高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇 ― 芸術と精神風土』 (中公文庫)

「それにしても、自分が「最も望ましからぬ気質」で、「最も悪い星」の下に生まれたというのは、もちろん面白いことではない。そこでフィチーノは、この「最も悪いもの」を「最も良いもの」に変える大きな価値転換をやってのけたのである。ちょうどトランプでスペードのマイナス点を全部集めた者はいっきょにすべてがプラスに転換し得るように、諸性の中で悪いところばかり集めている憂鬱質も、まさにその故に、時に優れた存在になり得るということを説いたのである。」
(高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇』 より)


高階秀爾 
『ルネッサンスの光と闇
― 芸術と精神風土』
 
中公文庫 M335

中央公論社
昭和62年3月25日 印刷
昭和62年4月10日 発行
416p
文庫判 並装 カバー
定価560円
カバー画: ボッティチェルリ《ヴィーナスの誕生》


「『ルネッサンスの光と闇』昭和四十六年四月 三彩社刊」



本文中図版(モノクロ)172点。


高階秀爾 ルネッサンスの光と闇 01


カバー裏文:

「人間性の開放と現実世界の肯定という明るい光の部分の裏側に、世界の終りに対する恐れ、死の執念、混乱と破壊への衝動、破滅へのひそかな憧れ、非合理的幻想世界への陶酔といった別の一面を持つルネッサンス……。ボッティチェルリの《春》や、ヴァティカン宮殿の署名の間、メディチ家の礼拝堂といった傑作を輩出したその精神的風土と芸術のからみあいを、多数の挿図とともに明快に説き明かす好著。」


目次:

序文

第一部 サヴォナローラ
 第一章 虚飾の焼却
 第二章 偽預言者
 第三章 世界の終り
 第四章 神秘の降誕
 第五章 最後の聖体拝受

第二部 メランコリア
 第六章 華麗なる保護者
 第七章 カレッジのアカデミア
 第八章 パンの饗宴
 第九章 四性論
 第十章 考える人

第三部 愛と美
 第十一章 三美神
 第十二章 貞節・愛・美
 第十三章 キューピッド
 第十四章 宇宙的オクターブ
 第十五章 西風との出会い
 第十六章 生命復活の祭儀

第四部 二人のヴィーナス
 第十七章 ヴィーナスの誕生
 第十八章 聖愛と俗愛
 第十九章 騎士の夢
 第二十章 女神と娼婦

第五部 神々の祝祭
 第二十一章 パルナッソス
 第二十二章 純潔と愛欲の争い
 第二十三章 婚姻記念画
 第二十四章 神々の祝祭
 第二十五章 バッカナーレ
 第二十六章 ヴィーナスの礼拝

あとがき
文庫版あとがき
参考文献
図版目録
人名索引



高階秀爾 ルネッサンスの光と闇 02



◆本書より◆


「第九章」より:

「四性論というのは、あらためて説明するまでもなく、人間の体内を流れる四種の液体のバランスによって人間の気質が定まると考えるもので、それは同時に、アリストテレスによって確立された物質の本性である冷と熱、乾と湿の四つの組合わせである四大(大地、水、火、空気)や、春夏秋冬の四季や、東西南北の四方や、夜明け、昼、夕暮、夜の一日の四つの時や、少年、青年、壮年、老年の人間の一生や、その他さまざまなものと結びついて、当時の人間観、世界観の根本を形づくっていたものである。」
「中世末期からルネッサンスにかけて、広く流行したこの四性論の挿絵の中で、きわだった特徴は、憂鬱質の人間はほとんどつねに片手を頬にあてて、物想いにふける恰好を示していることである。例えば、ごく通俗的なものとして、十五世紀後半に作られた「四性」をあらわす木版画を見てみると、ちょうど日本の花札を思わせるような縦長の四つの画面にそれぞれ四人の人物がいて四性をあらわし、その下の方に、それぞれの気質の特徴を述べた説明がつけられている。そして、四人ともそれぞれの気質にふさわしいポーズや、動作や、附属品を示している。」
「一番左の端の鷹狩りをしている若者は、「サングィネウス」、すなわち多血質で、したがってこの気質にふさわしく、若々しく、行動的である。彼の足許に雲と星が見えるのは、空、つまり四元素のうちの空気に対応することをあらわす。
 二番目の、大きな青竜刀のようなものをふり上げているのは、「コレリクス」、すなわち胆汁質で、服装も多血質の若者よりやや大人びており、足許には火を踏まえている。胆汁質は、(中略)すぐかっとして逆上し易い性質を持っている。ここで彼が刀を振り上げているのはそのためであるし、その上御丁寧に腰にはもう一本、別の短剣をぶらさげている。」
「第三番目の気質は、珠数のようなものを持って「水」の中に立っている「フレンマティクス」、すなわち粘液質である。粘液質と水との結びつきはきわめて深く、普通粘液質の人は酒飲みだということになっている。
 そして最後に、「メランコリクス」、すなわち憂鬱質が来る。彼は大地の上に立って、片手を頬にあて、もう一方の手に財布をしっかりと握っている。(中略)というのは、「冷たくて乾いている」憂鬱質は、その性質上、しばしば守銭奴としてあらわされるからである。そして、最初のふたつの「暖い」気質が若々しく行動的であるのに対し、あとのふたつの冷たい気質は、年老いて非活動的であり、その中でも憂鬱質は、頬杖をついてぼんやりしていることから明らかなように、最も怠け者なのである。
 頬杖をついた憂鬱質というこのポーズは、ルネッサンス盛期にいたっても、ずっと利用されている。おそらく誰しもがただちに思い浮かべるのは、一五一四年に作られたデューラーの有名な銅版画《メレンコリア・Ⅰ》であろう。」
「差当ってここでは、この「メランコリア」もまた、何もしないで座ったまま、じっと頬に手をあてて沈思黙考していることを指摘すれば足りる。」
「もともと古代ギリシアから伝えられた四性論の考え方では、憂鬱質は四性の中では最も悪い性質である。すでに見たように、四性は冷熱(または寒暖)と乾湿の四つの組合わせに対応する。このうち、熱と湿とは生命の活動にとって都合のよい状況であり、したがって望ましいものである(このような考え方の背後には、明らかに、植物の生育に必要な高温多湿の気候を望む農耕社会特有の価値観が働いているが、詳しいことはここでは触れない)。したがって、温かくて湿っている多血質が人間にとって最も望ましい気質であり、(中略)冷たくて乾いている憂鬱質というのは、逆に最も良くない状態ということになる。(中略)憂鬱質ばかりは悪いところばかりを集めた救い難い存在というわけである。事実、十五世紀中葉までの四性論では、そのような価値づけが当然のことであった。それなればこそ、先に例に引いた木版画やその他の例に見るように、憂鬱質は何ら生産的な仕事をしない「怠け者」であり、冷酷な「守銭奴」としてあらわされるのが普通だったのである。
 このように悪いことずくめの憂鬱質に、逆に積極的な価値づけを与えたのは、ここでもマルシリオ・フィチーノであった。
 フィチーノは、彼自身もともと生まれつき身体が弱く、したがって多くのルネッサンス人のように自由奔放に行動することができず、しかも、気質から言ってはっきりと憂鬱質であった。フィチーノが生まれたのは、彼自身友人に宛てた手紙で語っているところによると、

