摩寿意善郎 『イタリア美術史論集』

摩寿意善郎 
『イタリア美術史論集』


平凡社
1979年7月13日 初版第1刷
vii 483p
菊判 丸背クロス装上製本 貼函
定価5,800円



本書「あとがき」より:

「これは、(中略)生前の摩寿意先生が各種の出版物に執筆された論文の中から、主要なものを選択しまとめたものであります。編集の任には、辻茂、佐々木英也、陰里鉄郎、若桑みどりの四人が当りました。全体の統一のために、タイトルの多少の変更や、用語と表記の統一、不要部分の削除等、最小限の変更を行ないましたが、文章そのものの内容には、明らかに必要と判断される訂正箇所のほかには手を加えることを慎みました。」
「第Ⅰ部には、全時代にまたがるイタリア美術の概説として、主に美術全集の類に発表されたものを、内容の重複を避けて選択し、時代の順に配列しました。(中略)厳密にいえば時代や地域や種類で欠如する部分も生じましたが、結果的にはおおよそ全時代を通じてイタリア美術を概観できるものとなりました。」
「第Ⅱ部には、各種の雑誌や刊行物に発表された研究論文を収録しました。」
「第Ⅲ部には、新聞その他に寄稿された鑑賞を主眼とする比較的短い作品解説を集めて収録しました。」



本文中図版(モクロ)152点。


摩寿意善郎 イタリア美術史論集 01


目次 (初出):

摩寿意善郎教授の学風をしのんで (吉川逸治)

Ⅰ イタリア美術史総説
 ローマ美術 (1962年 講談社 「世界美術大系」第六巻「ローマ美術」所収(原題・ローマ美術序説)
 初期キリスト教の美術 (1964年 講談社 「世界美術大系」第一三巻「イタリア美術」所収)
 イタリアの中世美術 (1964年 講談社 「世界美術大系」第一三「イタリア美術」所収)
 イタリアの中世彫刻・絵画 (1954年 平凡社 「世界美術全集」第一三巻「西洋中世Ⅱ」所収)
 十五世紀のフィレンツェ絵画 (1971年 学習研究社 「大系世界の美術」第一三巻「ルネサンス美術 イタリア十五世紀」所収(原題・フィレンツェの絵画)
 十六世紀のイタリア美術 (1972年 学習研究社 「大系世界の美術」第一四巻「ルネサンス美術 イタリア十六世紀」所収)
 十八世紀のイタリアの絵画 (1954年 平凡社 「世界美術全集」第一九巻「西洋十八世紀」所収
 十九世紀イタリアの絵画 (1953年 平凡社 「世界美術全集」第二三巻「西洋十九世紀Ⅱ」所収)
 イタリアの現代絵画 (1954年 日伊協会 「日伊文化研究」第一号所収

Ⅱ ルネッサンス美術各論
 イタリア美術におけるルネサンス概念の展相 (1969年 日伊協会 「日伊文化研究」第一〇号所収)
 マサッチオ=マソリーノ問題の再検討 (1960年 「美学」第四一号所収)
 フィレンツェの画家ボッティチェルリ (1976年 集英社 「世界美術全集」第四巻「ボッティチェルリ」所収)
 ボッティチェルリの『神曲』挿絵 (1966年 日伊協会 「日伊文化研究」第七号所収)
 ラファエルロ・サンツィオ (1951年 平凡社 「世界美術全集」第一七巻「ルネサンスⅡ」所収)
 フィレンツェ大聖堂――サンタ・マリア・デル・フィオーレ (1974年 小学館 「フィレンツェの美術」第一巻所収)

