ジュール・ヴェルヌ 『海底二万里』 荒川浩充 訳 (創元推理文庫)

「そのとき、オルガンのかすかな和音が聞こえた。名状しがたい旋律のハーモニー、地上との絆(きずな)を断ち切ろうとするものの文字どおり魂の嘆きだった。わたしはほとんど呼吸も止め、全感覚を集中して耳を傾けた。船長をこの世とは別の世界へと連れ去っている音楽の恍惚のなかに、わたしも深々と沈んだ。」
(ジュール・ヴェルヌ 『海底二万里』 より)


ジュール・ヴェルヌ 
『海底二万里』 
荒川浩充 訳
 
創元推理文庫 五一七 4 

東京創元社
1977年4月22日 初版
1990年6月15日 再版
549p
文庫判 並装 カバー
定価780円(本体751円)
カバー絵・插絵: 南村喬之



Jules Verne: Vingt mille lieues sous les mers, 1869

挿絵(モノクロ)15点。地図。


ヴェルヌ 海底二万里


「1866年、その怪物は大海原に姿をみせた。長い紡錘形の、ときどきリン光を発する、クジラより大きくまた速い怪物だった。それはつぎつぎと海難事故を引き起こしていく。パリ科学博物館のアロナックス教授は、究明のため太平洋に向かったが、彼を待ち受けていたのは、反逆者ネモ船長が指揮する潜水艦ノーチラス号だった! 暗緑色の深海を突き進むノーチラス号の行く手に展開するのは、驚異と戦慄の大冒険スペクタクル! ジュール・ヴェルヌ不朽の名作、堂々登場!」


目次:

第1部
 1 動く暗礁
 2 賛否両論
 3 ご主人さまのお好きなように
 4 ネッド・ランド
 5 盲滅法に!
 6 全速力
 7 未知の種のクジラ
 8 動中の動
 9 ネッド・ランドの怒り
 10 海の男
 11 〈ノーチラス〉号
 12 すべて電気で
 13 数字を少々
 14 黒潮
 15 招待状
 16 平原の散歩
 17 海底の森
 18 太平洋下四千里
 19 バニコロ島
 20 トレス海峡
 21 陸上での数日間
 22 ネモ船長の雷
 23 不快な眠り
 24 サンゴの王国

第2部
 1 インド洋
 2 ネモ船長の新しい提案
 3 一千万フランの真珠
 4 紅海
 5 アラビアン・トンネル
 6 ギリシア諸島
 7 地中海四十八時間
 8 ビーゴ湾
 9 消えた大陸
 10 海底の炭坑
 11 サルガッソ海
 12 マッコウクジラとナガスクジラ
 13 氷床
 14 南極
 15 事故か突発的な事件か
 16 空気の欠乏
 17 ホーン岬からアマゾン川へ
 18 タコ
 19 メキシコ湾流
 20 北緯四七度二四分、西径一七度二八分
 21 大殺戮
 22 ネモ船長の最後のことば
 23 結び

訳者あとがき




◆本書より◆


「「教授」と船長はきっぱりと答えた。「わたしは、あなたが文明人と呼ぶものではありません! わたしは人間社会全体と絶縁しました。わたしだけにしか理解できない、いくつかの理由によってです。ですから、わたしは人間社会の規則には従いません。わたしの前にそういう規則を絶対に持ち出さないように願います!」」

