金子光晴 『どくろ杯』 (中公文庫)

「必死に浮びあがろうとするものの努力に手を貸す行為は花々しいが、泥沼の底に眼を閉じて沈んでゆくものに同感するのは、おなじ素性のものか、おなじ経験を味ったもの以外にはありえない。地獄とはそんなに怖ろしいものではない。賽の目の逆にばかり出た人間や他人の批難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しかのこらない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ。」
(金子光晴 『どくろ杯』 より)


金子光晴 
『どくろ杯』
 
中公文庫 A81 

中央公論社
昭和51年5月10日 初版
昭和56年2月25日 三版
256p 
文庫判 並装 カバー
定価300円
表紙・扉: 白井晟一
カバー: 熊谷博人


「昭和四十六年五月 中央公論社刊
昭和五十年十一月 全集第七巻」



金子光晴 どくろ杯


カバー裏文:

「詩集『こがね蟲』で詩壇にはなばなしく登場した詩人は、その華麗な輝きを残して、夫人森三千代とともに日本を脱出、欲望、貧困、喧噪の中国に絶望的な放浪をつづける。青春と詩を奔放に描く自伝」


目次:

発端
恋愛と輪あそび
最初の上海行
愛の酸蝕
百花送迎
雲煙万里
上海灘
猪鹿蝶
胡桃割り
江南水ぬるむ日
火焰オパールの巻
旅のはじまり
貝やぐらの街
あとがき

解説 (中野孝次)




◆本書より◆


「発端」より:

「みすみすろくな結果にはならないとわかっていても強行しなければならないなりゆきもあり、またなんの足しにもならないことに憂身をやつすのが生甲斐である人生にもときには遭遇する。七年間も費して、めあても金もなしに、海外をほっつきまわるような、ゆきあたりばったりな旅ができたのは、できたとおもうのがおもいあがりで、大正も終りに近い日本の、どこか箍(たが)の弛(ゆる)んだ、そのかわりあまりやかましいことを言わないゆとりのある世間であったればこそできたことだとおもう。」
「日本からいちばん手軽に、パスポートもなしでゆけるところと言えば、満州と上海だった。
 いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった。」



「猪鹿蝶」より:

「柳樹浦のクリーク添いに北へ遡って私は歩きだした。指のくずれてなくなった腕のような川柳の葉の落ちつくした木っ杭が氷雨にぬれて立っていた。(中略)憤懣は、おもいがけないほどいろいろなものに、その対象がつながっていた。じぶんの今日のこうしたありかたや、じぶんの微力や、切っても、突いてもどうにもならない、手も、足も出ない圧力の壁や、日本でのくらしや、世わたりのうまい奴や、しゃあしゃあとしてのしあがってゆく奴や、のほほんとした奴や、高慢づらな奴や、そんな奴らのつくっている、苛性曹達(ソーダ)のような、稀塩酸のような、肌に合わないどころか心情のうす皮がちぢくれあがるような日本での生活の味が一束になって、宿怨となり、胸のつかえとなっているのか、そのときの憤懣と一つになって、突破口(はけくち)を作らねばいられない、ぎりぎりな気持になっていた。クリークの上流の地獄の道のようなくらさにむかって私は、
 「にゃんがつおっぴい!」
 と、あらんかぎりの声を張りあげて、二度、三度、叫んだ。
 あたりには家影もなく、誰もきいているものはなさそうだったが、それでも、おもいきり絶叫したことだけで、心がすこし晴れたような気がした。にゃんがつおっぴいは、上海で苦力たちがつかう、もっとも品の悪い罵詈のことばで、貴様のお袋を犯してやるぞということだ。それよりもっと念の入ったのは、貴様の家の墳(はか)をあばいて十八代前の先祖の妻を犯すぞというのがあるが、中国というふかい掃溜には、われわれ日本人のようなおちょぼ口した、手先のきれいな人間には、おもいもつかないようなことが、話だけでなく実際に起りえたし、誇張のようにおもえることばにも、それだけの実感がこもることになるのである。中国人は、人間にはどれだけのことができるかという経験を、心ならずも極限まで究めさせられた民族のようだ。前漢が亡びたとき、赤眉の賊が長安を強掠し、帝王の陵をあばいて、水銀をつめて腐朽しないようにしてある呂后始め歴代皇后の屍をとり出して、次々に犯したという歴史記事がのこっている。食人の記録などは、随所にある。人間の料理法も進んでいたらしい。隋の煬帝(ようだい)の運河工事は立派な功績とされているが、宰領の機嫌をとるために、下官が毎日近辺の嬰児をさらっては豚肉と称してふかし、宰領はそれを天下一の味として賞味したということも出ている。」

