『林達夫著作集 5 政治のフォークロア』

「人は、絶望の戦術とでも言うべきものを理解してくれるでしょうか。」
(林達夫 「反語的精神」 より)


『林達夫著作集 5 
政治のフォークロア』

久野収 花田清輝 編集

平凡社
1971年2月25日 初版第1刷発行
1977年6月1日 初版第9刷発行
v 369p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装(フランス表紙) 貼函
定価1,000円
装丁: 原弘

付録「研究ノート 5」(24p):
侏儒の手紙(大江健三郎)/林達夫のフォークロア的世界(山口昌男)/林君のことども(きだみのる)/林さんの手紙(清水幾太郎)/書かない人(山口瞳)/図版(モノクロ)3点



本書「解題」より:

「本第五巻では、著者が時々の政治状況と係わるなかで公にした発言を収めた。配列はほぼ発表年代順とし、五章に分けた。」


本書「校訂について」より:

「本著作集の底本には、原則として、評論集に収められたものについては、最初に出版された評論集を用いた。それ以外の論文については、初出の紙誌、書物によった。ただし、本著作集の刊行にあたって、幾つかの論文に、著者自身の手によって、若干の加筆訂正が施された。
 旧かなづかい、旧字体で書かれたものは、新かなづかい、新字体にあらためた。難解な漢字は、あるものは主として現代の慣用に従って、かな、または平易な漢字にあらため、あるものにはルビを付した。固有名詞の表記も、(中略)現代の慣用表記に統一した。」



全六巻。


林達夫著作集


目次 (初出):


反語的精神 (「新潮」 新潮社 1946年6月号)


ブルジョア戦争理論の限界性・序 (「思想」102号 岩波書店 1930年11月号)
イタリア・ファシズムの教育政策 (「教育」14号 岩波書店 1932年11月号)
プロレタリア芸術運動 (「教育科学」第19分冊 岩波書店 1933年4月)
芸術政策論 (「東京朝日新聞」 1933年12月17―20日号)
討議について (「思想」163号 岩波書店 1935年12月号)
文学の救国性 (「東京朝日新聞」 1936年1月14日号)
読書問題の政治性 (「東京朝日新聞」 1936年10月26日号)


思想の運命 (「都新聞」 1938年4月25―28日号)
ユートピア (「思想」205号 岩波書店 1939年6月号)
支那留学生 (「展望」 筑摩書房 1946年4月号)
開店休業の必要 (初出未詳)
新スコラ時代 (「都新聞」 1940年1月13―14日号)
歴史の暮方 (「帝国大学新聞」 1940年6月3日号)
フランス文化の行方 (「都新聞」 1940年6月25―28日号)
風俗の混乱 (「図書」 岩波書店 1940年8月号)
出版の新体制について (「朝日新聞」 1940年9月7、8、10日号)
現代社会の表情 (「都新聞」 1940年11月13―16日号)
園芸雑誌と新体制 (「朝日新聞」 1941年4月23日号)
犬のダンピング (初出未詳)


拉芬陀 (「図書」 岩波書店 1942年9月号)

Ⅴ 
揺らぐ屋台の一本の鋲 (「東京新聞」 1946年1月20日号)
ちぬらざる革命 (「文藝春秋」 文藝春秋社 1949年9月号)
無人境のコスモポリタン (「人間」 目黒書店 1950年4月号)
『旅順陥落』 (「図書」 岩波書店 1950年7月号)
新しき幕明き (「群像」 講談社 1950年8月号)
無抵抗主義者 (「新潮」 新潮社 1950年10月号)
共産主義的人間 (「文藝春秋」 文藝春秋社 1951年4月号)
妄人妄語 (「文学界」 文藝春秋社 1952年2月号)
園芸案内 (「文藝春秋」 文藝春秋社 1957年1月号)
病める現代人 (『講座・現代倫理7・現代的状況における人間』 筑摩書房 1958年9月)

