『林達夫著作集 6 書籍の周囲』

「それにしても、誤解の天才ってやつ、これ何でしょうね。誤解したやつほどいい仕事している。」
(林達夫 「解説対談」 より)


『林達夫著作集 6 
書籍の周囲』

久野収 花田清輝 編集

平凡社
1972年1月20日 初版第1刷発行
1977年6月1日 初版第6刷発行
ix 457p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装(フランス表紙) 貼函
定価1,000円
装丁: 原弘

付録「研究ノート 6」(24p):
わが園をたがやす人(佐々木基一)/ホモ・ドラマティクス(高階秀爾)/一つの後悔(森有正)/林さんのサジェスチョン(尾崎宏次)/待つことのできる人(谷川健一)/図版(モノクロ)2点



本書「解題」より:

「本第六巻では、書籍、映画、演劇、笑いなどを素材にした文化論と、一九三〇年に『東京朝日新聞』「オベリスク」欄に執筆されたものを三章に分けて収録した。」


本書「校訂について」より:

「本著作集の底本には、原則として、評論集に収められたものについては、最初に出版された評論集を用いた。それ以外の論文については、初出の紙誌、書物によった。ただし、本著作集の刊行にあたって、幾つかの論文に、著者自身の手によって、若干の加筆訂正が施された。
 旧かなづかい、旧字体で書かれたものは、新かなづかい、新字体にあらためた。難解な漢字は、あるものは主として現代の慣用に従って、かな、または平易な漢字にあらため、あるものにはルビを付した。固有名詞の表記も、(中略)現代の慣用表記に統一した。」



全六巻。


林達夫著作集


目次 (初出):


書籍の周囲 (「思想」49、50、59号 岩波書店 1925年11、12月号、1926年9月号/「読売新聞」 1923年6月23、24、28、29、30日号)
 序に代えて
 一 文献学者 失われた天主教文化
 二 辞書について
 三 翻訳をいかに読むべきか
 四 聖者の顔
小説読者論 (「思想」200号 岩波書店 1939年1月号)
読書人のための書物の歴史 (「図書」復刊1号、3、4号 岩波書店 1949年11月号、1950年1、2月号)
本のもう一つの世界 (「展望」 筑摩書房 1966年10月号)
『思想』の思い出 (「思想」400号 岩波書店 1957年10月号)
無益な翻訳競争 (「東京朝日新聞」 1936年9月19日号)
文庫の展望 (「図書」 岩波書店 1941年1月号)
『中央公論』 (「東京朝日新聞」 1937年4月28日号)
編集者の言葉 (「表現」 角川書店 1948年10月号)
画期的な国語辞典 (「東京タイムス」 1952年7月12日号)
辞書の盲点 (「文藝春秋」 文藝春秋社 1953年12月号)
編集を終えて (『世界大百科事典31』 平凡社 1958年12月
編集長という椅子 (「国民百科」 平凡社 1964年7月号)
フランス語事始め (「新潮」 新潮社 1954年5月号)
ホグベン『コミュニケーションの歴史』あとがき (『コミュニケーションの歴史』 岩波書店 1958年9月)
恐るべき図書館『世界の名著』 (「朝日新聞」 1966年9月20日号)


Popularizer 出でよ (「図書」8号 岩波書店 1950年6月号)
十字路に立つ大学 (「日本評論」 日本評論社 1949年11月号)
ジャーナリズム (『新文学講座第四巻教養編』 新潮社 1948年6月)
子供はなぜ自殺するか (「婦人公論」 中央公論社 1937年4月号)
文学読本の流行 (「東京朝日新聞」 1936年10月15日号)
書く人読む人 (「東京朝日新聞」 1935年4月5日号)
大人の読書指導 (「朝日新聞」 1950年10月1日号)
『東陽』 (「東京朝日新聞」 1936年10月7日号)
上品な笑い 健康な笑い (「文学」 岩波書店 1958年1月号)
笑い (『講座現代倫理5・内と外の倫理』 筑摩書房 1958年8月)
ベルグソン『笑』解説 (『笑』 岩波書店 1938年2月)
映画の三つの道 (「東京タイムス」 1952年1月13日号)
映画・喰わず嫌い (「文藝春秋」 文藝春秋社 1952年4月号)
芸術形式としての漫画トーキー (「東京朝日新聞」 1931年5月22日号)
ロルカの発見 (『新人会・創立五周年記念公演・その2』 新人会 1958年5月)
『血の婚礼』上演に寄せて (『ぶどうの会第13回公演パンフレット』 ぶどうの会 1959年3月31日)
観光ということ (「群像」 講談社 1958年6月号)
一高時代の友だち (『文藝春秋・冬の増刊炉辺読本』 文藝春秋社 1953年2月)


