森銑三 『増補 新橋の狸先生』 小出昌洋 編 (岩波文庫)
「豊かな天分に恵まれながら、性格的に他との融和を欠き、従ってその天分をも十分に発揮する機会を得ないままに、不遇の裡(うち)に一生を終ってしまった惜しむべき人々が、古来いかばかりあったことだろうか。」
(森銑三 「榊原正庸」 より)
森銑三
『増補 新橋の狸先生
― 私の近世畸人伝』
小出昌洋 編
岩波文庫 緑/31-153-2
岩波書店
1999年10月15日 第1刷発行
453p 編集付記・表記について1p
文庫判 並装 カバー
定価800円+税
カバーカット: 川村寿庵肖像(谷文晁筆)
「本書の編集について」より:
「本書は、昭和十七年五月に二見書房より刊行されたものであるが、先生は同書の出版後もなお各人物の調査研究は続けていたので、その成果は、(中略)『森銑三著作集』に、訂正増補されて収録される。今回の本書の出版にあたっては、それら後稿を採用して編成は同じだけれども、文章に異同のあることを、お断わりしておきたい。」
本書「序文」より:
「本書に収むるところすべて二十篇〔編者注、今回はあらたに四篇を増補して二十四篇を収める〕、私の目して畸人とする人々の事歴を叙した十篇を第一部とし、伴蒿蹊(ばんこうけい)の『近世畸人伝』中の人物を新たにまた取上げて見た十篇を第二部とする。」
新字・新かな。巻頭にモノクロ図版(成田狸庵筆「狸図」)1点。

カバー文:
「書誌学、近世文学、人物研究に多大な業績を遺した森銑三(1895―1985)の著作のうち、近世の人物に関する論考を集成。寛政から天保にかけて狸の易者という仇名で有名だった成田源十郎朝辰について述べた表題作をはじめ、池大雅・川村寿庵など、どの人物論の中にも対象にたいする愛情があふれている。」
目次:
序文:
第一部
新橋の狸先生
狸庵の見た夢
狸庵の画いた狸の絵
神谷潤亭
川村寿庵
老樗軒
勝間龍水
原武太夫
了然尼
榊原正庸
高安蘆屋
高安蘆屋遺事
第二部
池大雅
祇園の梶女
小野寺秀和妻
金蘭斎
土肥二三
矢部正子
矢部正子伝の新資料
涌蓮
表太
戸田旭山
北島雪山
雪山人の墓
解説 (中野三敏)
本書の編集について

◆本書より◆
「新橋の狸先生」より:
「今から百四十年ほど前になりますが、(中略)前後四十余年にわたって、江戸の新橋の橋詰(はしづめ)に、「狸(たぬき)の易者」という異名で知られていた売卜者(ばいぼくしゃ)が住んでおりました。どうして狸などといわれたのかと申しますと、その人は大変な狸好きで、家にはいつも幾匹(いくひき)かの狸を飼っていたからで、占(うらない)をする時にもそれが側(そば)に附(つ)いていますし、門口(かどぐち)には狸を描(か)いた看板が出してあります。家の内には、床(とこ)の間(ま)にも壁にも、狸の絵が掲げてあります。床にはまた狸の模様のある石が置いてあります。そして売卜者自身も、夏は狸を画(か)いた浴衣(ゆかた)を着ますし、冬は冬で狸の裘(かわごろも)を身に着けます。持物は煙草入(タバコいれ)にも、紙入にも、狸の金具(かなぐ)がつけてあるという風に、何から何まで狸ずくめで、狸でなければ夜も日もないという有様(ありさま)だったからでありました。」
「この人は元は(中略)歴とした武士だったのです(中略)が、どういうわけがありましたか、二十余歳で仕えを退いて、浪々(ろうろう)の身となりました。そして生活のために売卜者となったのですが、もともと無慾恬淡(てんたん)な人で、毎日の身入(みいり)が百文(もん)になりますと、後はもういくら頼む人があっても占の方は断ってしまって、狸と遊び戯れて時を過すのでした。それで自ら狸庵(りあん)とも、あるいは狸隠道人(どうじん)などとも号していました。
狸庵は、どうしてそんなに狸が好きだったのでしょうか。これは誰しも訝(いぶか)しく思うところでしょうが、狸庵はそうした質問に答えて、「わしが富貴(ふうき)を願っても、天は富貴を与えてくれないし、わしが聖賢を慕っても、天は聖賢に至らせてくれぬ。その代りには、天はわしに狸をかわゆがらせ、狸を翫(もてあそ)ばせる。それでわしは命令のままに、そのかわゆがらせるものをかわゆがり、その翫ばせるものを翫んでいるのだ。それはすべて天の命ずるところなのだ。なぜ天がわしに狸をかわゆがらせるのか、そこまではわしにも分らない」といっています。」
