ラフカディオ・ハーン 『日本の面影』 田代三千稔 訳 (角川文庫)

「わたしはたいへん猫が好きである。そして洋の東西にわたって、いろいろな土地でいろいろな時に飼っていたさまざまな猫について、大部な書物が書けるだろうと思う。」
(ラフカディオ・ハーン 「病理上のこと」 より)


ラフカディオ・ハーン 
『日本の面影』 
田代三千稔 訳
 
角川文庫 1672 

角川書店 
昭和33年2月8日 初版発行
平成元年11月15日 17版発行
245p
文庫判 並装 カバー
定価480円(本体466円)
カバーデザイン: 鈴木一誌



本書「解説」より:

「この訳書は、さきに本文庫で上梓した(中略)『怪談・奇談』の姉妹篇として、同じ作者の随筆、紀行、小品の代表的なものを訳出して、一書にまとめたものである。」
「これは一般に『知られぬ日本の面影』で通っているハーンの日本にかんする最初の著作“Glimpses of Unfamiliar Japan”(1894)そのものの翻訳ではなく、同書中から数篇採録したほかは、すべて彼の全著作中から主要な作品をえらんで新しく編集したものである。」



本書は角川文庫「リバイバル・コレクション」の一冊として復刊されたものです。


ハーン 日本の面影


カバーそで文:

「ギリシアの血と
アイルランドの血をうけたハーンは、
東洋の孤島に放浪の足を止め、
「日本の魂の発見者」となった。
この神秘的な浪漫詩人は、
印象的な筆致で
物珍しい生活と美と心を描いた。
「盆おどり」など二十三篇収録。」



目次:

東洋の第一日 (「知られぬ日本の面影」より)
盆おどり (「知られぬ日本の面影」より)
子供の霊の洞窟――潜戸 (「知られぬ日本の面影」より)
石の美しさ (「知られぬ日本の面影」より)
英語教師の日記から (「知られぬ日本の面影」より)
日本海のほとりにて (「知られぬ日本の面影」より)
日本人の微笑 (「知られぬ日本の面影」より)
夏の日の夢 (「東の国から」より)
生と死の断片 (「東の国から」より)
停車場にて (「心」より)
門つけ (「心」より)
生神 (「仏土の落穂」より)
人形の墓 (「仏土の落穂」より)
虫の楽師 (「異国情趣と回顧」より)
占の話 (「霊の日本」より)
焼津にて (「霊の日本」より)
橋の上 (日本雑録」より)
漂流 (「日本雑録」より)
乙吉の達磨 (「日本雑録」より)
露のひとしずく (「骨董」より)
病理上のこと (「骨董」より)
草ひばり (「骨董」より)
蓬莱 (「怪談」より)

訳註
年譜
解説




◆本書より◆


「盆おどり」より:

「とつぜん、一人の娘が座席から立ちあがって、大きな太鼓をひとつドンとたたいた。これが盆おどりの合図である。

 寺の影から踊り子たちが列をつくって月光のなかへ繰りだしてきて、またとつぜん止った。みんな晴着をきた若い女や小娘たちで、いちばん背の高いものが先頭にたち、それから身長の順につづいて、十歳ないし十二歳の小娘が行列のしんがりをしている。みんな小鳥のように軽快な身ごなしで、その姿はなんとなく古代の花瓶のまわりに描かれた夢のような姿を思いおこさせる。膝のあたりにぴったりまつわりついている、あのじつにうるわしい日本の着物は、もし大きく垂れさがった風変りな袖と、着物をしめる珍しい幅のひろい帯とがなかったら、ギリシアかエトルリアの芸術家の絵をもとにして意匠をこらしたものと思われるかも知れない。それからもういちど太鼓がなって踊りがはじまったが、それはとても言葉などでは描写できない――想像もつかぬほど夢幻的な舞踊であり、まったく驚嘆すべきものだった。
 みんないっせいに、草履を地面からあげないで右足を一歩前にすべらせ、妙にうきあがるような恰好で、にっこりとお辞儀でもするような仕種(しぐさ)をしながら、両手を右へのばす。それから、出した右足をうしろへ引いて、また両手をふり、お辞儀のような仕種をくりかえす。つぎに、みんな左足を前へ出してなかば左にむきながら、さきの動作をくりかえす。それから、いっせいに手をかるく打ちながら、みんな滑るように二歩前へ出る。そして、最初の動作が右と左へ交互にくりかえされるのである。――草履をはいた足はみんないっせいに滑り、しなやかな手はみんなそろって振られ、たおやかなからだは、みんないっせいに前へかがんで左右に揺れ動く。こうして、ごくゆっくりと、この世のものとも思えぬように、踊りの行列は大きな円にかわって、月に照らされた境内で、声もたてずに眺めているおおぜいの人たちのそばを、ぐるぐるまわってゆく。
 白い手はいつも、かわるがわる踊りの輪の内側と外側とで掌を上にむけたり下にむけたりして、魔法でも仕組むように高く低くうねりながら、いっせいに揺れうごき、小さな妖精のような袖は翼の影のような陰影を投げながら、みんなそろってほのかに舞う。そして、すべての足がたいへん入りくんだ動きのリズムにのっていっせいに平衡(へいこう)をとるので、それをじっと見まもっていると、水がちらちら光りながら流れているのを見つめようとするときのような――なんだか催眠術にでもかかったような気持になるのである。
 この眠りを誘うような魅惑は、あたりがしんと静まりかえっているために、いっそう強く感じられてくる。誰ひとり口をきく者もなく、見物人さえ黙りこんでいる。そして、かるく手をうつ音のながい合間には、木の間にすだく蟋蟀(こおろぎ)の声と、かるく砂ほこりをあげる草履のシュウシュウいう音が聞えるだけである。これはいったい何にたとえられよう? と、わたしは自分に問うてみる。何にもたとえられるものはないのだ。とはいえ、これは、自分が飛んでいる夢をみたり、歩きながら夢をみたりする夢遊病者の空想を、いくぶん暗示するようだ。
 そして、わたしは何かしら年代のわからないほど遠いむかしのもの、まだこの東洋人の生活の記録にのせられなかった初期のもの、おそらく薄明の神代、神々のふしぎな時代に属するものを見ている――つまり、数えきれぬ年月のあいだにその意味が忘れられている動作の、象徴的なすがたを眺めているのだという考えが、ふと心にうかんできた。ところが、まるで目に見えない監視者にでも会釈(えしゃく)するように無言のままほほえんだり頭をさげたりする光景は、ますますこの世のものとは思われなくなってくる。それで、もしもわたしが、ひとことでも小さい声をだしたら、ただ、くずれかかった灰色の境内と、荒れはてた寺と、この踊り子たちの顔とおなじ神秘的な微笑をいつもたたえている地蔵のこわれた像とを残しただけで、あとはみんな永久に消えてしまうのではないだろうかと思った。
 めぐる月のしたで、踊りの輪のまんなかにいるわたしは、魔法の輪のなかにいる人間のような気がした。ところで、まさしくこれは妖術である。わたしは魅せられた。妖怪じみた手ぶりや、拍子をとりながら滑るように運ぶ足どりや、とりわけ異様な袖のひらひらするさま――熱帯地方の大きな蝙蝠(こうもり)が飛ぶように、幽霊のように音もなく、ビロードのように滑らかな袖の舞に、魂を奪われてしまったのである。いや、これまで夢にみたことのあるもので、これにたとえられるものはない。わたしのうしろにある古い墓場や気味の悪いお迎えの燈籠を見たり、今のこの時刻や場所にまつわる妖怪じみた話など思いだして、なんだか亡霊にとりつかれたような(中略)気持におそわれた。いや、そんなことはない。音もなく揺れうごき織るように進むあの優美な姿は、今夜白い燈籠をつけて迎えられた冥土(めいど)の人々ではないのだ。ふいに、小鳥の呼び声のように美しくて朗らかな顫律(せんりつ)にみちた一曲の歌が、娘らしい口からさっと流れだしてくる。すると、五十人のやさしい声がその歌に和した。