「「人間が自由と信じている、あの耐えがたい地上の束縛を諦めることは、たぶんあなたがたが考えていらっしゃるほど苦しいことではないでしょう!」」

「「海がお好きなのですね、船長」
 「ええ! 好きですとも! 海はすべてです! 地表の十分の七が海です。海の呼吸は清らかで健康的です。海は、人間が決して一人ぼっちになることのない広大な砂漠です。自分の近くに生命が息づいているのを感じられるのですから。海は超自然的で驚異的な生活の演じられる場所にほかならないのです。海は活気と愛です。あなたのお国の詩人が言ったように、生命をもつ無限です。(中略)海は、自然の巨大な貯蔵庫なのです。地球も、言ってみれば海から始まったのです。終わるのも海によってではないと誰が断言できるでしょうか? 海には崇高な静寂があります。海は専制君主に属してはいません。海面でこそ、専制君主も邪悪な権利を行使し、争い、むさぼり合い、陸地のおぞましいものを持ち込むことはできます。しかし、海面下三十フィートでは、彼らの権力も及ばず、彼らの影響力も消え、勢力も雲散霧消してしまいます! ああ、教授、海のなかで生きることをお勧めします! 独立があるのは海のなかだけです! (中略)海のなかで、わたしは自由なのです!」」

「書棚は、あらゆる国のことばで書かれた、科学、倫理学、文学の書物で満ちていた。しかし、政治経済に関する著作は一冊も見あたらなかった。この船内からは厳しく締め出されているらしかった。珍しい点は、書かれている言語の相違を無視して分類されていることだった。」

「「船長」とわたしは答えた。「あなたがどういう人物か知りたがるわけではありませんが、あなたは芸術家でもあると考えてもいいものでしょうか?」
 「せいぜい芸術愛好家です、教授。昔はわたしも、人間の創造した美しい作品を蒐集するのが好きでした。(中略)この美術品は、わたしにとっては死んでしまった陸地の最後の記念品です。わたしの目から見ると、近代の芸術家も、もう古代の芸術家と何ら変わるところはありません。いずれも二、三千年の生命を保っているのです。両者はわたしの心のなかでは入りまじっています。すぐれた芸術家には年齢というものがないようです」」
「「あの音楽家たちも」とネモ船長は答えた。「オルフェウスと同時代の人々です。年代の差異など死者の記憶のなかでは消えてしまいますから。――わたしは死んだのです、教授、地表から数フィートの場所に眠っているあの陸上の友人たちと同じように!」」

「「ただ、このことは記憶しておいてください。わたしはすべてを海から得ている、海は電気を産み、電気は熱と光と動力を、一語で言うなら生命を、〈ノーチラス〉号に与えているのです」」

「わたしは斧足類の糸で織った服を身につけた。(中略)地中海沿岸にきわめて多い貝の一種である《ジャンボノー》が岩に張りつくのに役立っている、絹のようで光沢のある繊維で織ってあるのだ(中略)。この繊維は非常に柔らかく、かつ暖かいからだった。」
「その日から、わたしは冒険の日記を書き始めた。(中略)わたしが書くのに使った紙はアマモで作ったものだった。」
「わたしは料理に手をつけた。料理は、種々の魚、ナマコの薄切り、後皿としてポルフィリア・ラキニアタ、ラウレンシア・プリマフェティダなど非常に食欲を増す海藻であった。飲物としては、船長のするとおりに、わたしも透明な水に数滴のリキュールを加えた。このリキュールは、《ロドメニ・パルメ》という名で知られている海藻をカムチャッカ式に発酵させ抽出したものである。」

「船室にもどろうとすると、ネモ船長が近寄って来て、前置きなしに話しかけた。
 「この広い海をご覧なさい、教授。この海は生命をもっているようではありませんか? 怒ったり愛情を示したりしないでしょうか? 昨夜、海はわたしたちと同じように眠っていました。そして今、穏やかな夜の後に目を覚ましているのです!」
 「おはよう」も「おやすみなさい」もなしだった! この奇妙な人物は、ずっと話しつづけていたような調子だった。
 「ご覧なさい」とまた船長は言った。「太陽に愛撫されて目覚めようとしています! 海は昼間の生活を始めようとしているのです! 海の機能の動きを追求することは、興味深い研究です。肺臓も動脈もあり、痙攣することもあります。動物の血液循環系と同じように明瞭な循環が海にあることを発見した科学者モーリーは正しかった、とわたしは思うのです」」
「「滴虫類は」とまた話し始めた。「すなわち極微生物は、一滴の水のなかに数百万存在し、八十万匹集まって一ミリグラムになるくらいですが、その役割の重要さは小さいものではありません。彼らは塩分を吸収し海水中の固体要素を同化して、石灰質の陸地の生成者としてサンゴ礁やミドリイシを作り出します! 一方、鉱物質を奪われた海水は、軽くなって海面に上昇し、そこで蒸発によって残った塩分を吸収して重くなり、再び下降して極微生物に新たな食物をもたらすのです。それにより、上昇と下降の二重の流れが生じ、絶えず動きがあり、絶えず生命があるのです! 地上よりもはるかに充実し豊饒な無数の生命が、この大洋のあらゆる部分で開花しているのです。人間にとっては死の部分であり、巨万の生物にとって――そして、わたしにとっても――生の部分である、この大洋で!」」