解説 (鶴見俊輔)
解題 (林達夫著作集編集部)




◆本書より◆


「反語的精神」より:

「私は物事の影響が心身に顕われるのに至って遅く、そしていったんそれが萌すとなかなか永引くたちです。環境の激変したときなど、その当座はそれほどでもないが、あとになってそれが骨身にこたえてあれこれと支障が出てくる。たとえば旅行ですが、京都や奈良などへ十日も出掛けて、元の住居へ戻ると、誇張でなしにあと三箇月ぐらいは何となく心の落着きを失って、ろくに仕事が手につかない。(中略)私が旅行を極度に嫌うのは、一つはそのためです。」

「私を蝕む戦争のこの分解的影響は、何か生理とか病気とかに類する、底気味の悪い、ひどく直接的でいて、そのくせへんに把握し難いものだけにたいへん始末がわるい。社会的に物言う性質のものでなく、公表できぬ病床日記にそっと書きつける性質のもののように思われる。」

「いつの場合にも私にとっては反語(イロニー)が私の思想と行動との法則であり、同時に生態だったということです。反語はいうまでもなく一種の自己表明の方法であります。それはいわば自己を伝達することなしに、自己を伝達する。隠れながら顕われる。顕われながら隠れる。(中略)それは一つの、また無限の「ふり」である。――こう書いて、今、ひょっと思い出したから(中略)マルセル・プルーストの『囚われのおんな』の中の一節を記させていただきましょう。ある人が、ムッシュ・ド・シャルリュスに「Nはあんなふりをしているが、ほんとうにそうなのか」と尋ねると、彼はすかさず答えました。「彼がそうだったら、あんなふりはしなかっただろう。」
 自由を愛する精神にとって、反語ほど魅力のあるものが又とありましょうか。何が自由だといって、敵対者の演技を演ずること、一つのことを欲しながら、それと正反対のことをなしうるほど自由なことはない。自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆病な順応主義の示す軟弱にも堕さない。
 反語家はその本質上誤解されることを避け得ません。しかし彼はそれを平気で甘受し、否、ひそかにこれを快としているほどに悪魔的でさえあります。」



「新スコラ時代」より:

「従来、一世を風靡したような思想の創始者の多くは、もとはと言えば思想的には一種の天才的アマチュアだったに外ならぬ。」
「彼らの大部分は、その時代の職業的思想家からは白眼視され、蔑視され、敵視され、この連中との執拗な闘争によって次第にその共鳴者を獲得して勝利の道についたというのが定石である。」

「口を緘した思想運動というものも今の世には許されてよい一つの活動形態であろう。自分の分を守ってやることだけは小さいながらやっている。ところで、黙っている人間はたいへん誰かの気に障るという話を耳にしている。それが思想的自由の確保のための消極的手段であり、また時代に対する一種の抗議でもあると見られているからだろう。
 正直に単純極まる真理の数々さえ言っていけない世の中などは、何といっても変則的な、不具的なものだと言わねばなるまい。」

「私はあまりにペシミスティックなことばかりを語ったかも知れない。だが、正直のところ、哲学者ならばプラトンのようにユートピアを書くか、ボエティウスのように『哲学の慰め』を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは一向に起こらぬ。絶壁の上の死の舞踊(ダンス・マカーブル)に参加するひまがあったなら、私ならばエピクロスの小さな園をせっせと耕すことに努めるであろう。これは現実逃避ではなくして生活権確保への行動第一歩なのである。」



「歴史の暮方」より:

「絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。(中略)私には、納得の行かぬ、目先の暗くなることだらけである。いや、実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けつけられないのだ、無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るものではなくして、この脾弱い体質から来る。」