「川村寿庵」より:
「寿庵の家は富んでいた。それだのに綿入(わたいれ)を着る冬も、帷子(かたびら)の夏も、身に着けている物以外には、着換えというを持たない。寝る時も着たままで横になる。まして内にいる時も、外出するのにも同じ着物のままだった。」
「原武太夫」より:
「原富は、三味線弾(ひき)が浄瑠璃の文句、節廻(ふしまわ)しなどをあまりに細かに覚え過ぎたるはかえってよろしからずとした。そのために太夫の気持を窺(うかが)う心が薄くなって、自分の覚えた間拍子(まびょうし)を頼んで弾くところから、太夫との意気合いのしっくりしない箇所が出来る。「わが覚えを定木(じょうぎ)とせずして太夫と一枚になり、……引つぱり合つて弾く時は自然と感応なることもあるべし」原富はかようにいっている。また、「音曲は水ものゆゑ、かねて定め置きたると、其の席にのぞみては約束甚だ違ふものなれば、わが覚えを手先へ出し、いつとても同じ心にて弾く時は、甚だ違ふこと多し」ともいっている。」
「原富が調子を重んじたことは、(中略)『筠庭雑録』の書き入れにも見えているが、『断絃余論』では相手の太夫に依り、時に依り、場所に依り、聴衆に依って、調子に差別のあるべきことを懇々として説いている。」
「榊原正庸」より:
「豊かな天分に恵まれながら、性格的に他との融和を欠き、従ってその天分をも十分に発揮する機会を得ないままに、不遇の裡(うち)に一生を終ってしまった惜しむべき人々が、古来いかばかりあったことだろうか。」
「着物は垢(あか)づいても、洗おうとしない。人が新衣を贈る時は、すぐに着換えて、着古しは乞食(こじき)なんどに与えてしまう。(中略)昼も眠くなれば寝る。そのまま幾日も寝続けたりもする。」
「しかし正庸が、その人物に理解と同情とを持っている瀬下家の世話になって、晩年の三、四年を意のままに送ることを得たのは、大きな幸福だったとすべきであろう。その才能を十分に発揮することは出来なかったにしても、正庸は正庸らしい一生を終ったともいい得られよう。僅かに口を糊(のり)せんがために自己を没却し去って、何人にも迎合を事として、その日その日を送っている大多数の人々は、正庸からの嗤笑(ししょう)を免れ得ないであろうか。」
「かような不遇に終った天才のことを、私は少しでも明かにして置きたいものと思うのである。」
「高安蘆屋」より:
「蘆屋は生れついての畸人(きじん)であった。事実多病でもあったろうが、容儀を整え、外面を飾ることを、極端に嫌ったらしい。そして虚譚(きょだん)を捏造(ねつぞう)しては友人を担ぐ。(中略)家には妻もなく、子供もなく、犬や狆(ちん)を何疋(びき)も飼って、死ねばその葬式をし、法会(ほうえ)をする。追善(ついぜん)の刷物まで拵(こしら)える。そしてそれらの行動に、些(いささ)かも衒(てら)ったりしているところのないのが気持がいい。狎妓(こうぎ)に与えるものがなくて、秘蔵の唐墨を遣(や)ったなどという逸話は、最もよく蘆屋の面目を発揮している。」
「骨董屋(こっとうや)の品物すらも直切(ねぎ)って買おうとしなかった蘆屋は、(中略)樽(たる)に入らないジオゲネスともいうべき趣があった。」
「北島雪山」より:
「その内に雪山は、何一つ不自由のない生活に飽いて来た。一日ふらりと出でたまま、日を経ても帰らなかった。大名も、「元来畸人なのだから」と、咎(とが)め給わなかった。家財道具はそのまま奴僕(ぬぼく)が貰(もら)ってしまった。その跡へ雪山は、薦(こも)を纏(まと)い、欠けた椀(わん)を持ち、すっかり乞食(こじき)になりすまして立ち帰ったが、家主から話を聞くと、また飄然(ひょうぜん)として去った。」
「数年ぶりに長崎へ帰った雪山は、すぐに丸山のとある妓楼(ぎろう)へ行って、持っている金子(きんす)の全部を出して、「これで一生涯養ってくれ」と頼んだという。かような行も、いかにも雪山先生らしい。」
