森銑三 『傳記文學 初雁』 (講談社学術文庫)

森銑三 
『傳記文學 
初雁』
 
講談社学術文庫 863

講談社
1989年2月10日 第1刷発行
423p
文庫判 並装 カバー
定価980円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 島田拓史



本書解説より:

「本文庫は、昭和十七年八月に出版された『傳記文學初雁』と、昭和三十一年六月に刊行した『傳記走馬燈』、それに(中略)小冊子『新島ものがたり』を合して一書とし、配列の順序は『初雁』に倣った。なお『初雁』と『走馬燈』に重複した篇の底本は『走馬燈』に拠っている。」


新字・正かな。


森銑三 初雁


カバー裏文:

「緩やかにまた滔々と、流れてやまぬ歴史の河の波間に静かに姿を消していった人びと。その健気で潔(いさぎよ)い生の軌跡をいつくしんで、碩学が、彼らの在りし日の姿を現世に呼び返す。堀部安兵衛、渡辺崋山、南方熊楠ら著名の人物から、名もない武家娘や流刑の咎人まで。読む人たれの心にも、懐しさが沁み入るように満ちてきて感銘が深い。どの一編も拠るべき確実な史料にのみ基いて叙述されており、世に名高き森史学の人物研究中、白眉の名編である。」


目次:

序に代へて

堀部安兵衛
泉岳寺
細川邸
書賈与兵衛
莅戸太華
真男児佐藤文四郎
小吉の放浪
お栄といふ幼児
雲居禅師
鳥島に漂著した人々
新島ものがたり
細井広沢
亀田窮楽
長崎の亀女
平賀源内遺聞
唐々春
金谷上人御一代記
歌右衛門と高尚
三浦竹渓逸事
久米訂斎逸事
稲葉黙斎
細井平洲
古松軒の旅
山陽と鰐水
崋山と慊堂
進講の日の黙禱

後語
解説・森先生の「傳記文學」 (小出昌洋)




◆本書より◆


「長崎の亀女」より:

「お亀に誂(あつら)へた香炉(こうろ)は、いつになつても出来さうにもなかつた。その内に任期が満ちて、奉行の長崎を去る日が来ようとしてゐた。奉行はそれだけにその品のことが気になつた。実はそれは自分自身の註文ではなくて、江戸の老中からの頼まれだつたからである。長崎に女の鋳工で、秘法を父から伝え受けて、殊に香炉の製作に妙を得たお亀といふ女がゐるといふことは、遠く江戸までも聞えてゐたのである。
 奉行は幾度となく催促するが、それでもお亀は取りかからうとせぬ。果は下役人をその家に附け切にして置いたが、それだのにどこを風が吹くかとばかり、少しも気に止める様子がない。たまたま他から註文があつて金が這入つたりすれば、酒を買ひ、肴を調へ、近所隣の人達を招いて飲み暮す。居催促の役人もあきれてしまつた。
 しかしその儘に捨てては置かれぬので、泣き附かむばかりに頼んだら、その歎願が利いたのか、それとも気持が動いたのか、お亀はやつと仕事にかかつた。かかつたかと思ふと、香炉一つは何の造作もなく出来た。それを見て役人は、安堵の胸を撫で下した。
 けれども、お亀は、出来たからといつて直ぐにそれを渡さうとはしないで、相変らずぶらぶら遊んでばかりゐる。
 役人がまたしてもしびれを切らして促すと、「せはしないねえ。まあ待ちなさいよ」と、その出来上つた香炉を取出して仕事場の机の上に置き、それから離して床几を据ゑた。
 何をするのかと見てゐると、お亀はゆつたりと床几に掛けて、長煙管(ながぎせる)を取つて煙草を吹かす。至つて不器量な女ではあつたが、その態度には、自然に備はる位があつた。
 一服また一服したかと思ふと、お亀の眼は机上の香炉に注がれる、その前にはもう仕事場もない。役人もない。天地間ただ香炉と己とがあるばかり。
 何も分らぬ役人も、いつしかその緊張した気分の裡に惹き入れられて、われ知らず固唾(かたづ)を呑んで、香炉を見、お亀の顔を偸(ぬす)み見る。
 かくすること少時、お亀の顔面に瞬間曇が射して、眉根がぴりりと動いたかと思ふと、煙管がカチヤリと投出された。
 「いけませんね」
 ただ一言。お亀は立上つて、傍らの斧を取上るが早いか、いきなり香炉を打ち砕いた。
 役人は、あつといふ間もなかつた。我に還つた時には、もう香炉は破片となつてゐた。
 折角出来上つた香炉も、意に満たなかつた。その意に満たぬ作品を己の物として世に出すことをお亀は欲しなかつたのである。
 奉行は、一部始終を聴いて憮然とした。長崎奉行の権貴を以てしても、賤工の一女子を奈何(いかん)ともすることが出来なかつた。」
「以上は永富独嘯庵の漫游雑記に拠つた。」

「お亀はやもめ住だつたが、性格がまるで男のやうで、ただその業にのみ打込んで、露ばかりも世に媚び、人に諂(へつら)ふ心がなかつた。その五十ばかりの頃、さる大名から、伝家の重宝といふ獣の香炉の対を作ることを頼まれた。その香炉はもとは一対だつたのが、いつからか片方ばかりになつたので、それを元通りにしたいといふ望だつたのである。お亀はそれを承諾したが、かやうの為事(しごと)は、明暮(あけくれ)その香炉に見馴れて、それが十分に心に入つてからでなくてはかかられませんといふ。尤もなことと、役人はお亀の家の近くに宿を定めて、日々明くれば香炉を持参し、暮るれば納めて帰ることにした。ところがお亀は最初の一回を除いては、心を止めて見ようともせず、それを飾つた傍で、肱を曲げて横になつたり、それには見向きもせずに、勝手に外へ出歩いたりしてゐる。かやうにして月日を経ても、いつ掛らうともしないので、役人もあぐみ果てて催促に及んだら、それでは明日からかかりませう、と引受けた。その翌日、お亀はこの香炉を捧げて、居ては見、立つては見して一時(とき)ばかりを過したが、見終つたかと思ふと、いきなりそれを庭石に叩きつけて割つてしまつた。役人は驚くまいことか。腰の物に手を掛けて、お亀に詰め寄つた。しかしろくろく口も利かれない。お亀はびくともせずに、まあお聞きなさいまし、わたしをお斬りになつたつて、香炉は元通りになりはしません。あの品とそつくりそのままの物を作れとおつしやつても、それはもともと無理な話で、人間業でそのやうなことが出来るものではありますまい。お待ちなさい。これから代りを作つて上げますから、と役人をなだめて、さてかひがひしく玉襷を取り、弟子に火を起させ、銅を沸かし立てて仕事にかかり、程なく一対の香炉を造り上げた。それは先に砕いたのと、寸分の相違も見出されぬ立派な出来栄のものだつた。」
「このお亀の親も、鋳物では名人として知られてゐたが、娘の顔形が醜くて、然も男のやうな気性なのを見て、これでは到底人並の男には添はれまい。行末のなりはひに、己の業を伝へて置いてやらうと、まだその幼い頃からみつしり仕込んだので、かくは珍しい工となつて、それで一生を過したのであつた。――続片玉集にはかやうに記されてゐる。」

























































































































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