「私はこの頃自分の書くものに急に「私」的な調子の出て来たことに気がついている。以前にはあれほど注意して避けていた「私事」や「心境」めいた事ばっかり語っているようだ。何故だろう。社会関係を見失ってしまったからだ。私の所属していると思って、あてにしていた集団が失くなってしまったからだ。ほんとうは失くなったのではなくて、変わったのであろう。だが、私にとっては、どっちみち同じことだ。私は変わっていない。安易に変われない自分の頑固さを持て余している。しかし相手の変化から受ける反作用という点では、私の受けた打撃は大きかった。私もそのためには変わってしまったと言うことができる。時代に取り残された人間とは、私の如きものを言うのであろう。だが、それを寂しくも心残りにも思っていない。目前に見るこんな「閉ざされた社会」なんかにもはやこだわっている気持は一向にないからである。」

「私はますます自分が犬儒的(シニック)になり、つむじが曲がってゆくのをどうすることもできない。同じく心を動かされていても、人々と私とでは精神的風土がまるで違うのだ。人なかにいると、私はふと自分が間諜のような気がして来て、居たたまれなくなって席を立ちたくなることがある。何の共感もない。全く人とは別のことを感じ、また考えているのだから。
 こうして私は時代に対して完全に真正面からの関心を喪失してしまった。私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ空語、空語、空語! としてしか感受できないのである。私はたいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。余りに見え透いているのだ。」

「現代のモラリストは、事の勢い上、不可避的にイモラリストとなる。残念ながら、現代日本では、イモラリスト的な風貌をしていたと思われた思想家や作家までが最近けろりと申し分ないモラリストの姿勢に扮装更えしてしまっている。」

「生きる目標を見失うということ、見失わされるということ――これは少なくとも感じ易い人間にとってはたいへんな問題である。我々は何のために生きているのか、生き甲斐ある世の中とはどんなものか――そんな問いを否応なしに突きつけられた人間は、暫くは途方に暮れて一種の眩暈(めまい)のうちによろめくものだ。「よろしくやってゆける」人間は仕合せなるかなだ。だが、そんな人間の余りにも多すぎるというそのことが、私にとってはまた何とも言えぬ苦汁を嘗めさせられる思いがして堪らなくなるのだ。」



「無人境のコスモポリタン」より:

「私は私の生き方を外に名づけようがないのでエピキュリアンと呼んでみたことがあります。これは甚だ語弊の多い言葉で、あるいは避けた方がよかったかも知りませんが、私がエピクロス流の一種古風な「庭園学徒」=生活者であることには間違いないようです。」

「人類は、現在、それを解決しなければ破局におちいる二つの深刻な問題に直面しています。これは古代や中世近世を通じて思ってもみられなかった全く新しい問題であります。一つは申すまでもなく戦争の破滅的危険を前にしての Survival の問題であり、二つは The Rape of the Earth と人口の激増とから来る世界的死滅の凶兆を前にしての Survival の問題であります。我々は前者についてはこれと真剣に取り組んでいる頼もしい多くの人々を持っているが、恵み深き「母なる大地」がいかに回復し難く荒らされてゆきつつあるかについては、実感をもってこれに怖れおののき、その解決に身を挺している人の多くあることを聞きません。」



「新しき幕明き」より:

「われに慕わしきは眠ること、更に慕わしきは石となること、
迫害と屈辱とのつづく限りは。
見ず、聞かず、なべて感ぜず、それにもまさるさいわいは今のわれにはあらじ。
されば、われを揺り起こすなかれ……物曰うなら、声低く語れ!
――ミケランジェロ」

「日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。(中略)「黙秘」も文筆家の一つの語り方というものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った。コンフォルミスムには、由来私は無縁な人間であったのだ。」



「病める現代人」より:

「わたくしは卑下でも謙遜でもなく、自分は健康であり、正気であるとは毛頭思っていない人間であると申し上げておかなければなりません。わたくしに、こんな題目に口出しするただ一つの口実といいわけとがあるとすれば、それは多分「同病相憐れむ」ということだけでありましょう。わたくしはむしろ精神病医の診療室で、自分の病歴やそれらしきものをぼそぼそ、支離滅裂に、心許なく語る患者の側に属している人間で、精神病医の方では決してないということを、くれぐれも間違わないでいただきたいと存じます。」