  揃うた 揃いました 踊り子が揃うた
  揃い着てきた 晴れ浴衣

 またもや蟋蟀(こおろぎ)のすだく声、足のシュウシュウいう音、かるく手をうつ響だけになった。そして、ゆれ動きながらひらひらと舞う踊りは、無言のうちに眠りを誘うような緩やかな調子で進んでゆく。そのふしぎな優雅さは、まったくその素朴さのゆえに、まわりの山々のように古いもののように思われる。
 むこうの白い燈籠のある灰色の墓石のしたに幾世紀ものあいだ眠っている人々、その親たち、そのまた親たち、さらにそれより以前の、一千年もの長いあいだ埋葬された墓地すら忘れられている不明な時代の人々も、きっとこのような光景を眺めたことであろう。いや、それどころか、この若者たちの足でかきたてられる砂ほこりは、人間の生命だったのだ。そして、今夜とおなじ月のしたで、「足を織りかわし、手を振りあって」このようにほほえみ、このように歌ったのだ。」



「子供の霊の洞窟――潜戸」より:

「「髪の毛三本動かす」ほどの風があっても加賀へは行くな、と言われている。」

「神の洞窟から四分の一マイルばかり引返して、黒い断崖が長く続いたなかに大きな垂直の褶(ひだ)が出来たところへ向かって、まっすぐに進んで行く。すぐその前に、大きな黒い岩が海からそそり立っていて、それに大波の砕けた泡が飛びかかっている。その岩をまわって後ろへ舟を進めると、水がおだやかで、岸の断崖に口をあけた奇怪な裂け目の蔭になったところへ入る。すると、とつぜん思いもかけない一角に、べつな洞窟が目のまえに口をあけている。すぐさま舟がその洞窟の石の入口にふれ、その小さなショックで、奈落のような洞内じゅうに、お寺の太鼓を打つような長い朗々とした木霊がひびきわたる。一目見て、どこへ来たのかわかる。ずっと奥のほうの薄暗いところに、青白い石に微笑をたたえた地蔵の顔が見え、その前や周りいちめんに、形のこわれた灰色のものが寄り集まって、不気味な光景を呈している。――まったく怪奇で異様なものがごたごた群がっていて、妙に墓地の残骸を思わせる。洞窟の床には畝(うね)ができていて、海のほうからしだいに深まる暗がりのなかを爪先あがりに高くなり、さらにもっと奥のほうにある小さな洞穴の暗い入口に達している。そして、その傾斜いちめんが、何百何千という毀れた墓みたような形のものに蔽われている。しかし、だんだん暗がりに目が慣れてくるにつれて、墓ではないことが判ってくる。それは取りも直さず、長いあいだ我慢づよく骨折ったあげく、石や小石を手ぎわよく積みあげて作った塔なのである。
 「死んだ子供の仕事です」と、車夫がいかにも情のこもった笑(えみ)を浮かべながらつぶやいた。
 それから、わたしたちは舟から上がる。岩が非常に滑りやすいので、わたしは注意されて靴をぬぎ、用意してあった草履をはいた。ほかの者たちは跣足(はだし)で上がる。しかし、どうして先へ進んでゆくか、すぐ途方に暮れてしまう。なにしろ、石を積みあげたものが夥(おびただ)しくぎっしりつまって立っているので、足の踏み場もないほどである。
 「まだ道があります」と、船頭の婆さんが言って、道案内をする。
 婆さんの後について、右手の洞窟の壁と大きな岩とのあいだへ身をすぼめてはいると、石の塔のあいだに極く狭い道がある。しかし、子供の亡霊のためによく気をつけるようにと注意された。もし亡霊がつくった石の塔を倒すと、子供の亡霊は泣くだろうから。そこで、わたしたちはひどく用心しながらゆっくりと洞窟を横ぎって、石の積んでないところへ行った。そこは、上のほうの崩れかけた岩棚のかけらの砂が層をなして、岩の床いちめんに薄くかぶさっている。そして、その砂のなかに、わずか三、四インチの長さの、子供の小さな跣足の軽い足跡がついている。――これが幼な児の亡霊の足跡なのである。
 もっと早くおいでになれば、もっとたくさんあったでしょうに、と船頭の婆さんは言う。というのは、夜、洞窟の土が露や天井から落ちるしずくで湿っているときに、亡霊は足跡をつけるのであるが、日が出て暖かくなり、砂や岩が乾くと、小さな足跡は消えてしまうのである。」

