『放浪学生プラッターの手記』 阿部謹也 訳

『放浪学生プラッターの手記
― スイスのルネサンス人』 
阿部謹也 訳


平凡社
1985年7月5日 初版第1刷
224p 口絵(カラー)2p 
目次3p 地図1p
20×15.5cm 
角背紙装上製本 カバー
定価1,800円
装幀: 山本義信


本書「訳者解説」より:

「翻訳にあたってはハルトマンの刊本(Thomas Platter; Lebensbeschreibung. herausgegeben von Alfred Hartmann. Basel 1944. この版には Walter Muschg の序文がついているが、割愛した)を底本にしている。」


本文中図版(モノクロ)16点、地図2点。


放浪学生プラッターの手記 01


目次:

トマス・プラッター肖像及び生家
地図

まえがき

Ⅰ さすらいの日々
 一 悲惨のはじまり
 二 命懸けの山羊番
 三 放浪のひよっ子
 四 勉学の機熟す
Ⅱ 労働しつつ、学びつつ
 五 ツヴィングリ信奉者となる
 六 綱造り職人とヘブライ語
 七 結婚し、故郷で学校を開く
 八 バーゼルで助手となる
 九 医者エピファニウスのもとで
 一〇 カッペル敗戦のあとで

Ⅲ 名声と富
 一一 ペタゴギウムの教授となる
 一二 印刷業者と教授を兼ねる
 一三 城のギムナジウムの校長
 一四 郊外に屋敷を手に入れる
 補

編者解説・注
トマス・プラッターの世界 (訳者解説)
索引



放浪学生プラッターの手記 02



◆本書より◆


阿部謹也「トマス・プラッターの世界(訳者解説)」より:

「トマス・プラッターはルネサンス・宗教改革期のスイスが生んだ特異な人物の一人である。(中略)スイスの険しい山の上の寒村で貧しい農家の子として生まれ、幼くして放浪学生の仲間に加わり、主としてドイツの町や村々を乞食をしたり、盗みをしたりしながら歩いて少年・青年時代を過ごしたトマスの生涯の叙述は、この時代の町や村の人びとの生活や意識をはからずも私たちに伝えてくれる。またツヴィングリを中心とする宗教改革の中心にあって、その経過をつぶさに体験し、叙述している点も注目に値するところである。」
「トマスは幼年時代の苛酷な体験を何のてらいもなく記している。ひもじさのあまり、街頭をうろつく犬と食物を奪いあった悲惨な話も、トマスの筆になると淡々として客観的な装いをもって表されるのである。」
「ではいったい放浪学生とはどのような人たちだったのだろうか。(中略)市民や敬虔な人たちの寄進によって設立されたラテン語学校には寄宿舎もあって、多くの学生を集めていたのである。(中略)ラテン語学校の名声はひとえに高名な教師がいるかどうか、またその町の人びとが学生に寛大で、多くの喜捨を与えてくれるかどうかにかかっていた。高名な教師がいるという噂を聞くと多勢の学生が集まってくるが、ひとつの町で集められる喜捨の全体量には限りがあるから、それらの学生を養えないこともあった。学生たちは放浪中も在学中も原則として聖歌を歌って門付けをしたり、乞食をしたりして暮らしていた。
 一四九〇年頃に放浪の旅に出たヨハンネス・ブッツバッハの例をみよう。フランケンのミトレンブルクの織物職人の息子に生まれたブッツバッハは一二歳のとき学問を学ぶために学校に通った。しかしトマスの場合と同様に学校では笞で打たれたり、柱に縛りつけられたりするだけで、何も教えてもらえなかった。(中略)そのころ一七歳になる隣人の息子が放浪学生として家に戻ってきて、ヨハンネスをひよっ子として連れていきたいと申し出て、外国の学校で学ばせてやると両親に約束したのである。ヨハンネスの両親はその男に金を渡し、ヨハンネスを預けた。ヨハンネスの記録によると町の教会の塔がみえているあいだは兄貴分は親切であったが、町の境界から一歩出たとたんに苛酷な扱いをうけたという。学問を教えるというのは口実にすぎず、自分の食物を集めさせ、身のまわりの世話をさせるために放浪学生は弟分としてひよっ子をつれてあるくのが当時の習慣であった。」
「彼らがひとつところに定住して学問にうちこめなかったのは、教師の側の事情と経済的な事情との二つがあったからであるが、この時代の多くの人びとが旅する人びとであったこととも関連をもっている。(中略)中世の人間は貴族も市民も聖職者も、国王にいたるまで一生を通じて旅をしつづけていたのであった。(中略)トマス・プラッターの前半生はまさにこのような放浪学生の典型として注目をひくものなのである。」

「トマスとほぼ同時代のヘルマン・ボーテは北ドイツのブラウンシュヴァイクの鍛冶屋の親方の子であるが、足が悪かったために当時賤民職であった徴税書記となった。昼のあいだは徴税書記として親方たちからさげすまれ、馬鹿にされながら働いたボーテは、昼の仕事から解放された夜に昼の屈折した思いを読書や執筆ではらしていたのである。そのなかからさまざまな作品が生まれた。もっとも有名なのが『ティル・オイレンシュピーゲル』である。トマスの叙述にはそのような屈折した思いはみられない。ただ貧しい生活が淡々と描かれているにすぎない。トマスはボーテとちがって身体強健であり、神からさえ疎外された賤民ではなく、神の恩寵を確信することができる幸福な男であった。
 トマスがバーゼルで城のギムナジウムの校長になってからも、大学側は何かにつけてトマスの学校経営に干渉した。なかでも大きな圧力となったのは、大学がトマスに修士号をとるよう強要したことであった。トマスは修士の学位をとる必要はないと断固として抵抗し通したのである。(中略)学位をとるとは、いうまでもなく自分の学問を大学の権威によって認めてもらう行為をいう。トマスは自分自身の権威しか認めない男であった。学ぶこと以外に学問を何かに役立てようという関心はなかったのである。(中略)私たちはこのような人間が宗教改革時代に生きていたことを大変心強く思う。トマスがこのような態度を貫き通すことができたのはなぜか。それはトマスが放浪学生として出発したことと無関係ではないであろう。歩きつづける人間には学位は不要なのである。」