(森銑三 「榊原正庸」 より)
森銑三
『増補 新橋の狸先生
― 私の近世畸人伝』
小出昌洋 編
岩波文庫 緑/31-153-2
岩波書店
1999年10月15日 第1刷発行
453p 編集付記・表記について1p
文庫判 並装 カバー
定価800円+税
カバーカット: 川村寿庵肖像(谷文晁筆)
「本書の編集について」より:
「本書は、昭和十七年五月に二見書房より刊行されたものであるが、先生は同書の出版後もなお各人物の調査研究は続けていたので、その成果は、(中略)『森銑三著作集』に、訂正増補されて収録される。今回の本書の出版にあたっては、それら後稿を採用して編成は同じだけれども、文章に異同のあることを、お断わりしておきたい。」
本書「序文」より:
「本書に収むるところすべて二十篇〔編者注、今回はあらたに四篇を増補して二十四篇を収める〕、私の目して畸人とする人々の事歴を叙した十篇を第一部とし、伴蒿蹊(ばんこうけい)の『近世畸人伝』中の人物を新たにまた取上げて見た十篇を第二部とする。」
新字・新かな。巻頭にモノクロ図版(成田狸庵筆「狸図」)1点。

カバー文:
「書誌学、近世文学、人物研究に多大な業績を遺した森銑三(1895―1985)の著作のうち、近世の人物に関する論考を集成。寛政から天保にかけて狸の易者という仇名で有名だった成田源十郎朝辰について述べた表題作をはじめ、池大雅・川村寿庵など、どの人物論の中にも対象にたいする愛情があふれている。」
目次:
序文:
第一部
新橋の狸先生
狸庵の見た夢
狸庵の画いた狸の絵
神谷潤亭
川村寿庵
老樗軒
勝間龍水
原武太夫
了然尼
榊原正庸
高安蘆屋
高安蘆屋遺事
第二部
池大雅
祇園の梶女
小野寺秀和妻
金蘭斎
土肥二三
矢部正子
矢部正子伝の新資料
涌蓮
表太
戸田旭山
北島雪山
雪山人の墓
解説 (中野三敏)
本書の編集について

◆本書より◆
「新橋の狸先生」より:
「今から百四十年ほど前になりますが、(中略)前後四十余年にわたって、江戸の新橋の橋詰(はしづめ)に、「狸(たぬき)の易者」という異名で知られていた売卜者(ばいぼくしゃ)が住んでおりました。どうして狸などといわれたのかと申しますと、その人は大変な狸好きで、家にはいつも幾匹(いくひき)かの狸を飼っていたからで、占(うらない)をする時にもそれが側(そば)に附(つ)いていますし、門口(かどぐち)には狸を描(か)いた看板が出してあります。家の内には、床(とこ)の間(ま)にも壁にも、狸の絵が掲げてあります。床にはまた狸の模様のある石が置いてあります。そして売卜者自身も、夏は狸を画(か)いた浴衣(ゆかた)を着ますし、冬は冬で狸の裘(かわごろも)を身に着けます。持物は煙草入(タバコいれ)にも、紙入にも、狸の金具(かなぐ)がつけてあるという風に、何から何まで狸ずくめで、狸でなければ夜も日もないという有様(ありさま)だったからでありました。」
「この人は元は(中略)歴とした武士だったのです(中略)が、どういうわけがありましたか、二十余歳で仕えを退いて、浪々(ろうろう)の身となりました。そして生活のために売卜者となったのですが、もともと無慾恬淡(てんたん)な人で、毎日の身入(みいり)が百文(もん)になりますと、後はもういくら頼む人があっても占の方は断ってしまって、狸と遊び戯れて時を過すのでした。それで自ら狸庵(りあん)とも、あるいは狸隠道人(どうじん)などとも号していました。
狸庵は、どうしてそんなに狸が好きだったのでしょうか。これは誰しも訝(いぶか)しく思うところでしょうが、狸庵はそうした質問に答えて、「わしが富貴(ふうき)を願っても、天は富貴を与えてくれないし、わしが聖賢を慕っても、天は聖賢に至らせてくれぬ。その代りには、天はわしに狸をかわゆがらせ、狸を翫(もてあそ)ばせる。それでわしは命令のままに、そのかわゆがらせるものをかわゆがり、その翫ばせるものを翫んでいるのだ。それはすべて天の命ずるところなのだ。なぜ天がわしに狸をかわゆがらせるのか、そこまではわしにも分らない」といっています。」