「秋田は、支那服の袖で額を一こすりして、
 「こういうものがあるんだよ。誰か買いそうな心当りはないか」
 風呂敷に包んだ桐箱入りのものをとり出して、砂糖黍や、菱の実の飴煮の乗っている円卓のうえに置いた。
 「どくろ杯だよ」
 秋田の掌のうえには、椰子の実を二つ割にしたような黒光りした器(うつわ)がのっている。
 「蒙古で手に入れた。人間のどくろを酒器にしたものだ」
 内側は銀が張ってあって、黒ずんでうす光りがしている。」



「江南水ぬるむ日」より:

「必死に浮びあがろうとするものの努力に手を貸す行為は花々しいが、泥沼の底に眼を閉じて沈んでゆくものに同感するのは、おなじ素性のものか、おなじ経験を味ったもの以外にはありえない。地獄とはそんなに怖ろしいものではない。賽の目の逆にばかり出た人間や他人の批難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しかのこらない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ。」


「貝やぐらの街」より:

「夜ふけのデッキにひとりであがる。船は一方にひどく傾(かし)いだままで走っている。誰もいない。星だけの世界で、安っぽい位、金銀箔を散らして、星がさわいでいる、ひどい騒ぎだ。(中略)いまならば、なにをやっても悲劇ではない。私がデッキから外に飛込んでも、世界は無関心だし、よほどあとになってからでなければ誰も気づくものはない。デッキに曳いた水道で私は、水をのもうとしたが、ひどく生暖(ぬる)い、日向水のような水で、そうおもうとなにか臭気(におい)がある。口をゆすいだだけで、その水を吐き出す。もう一度、水を出して蛇口に指をやり、女の髪の毛がひっかかって来ないかとたしかめる。「勝丸事件」のことをおもいだしたのだ。南方に出かせぎに行くつもりで密航をおもいたち、三人の娘(その数はたしかでないが)たちが貨物船勝丸にしのびこみ、飲料水の水槽ともしらずかくれたが、そんなこととはしらず、次の港で水をはったので、娘たちは溺れ死に、しだいにくずれた肢体から、濁った水や、髪の毛が蛇口に出てくるようになって、船員たちがはじめて気づいてさわぎ出したという事件で、夜なかに誰もいないタラップに足音がきこえたとか、女の笑い声を耳にしたとかいう怪談にまでそれは発展する。外地を稼ぎつづけた果ての女のくずれたからだが、手足はなくなって首と胴体だけになって、壺に入れ国におくりかえされる途中、デッキに並べたその壺を、一つ一つ海に蹴落すという話をまたもおもいだした。船員は、「それが、慈悲だ」と言う。ずっとあとになってのことだが、やはりそんな壺に入れて、手んぼ、足んぼの兵隊が大陸から送られてきたのも知っている。生きているものの世界では、不用なものには、そんな実際の処置しかない。そして、自然の法則とともに、人間のつくった常識も、手厳しいことでは優劣がない。私たち三人も、じぶんではそれほどおもっていないだけで、どうやらじぶんたちのいる人生から不用なものの扱いをうけはじめているらしい。」




こちらもご参照下さい:

金子光晴 『ねむれ巴里』 (中公文庫)
セリーヌ 『夜の果ての旅 (上)』 生田耕作 訳 (中公文庫)





























































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