)には、もう起きて机に向います。それが冬となく、夏となく、数十年間に亙(わた)って少しも変るところがないのでした。」

「世間に類のない勉強家だった蘭山は、江戸へ来てからも、京都の頃と同じように、平日は家に閉籠ったままで、そこらをぶらぶら出歩くなどということは、ほとんどしませんでした。居間というのは六畳(じょう)の一間(ひとま)で、そこには書物が積上げてあります。薬品の類を、嚢(ふくろ)や筒(つつ)に入れたのが列(なら)べてあります。玉のかけらや、石やらが、ごろごろしています。草木の実や、根や、鳥の羽や、魚の鱗(うろこ)や、虫の類まどが置いてあります。盆栽(ぼんさい)が棚に列べてあり、押葉(おしば)が壁に掛けてあります。欄山はその間の足踏(あしぶみ)も出来ないようなところに、やっと坐って、一日中机に向って、読んだり書いたりしているのでした。」
「三度の食事も、その居間に持って来させて、好きな時に一人で勝手に食べるので、家の人達も、いつ先生が食事をせられるのか、知らずにいるような有様でした。それでも時に勉強に倦みますと、蘭山はまた一人で酒を飲んで、ほろ酔機嫌になって、そんな時には詩を作ったり、笛を吹いたりなどもするのでした。弟子の人々は、かような蘭山の暮し方を見て、「先生は、まるで仙人だ」といいました。
 蘭山は、まったく仙人のような、人間ばなれのした人でした。ある時、よその家へ招かれて行って、湯に入りましたが、湯殿(ゆどの)の中があまり静かなので、家の人が、「先生、加減はいかがでございますか」と、外から声を懸けましたら、蘭山は中で、「湯が熱いので、はいらずにいます」といいました。家の人はびっくりして、急いで水を填(う)めました。蘭山は、湯がひとりでにさめるのを待っているつもりだったのかも知れません。
 京都にいた蘭山の孫と、そのお嫁さんとは、後に江戸へ来て、おじいさんのお側(そば)に仕えていましたが、三年も立ってから、蘭山はお嫁さんに気がついて、そっと孫に、「見なれない御婦人がいられるようだが、あれはどういうお方かの」と聞いたということです。
 蘭山は、世間並のことには、それほど無頓着(むとんちゃく)な人でありましたが、それでいて学問のことになりますと、注意深い上に記憶がよくて、一度見たり聞いたりしたことは、一生忘れませんでした。」





こちらもご参照ください:

種村季弘 『不思議な石のはなし』
















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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