「「なぜ亡霊は海から来るのだろうか」という問いにたいしては、満足な答は得られなかった。しかし、疑もなく、この国民の奇異な想像のなかには、多くの他の国民のそれと同じように、水の世界と死人の世界とのあいだには、ある神秘な恐ろしい つながり があるという原始的な考えが、いまだに残っているに違いないのだ。盆の魂祭り(たままつり)の後、七月十六日に流される藁(わら)でつくったあの霊的な小さな舟に乗って、精霊たちがつぶやきながら冥土へ帰るのは、いつも海のうえを通って行くのである。精霊船(しょうりょうぶね)が川に流される場合も、あるいは精霊の帰り道を照らすように湖や運河に燈籠を浮べる場合にも、あるいはまた、子供に先立たれた母親が亡くなった愛児のために地蔵の小さな刷り物を百枚、どこかの川の流れにおとす場合にも、この信心ぶかい行いの背後には、すべての水は海に注ぎ、海は「冥土」へ注いでいるという漠然とした観念があるのだ。

 きょう見聞したこと――うす暗い洞窟、うしろの闇の中へしだいに高く連なっている無数の灰色の石、小さな跣足のかすかな足跡、奇妙な微笑をうかべている像、とぎれとぎれの波の音が洞窟の中のほうに運ばれてゆき、しわがれた木霊で音が増し、あたかも賽(さい)の河原のつぶやきのように、まざりあって一つの大きな霊的な ささやき となる――そのような光景と音とを伴ったきょうの見聞は、いつかどこかで、夜またわたしの胸にふたたび甦(よみがえ)ってくることがあるだろう。」



「日本海のほとりにて」より:

「一週間もずっと空には一点の雲もなかったが、海はこの五、六日間、しだいに荒れだしてきていた。そして今、その寄せ波のざわめきが、ずっと陸地のなかまでも響きわたってくる。亡くなった人たちを祭る盆の三日間――すなわち旧暦で七月の十三、十四、十五日の三日間は、いつでもこのとおり海が荒れると言われている。それで十六日に精霊船(しょうりょうぶね)が送り出されたあとで、海に入ろうとする者はなく、舟の雇いようがない。漁師たちもみんな家にとどまっている。というのは、その日には、亡くなった人たちの精霊が海水をわたって冥土(めいど)に帰らねばならぬので、海がその通路となるからである。そこで、この日には、海は仏海(ほとけうみ)と呼ばれる。そしていつも十六日の夜には、海が穏かであろうが荒れていようが、海面はいちめんに、海原(うなばら)へ音もなく滑りだす微かな光――亡くなった人たちのおぼろげな火でかすかに光るのだ。そして、はるか彼方の都市のつぶやきのような声――精霊のはっきりしない話し声が聞えるのである。」

「ほのかな日光に染められた、どこか青白くて広い敷石のある場所――おそらく寺の中庭を思わせるようなところで、わたしのまえに若くもなく老いてもいない婦人が、大きな灰色の台座に坐っていたが、その台が何を支えているのか、わたしにはその女の顔しか見られないので、よくわからなかった。そのうちわたしは、その女に見覚えがあるように思った。――出雲の女だった。それから、その女が奇妙なものに思われてきた。彼女の唇は動いていたが、目は閉じたままだった。そしてわたしは、彼女を見ないわけにはいかなかった。
 それから、幾年も経ったために細くなったような声で、彼女はもの静かな悲しい歌をはじめた。それに耳を傾けていると、ケルトの子守歌のかすかな記憶がよみがえってくる。歌いながら、彼女は一方の手で長い黒髪をほどいていったが、とうとう髪の毛が石のうえに輪をつくりながら垂れさがった。こうして、すっかり垂れてしまうと、髪はもう黒くはなくて、青い――青白い日のような藍色となり、あちこちに駈けめぐる青い細波(さざなみ)をつくって押しよせながら、蜿蜒(えんえん)とうねっていた。そして、それから不意にその細波は、ずっとはるか彼方までつづき、女はいなくなっていることに気がついた。ただあるものは海だけで、音のない寄せ波の長いのろい閃光(せんこう)をのせて、天空の果までも青々と大波を打ちよせていた。」



「生と死の断片」より:

「子供の時期に、前世のことを思いだして、その話をする日が一日――たった一日あると言われている。
 子供がちょうど二歳になるその当日に、家のいちばん静かなところへ母親につれて行かれて、米をあおって分ける箕(み)のなかにおかれる。子供は箕のなかに坐る。それから母親は子供の名をよんで、「おまえの前世は――何であったかね。言ってごらん」と言う。すると、子供はいつも一ことで答えるのである。なにか不思議なわけがあるらしく、それより長い答をすることはない。しばしばその答がひどく謎めいているので、坊さんか易者に解いてもらわねばならぬ。」