「わたくしがここで言いたいのは、以前には単純極まる定義で片づいたかもしれぬものが、今日では、そうでなくなったという事実であります。たとえば、わたくしはさっき引用した自分の文章の中で、「戦争と平和との区別がわからない。正義と犯罪との区別がわからない」と書いていましたが、この二十年前に口をついて出た感慨は、今日になっても依然解消しないどころか、却ってますますその切実さを増してさえいるのであります。平和こそこの現代世界が未来に生き残る唯一の道だと説かれるその口の下から未来戦争の最も恐るべき武器の実験がもっともらしい、いずれも相手の「仮想敵」にすべての罪をきせた口実のもとに次から次へと大規模に行なわれてきました。(中略)人々は平和こそ前進を可能にする唯一の道だとほんとうに信じているのでしょうか。それともいまのような状況のもとでは、武器をとって戦うのもやむを得ないし、また戦わなければ新しきよき世界はひらけてこないと内心では思っているのでしょうか。かつてわたくしはある世界平和大会で、あたかもその時ある国で行なわれていた解放戦争の一つの偉大なる勝利のニュースが入り、それに対して満場総立ちになって拍手とともにそれを心から祝福したという記事を読んで、正直なところあるショックを受けました。平和を心から願い、平和をどこまでも貫徹することを誓い合い、それを天下に声明しようと寄り集まったその人たちが、同時に戦争を心から歓迎しているのであります。大義名分のあるところ、大義名分があやうくされるところ、武器を執って戦うのもまたよしとされるのです。いつの時代にも、大衆は平和を願い、しかも戦争に駆り出されたり、またすすんでそれに参加していたのです。今日では、それが少しでも違ってきたでしょうか。今日ほど、世界の広汎な民衆が平和を強く希求するに至ったこともないが、しかし今日ほど、あっという間に、戦争が行なわれている時代もありますまい。(中略)第三次世界大戦は、既にとっくにはじまっているという見方も成り立つので、現にそのような見方をしている人たちだって決して少なくはないのであります。
 わたくしがいつも奇妙に思うことは、国際間の紛争でお互いに言い合いをしている言葉を聞くと、まるで子供だましのように威張って大言壮語したり、相手を徹底的に悪者扱いしてキメつけたりしているたわいのなさです。(中略)何という大人気ないことだと溜息がいつも出ます。しかしこんな罵り合いがどんな大事を引き起こすかもしれないと思うと、ほんとうにハラハラさせられます。戦争の構えが、軍備がその恫喝の背後にある場合……。」

「正義と犯罪とについても、ほぼ同じことが言い得られるでしょう。既成社会というか、それに満足するか、満足しないまでも順応し妥協して生きている人間と、それに深い不満を抱き、これを改革しようとか、革命によっていっそ新しい社会をその破壊の上に実現しなければならぬと信じて、その信念にもとづいて行動している人間にとっては、一方の正義が他方の犯罪に当たり、一方の犯罪が他方の正義に当たる場合だって少なくないのであります。」
「病気と正気または健康についても、われわれは同じような、途方にくれるような立場に立たされるのではないでしょうか。」

「われわれは、人の集まる社会集団を営んでいる以上、どのみちストレスから脱れることはできないのであります。」



「解説」(鶴見俊輔)より:

「こうして戦後も、この著者は戦中とかわらず書斎で本を読んだり自分の庭をつくることに主に関心をもつ静かな生活者としてくらしつづける。書斎で本を読む人間も生活者だという自負がこの著者にあることは、重要だと思う。林達夫には、本を読むものは生活者ではないという考え方がなく、その故に大衆にたいするひけ目がない。だから、そのひけめから生じる大衆崇拝とか、ひけ目をうらがえしにした指導者意識があらわれる余地がない。」




こちらもご参照ください:

『林達夫著作集 6 書籍の周囲』









































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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