Ⅲ 名作鑑賞――マドンナとヴィナス
 「マドンナ」十選 (1976年 日本経済新聞五月一〇~二二日
  一 チマブーエ 聖母子(マエスタ)
  二 ドゥッチオ ルチェライの聖母(マエスタ)
  三 ジォット 聖母子
  四 シモネ・マルティーニ 聖母子
  五 マサッチオ 聖母子
  六 フィリッポ・リッピ 聖母子
  七 ボッティチェルリ 柘榴の聖母
  八 レオナルド・ダ・ヴィンチ 聖アンナと聖母子
  九 ミケランジェロ 聖家族
  一〇 ラファエルロ 美しい女庭師
 「受胎告知」
  シモネ・マルティーニ (1968年 日本経済新聞一一月一九日)
  フラ・アンジェリコ (1959年 平凡社 「世界名画全集」第四巻「イタリア ルネサンスの開花」所収)
  チーマ・ダ・コネリャーノ (1971年 日本経済新聞五月二八日)
  ボッティチェルリ (1972年 小学館 「フィレンツェの美術」第四巻所収)
 マサッチオの〈三位一体とマリアおよび聖ヨハネ〉 (1974年 小学館 「フィレンツェの美術」第一巻所収)
 フィリッポ・リッピの〈聖母子〉 (1959年 平凡社 「世界名画全集」第四巻「イタリア ルネサンスの開花」所収)
 ボッティチェルリの「聖母」 (1972年 小学館 「フィレンツェの美術」第四巻所収)
 ミケランジェロの「聖母」
  ロンダニーニのピエタ (1973年 日本経済新聞一一月二七日)
  聖家族 (1972年 小学館 「フィレンツェの美術」第五巻所収)
 ラファエルロの「聖母」 (1972年 小学館 「フィレンツェの美術」第五巻所収)
 「ヴィナス」
  パルマ・イル・ベッキオ (1974年 日本経済新聞八月二三日)
  ジォヴァンニ・ベルリーニ (1975年 日本経済新聞一一月二一日)
  ボッティチェルリ (1972年 小学館 「フィレンツェの美術」第四巻所収)
 ピエロにまつわる想い出 (1967年 美術出版社 別冊「みづゑ」五〇号所収)

著者年譜
収載論文初出目録
あとがき



摩寿意善郎 イタリア美術史論集 02



◆本書より◆


「フィレンツェの画家ボッティチェルリ」より:

「一四七八年の四月に、メディチ家の暗殺をはかったパッツィ家の陰謀事件が、フィレンツェ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ内でのミサの最中に起こった。この暗殺事件は結局はジゥリアーノ・デ・メディチを凶刃に倒しただけで、兄のロレンツォ・イル・マニーフィコは助かり、陰謀は失敗に終った。市民の同情はメディチ家に集まり、犯罪者たちは捕えられて首をくくられ、市政府パラッツォ・ヴェッキオの高窓から投げ出され、政庁前広場で絞首刑に処せられた。この処刑のありさまを、後世へのみせしめのため、ヴィア・デ・ゴンディ通りのドガーナの入口の上の壁面に描き残す仕事が、詩情ゆたかな《プリマヴェーラ》の画家ボッティチェルリに命ぜられることになった。このことは、すでにボッティチェルリがメディチ家と深い関係にあったこと、そして当時の彼の伎倆が一般に認められていたことを物語っている。とはいえ、彼にとっては最も苦手な仕事であったに違いない。
 しかし、この仕事は名誉をともなう公的性質のものであり、当時としてはまだ自然研究の意欲を燃やしていた彼はそれを進んで引き受け、制作にあたっては、半世紀ほど前に「絞首刑囚の画家アンドレア少年」と綽名をつけられた厳しい写実主義者のアンドレア・デル・カスターニョが、パラッツォ・デル・ポデスタに描き残していたアルビッツィ家陰謀者処刑図をつぶさに研究したに違いない。ボッティチェルリはこのパッツィ家陰謀者処刑図のために、その年の七月二一日にフィレンツェ政庁から報酬を受けている。その壁画は、一四九四年一一月にメディチ家が失脚したとき、カスターニョの壁画とともに反対派によって破壊されたので、成果は解らないが、ボッティチェルリに及ぼしたカスターニョの影響の跡は、彼が翌々年の一四八〇年にフィレンツェのオンニサンティ聖堂にドメニコ・ギルランダイオの《書斎の聖ヒエロニムス》と競作して描いた《書斎の聖アウグスティヌス》の壁画にも見いだされる。」