「一 悲惨のはじまり」より:

「この伯母といっしょにヴィルディン(グレッヒェンの)にいたとき、一番年長の兄がサヴォイ戦争から帰ってきて、私に木の仔馬をくれた。私はひもで仔馬を結び、戸口の前でひっぱってみた。私はこの仔馬は歩けるのではないかと思っていた。子供がときとして自分がもっている人形が生きていると信じているように、私もそう考えていた。」


「三 放浪のひよっ子」より:

「私たちがグリムセル峠を越えて夕方に宿に着いたとき、私はまだタイルを張った暖炉を見たことがなかったうえに、月の光が暖炉に当たっていたために家のなかに大きな仔牛がいると思った。タイルが二枚光っているのを仔牛の目だと思ったのである。」


「六 綱造り職人とヘブライ語」より:

「私はだんだんとオポリヌス博士や他の人びとと知り合いになった。オポリヌスは私にヘブライ語を教えるように頼むのである。私にはそれだけの力もないし、時間がないといって断ったのだが、彼があまりに長いあいだあきらめなかったので、私は親方に賃金を下げるか、ただにするように頼んだ(中略)。親方は毎日一時間夕方四時から五時まで自由にしてくれた。するとオポリヌスはヘブライ語の初歩を聖レオンハルト教会(オポリヌスはこの教会の学校の校長であった)で、月曜日から四時に教える者があるということを書いて教会の戸に張り出した。私がその時刻に教会に行くときにはオポリヌス一人だろうと思っていたのだが、なんと一八人ものかなり学問のある人びとが集まっていた(私は教会の貼紙を見なかった)。それらの人びとをみて私は逃げ出そうとした。しかしオポリヌス博士がいった。「逃げないでください。みな良い人たちですから」。私は綱造り職人の前垂れをつけていることが恥ずかしかった。」
「この年に一人のフランス人がナヴァラの女王からヘブライ語を学ぶために送られてきて、学校へやってきた。私は粗末な衣服を着て入ってゆき、暖炉のうしろ(これはすばらしい席であった)に腰をおろし、学生たちも机に向かって座った。するとフランス人がいった。Quando venit noster professor ? (私たちの教師はいつくるのですか)と。するとオポリヌスが私を指さした。フランス人は私をみていぶかしげな顔をした。彼は間違いなく教授がこんな粗末な服を着ているはずがないと思ったのである。授業が終わると、彼は私の手をとり、小橋を渡ったところまで連れていって、私がこんな服を着ているのはどうしてなのかとたずねた。そこで私は Mea res ad restim rediit (私には綱(縛り首の)以外には何ものこっていないんですよ)〔編者注: この言葉はエラスムスが(中略)テレンテイゥスから極度の絶望の表現として引用したものである。プラッターはそれを言葉どおりにしかし譬喩的な意味で用いている。〕と答えた。すると彼は私が望むなら私のために女王に手紙を書こうという。そうすれば女王は私をあたかも神のごとくに迎えるであろう、だから彼のいうとおりにした方がいいというのである。しかし私には彼の申し出に従う気はなかった。この男は町を去るまで私の授業を聴講した。彼は高価な服を着て金色の帽子をかぶっていた。雨がふるときの用意かなぜか理由は知らないが、彼のあとからマントと帽子をもっている下僕が従っていた。九年以上たってから彼はふたたびこの国にやってきた。ヴァイトヌスのアウグスチン修道院通りで出会ったとき、O Salve praeceptor Platere (ああ 今日は、プラッター先生)と呼んだ。私がどこから来たのかとたずねると、彼は九年間クレタ島やアジア、アラビアで学識あるユダヤ教のラビについてヘブライ語その他の言葉を学び、今では母国語のように出来るようになったので、友人といっしょに故郷に帰るところだという。相変らず高価な衣服を身につけていた。」





訳者解説中「学位をとるとは、いうまでもなく自分の学問を大学の権威によって認めてもらう行為をいう。トマスは自分自身の権威しか認めない男であった。学ぶこと以外に学問を何かに役立てようという関心はなかったのである。(中略)私たちはこのような人間が宗教改革時代に生きていたことを大変心強く思う。」に関しては、こちらもご参照下さい:

阿部謹也 『「世間」とは何か』 (講談社現代新書)


「漱石は明治四十四年(一九一一)、入院中に文部省から学位授与に付き出頭せよとの文書を受け取り、「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。したがって私は博士の学位をいただきたくないのであります」と拒否しているのである。」
「博士とは何か。いうまでもなくそれは自分の学問を別のもの、この場合は文部省であるから官の世界によって認めてもらうことを意味する。自己は一人自己によって立つと考えていたと思われる漱石にとっては、自分の学問を官によって認めてもらうことは恥ずかしいことと思われたのであろう。実際東京帝国大学の教授になることをも拒否した漱石である。博士とか教授という肩書は少なくともこの国では世間の中で生きてゆくうえで役に立つ肩書であり、それを拒否したことによって漱石の世間に対する考え方や身の処し方が推測できるのである。」












































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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