「川村寿庵」より:
「寿庵の家は富んでいた。それだのに綿入(わたいれ)を着る冬も、帷子(かたびら)の夏も、身に着けている物以外には、着換えというを持たない。寝る時も着たままで横になる。まして内にいる時も、外出するのにも同じ着物のままだった。」
「原武太夫」より:
「原富は、三味線弾(ひき)が浄瑠璃の文句、節廻(ふしまわ)しなどをあまりに細かに覚え過ぎたるはかえってよろしからずとした。そのために太夫の気持を窺(うかが)う心が薄くなって、自分の覚えた間拍子(まびょうし)を頼んで弾くところから、太夫との意気合いのしっくりしない箇所が出来る。「わが覚えを定木(じょうぎ)とせずして太夫と一枚になり、……引つぱり合つて弾く時は自然と感応なることもあるべし」原富はかようにいっている。また、「音曲は水ものゆゑ、かねて定め置きたると、其の席にのぞみては約束甚だ違ふものなれば、わが覚えを手先へ出し、いつとても同じ心にて弾く時は、甚だ違ふこと多し」ともいっている。」
「原富が調子を重んじたことは、(中略)『筠庭雑録』の書き入れにも見えているが、『断絃余論』では相手の太夫に依り、時に依り、場所に依り、聴衆に依って、調子に差別のあるべきことを懇々として説いている。」
「榊原正庸」より:
「豊かな天分に恵まれながら、性格的に他との融和を欠き、従ってその天分をも十分に発揮する機会を得ないままに、不遇の裡(うち)に一生を終ってしまった惜しむべき人々が、古来いかばかりあったことだろうか。」
「着物は垢(あか)づいても、洗おうとしない。人が新衣を贈る時は、すぐに着換えて、着古しは乞食(こじき)なんどに与えてしまう。(中略)昼も眠くなれば寝る。そのまま幾日も寝続けたりもする。」
「しかし正庸が、その人物に理解と同情とを持っている瀬下家の世話になって、晩年の三、四年を意のままに送ることを得たのは、大きな幸福だったとすべきであろう。その才能を十分に発揮することは出来なかったにしても、正庸は正庸らしい一生を終ったともいい得られよう。僅かに口を糊(のり)せんがために自己を没却し去って、何人にも迎合を事として、その日その日を送っている大多数の人々は、正庸からの嗤笑(ししょう)を免れ得ないであろうか。」
「かような不遇に終った天才のことを、私は少しでも明かにして置きたいものと思うのである。」
「高安蘆屋」より:
「蘆屋は生れついての畸人(きじん)であった。事実多病でもあったろうが、容儀を整え、外面を飾ることを、極端に嫌ったらしい。そして虚譚(きょだん)を捏造(ねつぞう)しては友人を担ぐ。(中略)家には妻もなく、子供もなく、犬や狆(ちん)を何疋(びき)も飼って、死ねばその葬式をし、法会(ほうえ)をする。追善(ついぜん)の刷物まで拵(こしら)える。そしてそれらの行動に、些(いささ)かも衒(てら)ったりしているところのないのが気持がいい。狎妓(こうぎ)に与えるものがなくて、秘蔵の唐墨を遣(や)ったなどという逸話は、最もよく蘆屋の面目を発揮している。」
「骨董屋(こっとうや)の品物すらも直切(ねぎ)って買おうとしなかった蘆屋は、(中略)樽(たる)に入らないジオゲネスともいうべき趣があった。」
「北島雪山」より:
「その内に雪山は、何一つ不自由のない生活に飽いて来た。一日ふらりと出でたまま、日を経ても帰らなかった。大名も、「元来畸人なのだから」と、咎(とが)め給わなかった。家財道具はそのまま奴僕(ぬぼく)が貰(もら)ってしまった。その跡へ雪山は、薦(こも)を纏(まと)い、欠けた椀(わん)を持ち、すっかり乞食(こじき)になりすまして立ち帰ったが、家主から話を聞くと、また飄然(ひょうぜん)として去った。」
「数年ぶりに長崎へ帰った雪山は、すぐに丸山のとある妓楼(ぎろう)へ行って、持っている金子(きんす)の全部を出して、「これで一生涯養ってくれ」と頼んだという。かような行も、いかにも雪山先生らしい。」
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