「ボッティチェルリは生涯の間ついに結婚しなかった。『アノーニモ・ガッディアーノ草稿』によれば、あるとき彼は結婚を勧めたトンマーソ・ソデリーニに対し、次のように答えたという。自分はかつて妻を娶った夢を見たが、そのとき非常に悩まされて眼が覚めた。そこで再びそうした夢を見まいとして、そのまま起き出て、まるで狂人のように一晩中フィレンツェの街を歩き廻ったというのである。(中略)ハーバート・ホーンは、ボッティチェルリの名が一度も女性の名と関係しなかったことや、彼がそのほとんど全生涯を独立せずに両親の家で過ごしたことなどを挙げて、ボッティチェルリの純潔を主張する立場に立っており、この結婚の夢の話も、さながら彼が女性に対して僧侶のような超俗的な感情をもっていたかのように解釈している。
 ボーデもまた、この逸話に触れて、「サンドロをはじめ、ルカ・デルラ・ロッビアやドナテルロやレオナルドやラファエルロのような生涯に結婚しなかった芸術家によって魅力ある聖母が描かれたのは、たしかに特色ある現象というべきで、これは女性を所有するよりも女性に対して憧憬をいだく方が、より強くこれらの芸術家の表現能力を高めたことに、多かれ少なかれ拠るものである」と言っている。」
「ボッティチェルリのような感受性が強く抑制心の弱い人間にとって、一四〇〇年代後半のフィレンツェ社会の異教的な風潮が極めて誘惑的であったことは想像に難くない。しかも当時の人文主義者たちの間では、結婚は精神の自由にとっての束縛であるとして、独身生活の自由と放恣とを求めることが一つの風潮にさえなっていたのである。したがって(中略)彼を聖者的存在にまで引き上げて解釈するよりは、むしろこうした卑近な所に理由を見いだした方が、何か彼には適切のように思われる。しかし彼には純潔への強い欲求もあって、それが彼を官能的世界に浸り切るのを許さず、彼の内奥においてはこの両者が闘っていたように思われる。」



「ボッティチェルリの『神曲』挿絵」より:

「ボッティチェルリは、ダンテよりは約二世紀ほど後の、十五世紀の後半に活躍した初期ルネッサンスのフィレンツェ派の画家でありまして、当時の写実主義の主流の中に育ちながら、本質的には写実主義を犠牲にして、独自の叙情詩的な画風を推し進めたふしぎな画家であります。また、当時のフィレンツェ政界に君臨していたメディチ家の保護を受け、そのメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニーフィコを中心にして集っていたアンジェロ・ポリツィアーノなどの、人文主義の古典派の詩人たちから鼓吹されて、《プリマヴェーラ》や《ヴィナスの誕生》のような、異教的な主題をしばしば扱いました。しかし、その心の奥底には中世的なキリスト教主義の禁欲思想が底流しておりましたため、裸体のヴィナスを描くと、罪の意識におののく不思議な姿となり、また、聖母マリアを描くと、官能におののく憂いを含んだ姿となって現われました。
 そうした彼の中年から晩年にかけての時代に、フィレンツェのサン・マルコ修道院長に、ジローラモ・サヴォナローラという極めてピューリタンな僧侶が赴任してきまして、当時のメディチ家を中心とするフィレンツェ社会の頽廃した風潮を慨嘆いたし、「今にしてフィレンツェの人々が悔い改めないと、天罰が来る」と、はげしい預言者的な弁舌で、辻々に立って説教をはじめたのであります。」
「ボッティチェルリは、(中略)このサヴォナローラの激しい預言者的な説教に魅せられ、その画風は次第に神秘的な傾向を帯びるようになりました。ボッティチェルリが二度目にダンテの『神曲』の挿絵を描き始めたのは、恐らくこのころで、それに熱中しましたために、ついに造形芸術家としては自滅する道を歩むことになりました。」

「ボッティチェルリの線も、一人の人物の敏速な二つの継続的動作を表現することはできませんでした。従って彼は、顔を迅速に振り向ける動作を表わすために、たとえば「地獄篇」第三歌の挿絵にみられますように、しばしば一人の人間に二つの頭を描いたのであります。(中略)賢明な遣り方でもあり、興味深いものでありますが、しかし原典に忠実ならんがために造形芸術の写実の法則を無視したものでありまして、こうした手法は、ボッティチェルリの晩年の non-plastic な、非造形的な傾向を示すものであります。実に当時の彼は、その精神主義と神秘主義のために、芸術の表現し得る可能性を無理に曲げ、その固有の限界を越えて超現実の方向に進んだのであります。
 しかも晩年のこうした non-plastic な傾向は、この《神曲》挿絵によって一層拍車をかけられたのであります。ボッティチェルリはこの挿絵において、動きにみちた多数の小さい劇的人物を、狭い限られた画面に衝動的にとらえることに慣れたため、その筆致はあまりにも急わしいものとなり、従ってまた、大きい人物を描くこともますます困難となって、もともと非造形的な性質をもっていた彼の芸術は、ますます非造形性を強めることとなり、(中略)ついに彼の芸術は造形的に自滅するに至ったのであります。」





こちらもご参照ください:

石鍋真澄 『聖母の都市シエナ ― 中世イタリアの都市国家と美術』
佐々木英也 『マザッチオ ― ルネサンス絵画の創始者』




















































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本