「オベリスク」 (「週刊朝日」2000号突破記念奉仕版 朝日新聞社 1958年5月)
アンドレ・ジードの「破産」 (「東京朝日新聞」 1930年2月17日号)
三文オペラ (「東京朝日新聞」 1930年2月18日号)
マイケル・ゴールドの文学観 (「東京朝日新聞」 1930年2月19日号)
フランス民衆派の近作二つ (「東京朝日新聞」 1930年2月20日号)
最近のロマン・ロラン (「東京朝日新聞」 1930年2月22日号)
民衆主義と新即物主義 (「東京朝日新聞」 1930年2月24日号)
『感化院の暴動』その他 (「東京朝日新聞」 1930年2月26日号)
『情熱の書』その他 (「東京朝日新聞」 1930年3月3日号)
『一九〇二年組』――戦争と少年 (「東京朝日新聞」 1930年3月4日号)
イギリスのプロレタリア文学 (「東京朝日新聞」 1930年3月10日号)
フロイト、トロツキー、ストリンドベリー (「東京朝日新聞」 1930年3月11日号)
『旅路の終り』は剽窃 (「東京朝日新聞」 1930年3月17日号)
ゲーテを精神分析する (「東京朝日新聞」 1930年3月19日号)
戦争小説の一つの型――レンの『戦争』 (「東京朝日新聞」 1930年3月25日号)
戦争小説行進曲 (「東京朝日新聞」 1930年3月26日号)
ル・コルビュジエ、フランスを笑う (「東京朝日新聞」 1930年3月29日号)
新即物主義文体早わかり (「東京朝日新聞」 1930年3月31日号)
アナトール・フランスの「検死」 (「東京朝日新聞」 1930年4月1日号)
教授と戦争小説 (「東京朝日新聞」 1930年4月7日号)
これが己たちのベルリンか? (「東京朝日新聞」 1930年4月10日号)
ソルボンヌ事件 (「東京朝日新聞」 1930年4月18日号)
メイエルホリドのドイツ訪問 (「東京朝日新聞」 1930年5月12日号)
人気作家の近況――ゴーリキー、ゴールド、レン (「東京朝日新聞」 1930年5月17日号)
映画の風紀廓清 (「東京朝日新聞」 1930年5月19日号)
アンデルセン記念祭 (「東京朝日新聞」 1930年5月22日号)
グロピウス展覧会 (「東京朝日新聞」 1930年5月26日号)
「パリにおけるレーニン」 (「東京朝日新聞」 1930年5月30日号)
ヘーゲル世界連盟 (「東京朝日新聞」 1930年6月3日号)
帝国主義的(?)世界語の出現 (「東京朝日新聞」 1930年6月6日号)
『クリストファ・コロンブス』の失敗 (「東京朝日新聞」 1930年6月18日号)
マックス・ラインハルト (「東京朝日新聞」 1930年6月22日号)
鉄道百年祭 (「東京朝日新聞」 1930年6月27日号)
教育家の頭 (「東京朝日新聞」 1930年6月30日号)
クローデルとトーキー (「東京朝日新聞」 1930年7月1日号)
ハルナックの死 (「東京朝日新聞」 1930年7月7日号)
赤いウグイス (「東京朝日新聞」 1930年7月9日号)
タゴールとノアイユ夫人 (「東京朝日新聞」 1930年7月10日号)
文化ヘゲモニーのために (「東京朝日新聞」 1930年7月11日号)
ペン、万年筆、タイプライター (「東京朝日新聞」 1930年7月14日号)
アメリカでは…… (「東京朝日新聞」 1930年7月26日号)
禁止作家のブラック・リスト (「東京朝日新聞」 1930年9月9日号)
聖母被昇天祭と闘牛 (「東京朝日新聞」 1930年9月16日号)
宣伝芸術としての人形芝居 (「東京朝日新聞」 1930年10月1日号)
ギヨーム・アポリネール (「東京朝日新聞」 1930年10月3日号)
グレーザーの作家観 (「東京朝日新聞」 1930年10月15日号)
ボストン老嬢クラブ (「東京朝日新聞」 1930年11月3日号)
ギリシア独立戦争とポー (「東京朝日新聞」 1930年12月20日号)
プロレタリア探偵小説 (「東京朝日新聞」 1930年12月27日号)
署名の重大性 (「東京朝日新聞」 1930年12月29日号)


国家主義的詩人について (「読売新聞」 1923年3月24、25、27日号)

解説対談 (林達夫・久野収)
解題 (林達夫著作集編集部)

著作年譜
略年譜
目次総索引




◆本書より◆


「書籍の周囲」より:

「悲しいことに、我々は既に書籍に余りにも中毒しているから、物を考えるにも物を感ずるにも書物なしでは能わない。酒や煙草の愛用者のように、我々は習慣的に本を手にしなければ一日も暮らせないのである。その最もよい例証は、この広い世界の中には、活きた現実をよそにして、女の美しさも人の悩みも悦びも愛も憎しみも、全宇宙をさえも書物の中でしか知らないそしてまた知ろうとも欲しない極端な書物人の存在していることである。」

「ラ・ブリュイエールの『レ・カラクテール』を読んだ人は例のエルマゴラを知っているだろう。エルマゴラはパリに永らく在住しているのに、自分の近くのヴェルサイユを未だかつて見たことがない。その癖、遠い昔に消え失せたバベルの塔については、実によく精通していてそれを建てた工匠の数と名前とはもちろんのこと、その階段が幾つあるかということまで、一つとして知らざるはない。まるで見て来たようである。その彼が、心血を注いでやっている研究がある。アルタクセルクスの右の手と左の手とのうち、いずれが長かったかの問題の究明である。それが分かることなら、彼は古代のあらゆる文献を虫眼鏡でのぞいて、そのために頭の毛が白くなることをも厭わないであろう。世の中にはこのような瑣事に拘泥しているエルマゴラが沢山にいる。諷刺家や戯画家がその嘲弄の欲望を満足せしめる好個の題材をこれに獲て来るのも無理はない。
 また人は小プリニウスの伝えている例の痴人を知っているだろう。古代ローマの大事件であったヴェスヴィオの大噴火の際、その灰がポンペイをはじめとして五つの都市を埋めつつあるのを眼の前にしながら、ギリシアの雄弁家の研究に耽っていたという男である。(中略)文献学者のうちに、またこの種の人間がいないとは、誰が言い得よう。」
「けれども、もしそれらの二、三の文献学者の弱点や短所の故に、あらゆる文献学者と彼等の文献学とに尊敬と愛とを拒もうとする者があるならば、私はその人たちの軽率を咎めなければならない。」
「過去の些細な事物の詮索に耽る者と、現実の果敢ない事物に興味を持つ者と、そのいずれがばかばかしい仕事をしているかは問題である。トタンと言う語の根源と由来とを尋ねて古今東西のあらゆる国と時代との間をさまよい、発見の好望とそれを見失った落胆とにあるいは心をときめかしあるいは心を沈めるのと、相場の上り下りにあるいは心臓を轟かせあるいは肝を冷やすのと、そのいずれが生き甲斐ある生活であるかは疑問である。世の所謂現実尊重論者は客間と街頭と事務所と料理店とキネマとにその一日を暮らし、雑談と新聞雑誌とによってその所謂現代を呼吸している。かかる人間から見れば、終日薄暗い書庫の一隅に坐して一つの言葉の語源を探しているが如きは、測り知るべからざる愚行であろう。しかし――これが重大な点である――文献学者の魂の中には、これらの現実主義者の全然窺い知るを得ない珠玉が光っていて、彼等は実にその光に導かれているのである。その珠玉とは即ち真理のために真理を求める、利害を超越した純粋なる知識の愛にほかならない。そうしてこれこそ人間の本能のうち最も気高い、最も美しいものであると共に、また我々が人の世の有様を見てともすれば人間の鳥獣にも劣る生物ではなきかを疑うとき、我々に人間の尊厳と優越とを思い起こさせてくれる僅かなもののうちの一つである。射利的本能に導かれて人心と世相との機微に徹しようと学ぶ利口な相場師を、一つの言葉の根源を索めて行方も知らず踏み迷う語源学者の足許に坐せしめるものは、実にこの知識の愛にほかならない。利害に超然として真理を追及する激しい情熱を有する彼等に比べれば、現世の利欲の奴隷となって利口に立ち廻っているさかしき輩は、鳥獣にも等しき憐れむべき存在と言うべきであろう。」
「過去への愛と現在への没頭と、いずれが迂濶であるかも疑問である。過去を一概に死せるものと思いなすは、視野の狭隘な、見聞を目先の事物に限られたものの短見であるが、たといそれを考慮の外に置くとも、過去の愛が一つの敬虔であり、また一つの勝れた処世知であることは動かし難い事実である。」
「過去の愛が何故に一つの処世知であるかについては、私はここにはただ現在のうちに生きることは多くの場合退っ引きならぬ必然の運命を甘受しなければならぬことを意味するに反して、過去のうちに生きることは一つの自由なる選択を意味するものであることを注意するにとどめよう。人は現在を遁れて過去に赴き、死者とその世界に生きることを卑怯なる現実回避であると言う。我々の眼を以てすれば、それは一つの賢き処世知である。しかも過去に生きることは、現実の平凡な煩い多き生においては到底享受し得ない大いなる行動と動乱と思想と情熱とを呼吸することを意味するにおいては尚更である。もし我々が過去の偉大な人間たちと出来事とについて全然何事も知ることなく、喧騒と混濁と昏迷と猥雑との雰囲気のうちに、(妻子と友人と見知らぬ行人と新聞の報ずるその日その日の退屈な出来事とのうちに)その一日を送るのみであるなら、我々の生活はどうであろう。想うだに索然たるものがあろう。それはある人にとっては、生きるに値しない生活であろう。しかるに「過去」はこの生きるに値しない生活に多くの生きるに値するものを持ち入れて、これを殆ど生きるに堪えるものにしてくれているのである。」
「かくて文献学者は、諷刺家の嗤笑に反して、この世における最も尊敬すべきまた最も愛すべき存在の一たるを失わないのである。」