「「野蛮人ですと!」と船長は皮肉な口調で答えた。「教授、この地球の陸地の一つに上陸して、そこに野蛮人がいたからといって驚いているのですか? 野蛮人がいないところがありますか? それに、そういう野蛮人たちよりも、今あなたがそう呼んだものたちのほうが悪い人間でしょうか?」
 「しかし、船長……」
 「わたしに言わせていただければ、わたしはあらゆるところで野蛮人に遭遇しました、教授」」
「船長の指は鍵盤の上を走っていた。船長が黒い鍵盤にしか触れず、そのためにメロディーがスコットランドふうの調子を帯びることにわたしは気づいた。やがて船長はわたしがそこにいることも忘れ夢想に沈んでしまったので、わたしもそれを乱そうとはしなかった。」

「「あれが、海面下数百フィートにある、わたしたちの静かな墓地なのです!」
 「あの墓地で、あなたの仲間の死者たちは、穏やかに、サメに襲われることもなく眠っているのですね!」
 「そうです、教授」と船長は重々しく答えた。「サメからも、人間からも襲われることなく!」」

「人間社会に対する激しく執拗な不信感は、依然として不変だった。」

「「教授、あのインド人は圧迫された国の人間です。わたしはまだ、いや最後の息を引きとるまで、そういう国の味方であるつもりです!」」

「それは肖像画――人類の大きな理想に全生涯を捧げ尽くした歴史上の偉人の肖像画だった。(中略)そして最後は黒人解放の殉教者ジョン・ブラウンがビクトル・ユゴーの筆によって恐ろしくも描き出されたように絞首台からぶら下がった絵だった。
 これらの英雄的な魂の持ち主とネモ船長の魂との間には、どんなつながりがあるのだろうか? (中略)船長は圧迫された人民の戦士、奴隷の解放者なのか?」

「ときどき、船長が巧みに奏するオルガンのメランコリックな音が響くのを聞くことがあった。しかし、それは夜だけで、〈ノーチラス〉号が船影のとだえた暗くひっそりした大洋のなかで眠り込んでいるときだった。」

「想像できようが、もしネモ船長が〈ノーチラス〉号を使って報復しようとしたならば、実に恐ろしいことになる! (中略)今や諸国家は、彼がどういう人物かはわかっていないだろうが、連合して彼を追っているのだ。もはや空想上の存在としてではなく、自分たちに不倶戴天の憎悪を抱いている人間として!」

「「ああ! わたしが誰か知っているのか、呪われた国の船よ! (中略)見るがいい! わたしの旗を見せてやろう!」
 ネモ船長は、南極点に立てた旗に似た黒い旗を、甲板の先端に立てた。」

「「わたしは抑圧された人間で、あそこにいるのは抑圧する人間です! わたしが愛し、慈しみ、尊んだものすべて、祖国も妻も子も父も母も、あのもののために滅びるのを、わたしは見たのです!」」





こちらもご参照ください:

『ジェームズ・アンソール展』 (神奈川県立近代美術館 1972年)
メルヴィル 『白鯨 上』 阿部知二 訳 (岩波文庫)
イタロ・カルヴィーノ 『木のぼり男爵』 米川良夫 訳 (白水Uブックス)
































































































































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尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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