  「一四三三年の十月十九日のことで、医者であった父親は時刻を記録するのを忘れたが、父や母の言うところから考えて、宵の二十一時のことであった……」

という。この日付け(秋)と時刻(宵の口)は明らかに憂鬱質のものであり、しかも後にフィチーノ自身が占星術によって占ったところによると、この日時は星辰すべてがサテュルヌス(土星)の支配のもとに最も望ましからぬ結びつきを示した時であって、この「星の下に生まれた」人の子は、きわめて不幸な運命を背負っているのだそうである。」
「フィチーノ自身認めているように、彼はサテュルヌスの星(土星)の支配下にあるわけだが、この土星は、当時知られていた惑星の中では最も太陽から遠く、したがって「冷たくて乾いている」星であった。つまり、土星の神であるサテュルヌスは、同時に四元素の中の大地を支配する神であり、四性の中の憂鬱質と結びつく神であった。」
「以上見たところから明らかなように、サテュルヌスの支配する憂鬱質は、どう考えても良いところのない気質で、フィチーノもそれを自覚して、しきりと音楽や読書で自己の「悪しき性質」を改めようとした。孤独で非活動的な音楽や読書が憂鬱質の治療法として有効であることは、古くから知られていたからである。しかし、それにしても、自分が「最も望ましからぬ気質」で、「最も悪い星」の下に生まれたというのは、もちろん面白いことではない。そこでフィチーノは、この「最も悪いもの」を「最も良いもの」に変える大きな価値転換をやってのけたのである。ちょうどトランプでスペードのマイナス点を全部集めた者はいっきょにすべてがプラスに転換し得るように、諸性の中で悪いところばかり集めている憂鬱質も、まさにその故に、時に優れた存在になり得るということを説いたのである。
 フィチーノにとってその手がかりとなったものは、アリストテレスの『プロブレマータ』の中の一節である。(中略)アリストテレスは、生まれながらの憂鬱質は、正常なバランスを欠いた存在である故にしばしば狂気や愚行に走るが、しかし「まさにその故に」、時に正常の人間の水準をはるかに越える存在にもなり得ると説いて、その異常さをうまく働かせることに成功すれば、常人のとても及ばない偉大なことを成就し得ると考えたのである。

  「すべて真に衆に抜きん出た人々は、それが哲学においてであろうと、(中略)詩や芸術においてであろうと、いずれも憂鬱質の人間である――そして彼らのある者は、その程度があまりにひどいので、黒胆汁の作用による病疾に悩むことも珍しくない……」

というアリストテレスの一節は、フィチーノにとって、大きな慰めであった。すなわち、憂鬱質は、正常なバランスを欠いた気質の持主である故に、とんでもないことも仕でかすかわりに、常人ではできない創造的事業も果すことができる。それ故に、それは創造的才能と結びつき得るものなのである。
 デューラーの《メレンコリア・Ⅰ》には、すでにそのような価値転換がはっきりと見られる。なるほど、憂鬱質を象徴する女性は、頬杖をついてはいるが、それはもはや眼を閉じた怠け者の姿ではなく、きらきら輝くその眼差しに明瞭にあらわれているように、その頭脳は厳しい思索に耽っている。すなわち、彼女は強い知的活動に従事しているのである。(中略)彼女は自己の思索に没頭して、地上の富のような俗世間のことはすっかり忘れている。そしてそのことが、彼女を平常の人間の水準以上に高めるものであることは、彼女がただの人間ではないしるしとして翼をつけていることからも、明らかと言える。つまりここでは「メランコリア」は、その知的、創造的活動故に、人間を越える存在にまで高められているのである。」





こちらもご参照ください:

クリバンスキー/パノフスキー/ザクスル 『土星とメランコリー』 田中英道 監訳
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)












































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本