「小説読者論」より:

「アルベール・ティボーデは『小説の読者』Le Liseur de Romans, 1925. の中で liseur と lecteur とを区別している。小説のレクトゥールというのは、「事、小説に関しては、何でも構わず手当り次第に読むのみで、趣味という言葉のうちに包蔵され流通さrている内外のいかなる要素によっても導かれぬ人間」の謂であるのに対し、小説のリズールとは「文学がかりそめの気晴らしとしてではなく、ひとつの本質的な目的、ほかの人生目的と同様に深刻に全人間を捉え得べき目的として存在するような世界に応召された人間」の謂である。」

「ジードに言わせると、文学は一つの交感(コミュニヨン)を予想しているが、こうした作家たちはつまり空間の中ではすぐに獲得することのできない交感を時間の中で獲得しようと望む羽目になっているわけなのである。
 作家が単なる時代の鏡以上のものを齎そうとすると、彼はどうしても周囲の因襲、習慣、虚偽に対して批判的にならねばならず、それらと闘争しなければならず、従ってそれらのものの中に安住し、眠り込まされている民衆と何らかの形で正面衝突せざるを得なくなる。」
「ジードの「文化の擁護」は、自分の生い立った階級とも民衆とも交感することのできない不幸な作家の告白である。そして彼は「とにかく現在のところでは、未知の、未来の読者に言葉をかけるより外ない。(中略)」と述懐しているのである。
 かかる作家と読者との背馳の場合には、しかしいま戦闘状態と呼んだものの外に、なお両者のいわば絶縁状態と呼ばれ得るものも存在することを指摘しなければならぬ。自分自身のために書くという「詩人」ポール・ヴァレリーなどの場合がそれである。」

「この自己に対する忠実性が、――それがいわゆるシンセリティーという言葉の内容に外ならないが――彼の作品を親しみ薄きものに見せ、「難解」に見せ、それによって多くの読者を離反せしめる一つの原因となっていることに注意しなければならぬ。」
「かくて、そのような小説家が仮にそのほんとうの読者をたった十人しか持たないような場合が起きても、人は少しも驚くには当たらないし、いわんや決して軽蔑などしてはならないのである。」



「文庫の展望」より:

「私はどういうものか最初に手に入れ、最初に親しんだ版本に妙に執着する癖がある。それがやがて杜撰なものであるとわかっても……だからその最初のものが訳書の場合だと、それに自分勝手に訂正の朱を入れたり、重要な箇所には原文を余白に書き込んだりして使っているし、そのものが原書の場合だと、それの訳書がどんなに名訳だろうが、よほどの場合でないと全部を読み通すということはもはやない。」


「一高時代の友だち」より:

「しかしもっと本質的なことは、私には深刻な意味での親友というものがなかったという不幸な事実である。私はかなり年少のころから、あるどうにもならぬ理由により人付合いを警戒することを余儀なくされ、いつしれず交友は淡々たるを以てよしとするようになっていた。終生の腹心の友の出来ることやすぐれた人物のタマゴが集まっていることがその長所の一つとされていた一高自治寮のようなめぐまれた環境においてさえ、私はどっちかというとなるべく他人の影響と介入を拒むような、ひとり勝手な、孤立した生活を送ったものであったが、(中略)友情論がわたくしにとってはもっとも不得手な畑であることは、これだけは間違いなさそうである。」

「わたくしはいまでも匿名の状態、無名の状態がわたくし自身の精神的呼吸には最もぴったり合った精神的風土だと思っている。広場の市で人前に身をさらすと、わたくしはたちまち呼吸困難におちいるのだ。」





こちらもご参照ください:

『林達夫著作集 1 芸術へのチチェローネ』






























































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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