「焼津にて」より:

「この海岸に一つの俚諺(りげん)がある。それは「海には魂があり耳がある」というのである。その意味はこう説明される。海にいて怖(こわ)いと思うとき、その怖いという気持をけっして口に出してはならぬ。――怖いということを口に出して言うと、波がたちまち高くなる。……さて、この想像は、わたしにはまったく自然のように思われる。」

「燐光を発する夜、潮の流れが明滅するさまは、ほんとうに生きもののように見える。その冷たい炎の色合が微妙に移りかわるのは、まったく爬虫類(はちゅうるい)のようである。こんな夜の海にもぐりこんで、その黒ずんだ藍色の暗がりのなかで両眼をひらいて、からだを動かす度ごとに、光が無気味にほとばしるのに目をとめて見たまえ。潮を通してみえる一つ一つの光った点が、まるで目を開いたり閉じたりするようだ。こんな瞬間には、じっさい、なにか知覚をそなえた奇怪な生きものに包まれているような気がするし、そのどの部分も一様に感じたり、見たり、意志を働かせたりする。何か生命のある物質のなかに――つまり、柔らかで冷たい無限の霊のなかに、つり下げられているような気がするのである。」

「やがてわたしは、子供のじぶんに海の声に耳を傾けたときの、漠然とした恐怖のことを考えていた。そして、後年世界のいろいろな地方のさまざまな海岸で、寄せ波の音がいつも子供らしい感情をよみがえらしたことを思いだした。たしかに、この感情は、幾百万世紀もわたしより古いもので、祖先から伝えられた数かぎりない恐怖の総体である。しかし間もなく、海をこわがる気持は、海の声が目ざます種々さまざまな畏怖(いふ)の、ただ一つの要素を表わすにすぎないという確信が、わたしの心に湧いてきた。というのは、この駿河海岸の荒潮に耳をかたむけていると、人間に知られている恐怖のほとんどあらゆる音を、聞き分けることができたからである。たんに凄まじい戦闘や、はてしない一斉射撃や、かぎりない進撃の音ばかりでなく、けものの咆哮(ほうこう)、火のパチパチシュウシュウいう音、地震のごうごういう音、ものの崩れ落ちるとどろき、そしてなかんずく、息のつまった悲鳴のような連続した絶叫――つまり、水に溺れて死んだ者の声だと言われている人声が、聞き分けられるのであった。憤怒と破滅と絶望との、ありとあらゆる木霊(こだま)を結び合せた――じつに凄まじい騒音のどよめきであった。
 そして、わたしはこう独りごとを言った。――海の声がわれわれをまじめにするのは、ふしぎであろうか。海のさまざまな声に和して、霊の経験というさらに広大な海に動いている太古からの恐怖のすべての波が、それに応答せざるを得ないのである。「淵々よびこたえ」るのだ。目に見える深淵が、それより古くから存在していて、その潮の流れでわれわれの霊魂をつくったところの――目に見えない深淵に呼びかけるのである。」



「露のひとしずく」より:

「露の消えてゆくのと人間が消えてゆくのとのあいだに、なんの相違があろう? 言葉のちがいだけである。……だが、それにしても、ひとしずくの露はどうなるのか、自問してみたまえ。」
「人の個性――特性はどうなるだろう? つまり人の観念や情操や回想――人の独自な希望や恐怖や愛や憎しみはどうなるだろう? そうだ、幾億兆の露のしずくのそれぞれにも、原子の震動と反映とには極めてわずかな差異があるにちがいないのだ。そして、生と死との海から引きあげられた霊の蒸気の無数の粒子のひとつひとつにも、それと同じような極めて小さな特質がある。人の個性も永遠の秩序のなかでは、ひとしずくの露の震動でおこる微分しの特殊な運動とちょうど同じ意味をもっている。おそらく、他のどんなしずくにあっても、それが震動することと像を映すこととが、まったく同一であることは決してあるまい。しかし露はなおも結んでは落ちるであろう。そして、その面にはいつも震えている像が映っているだろう。……迷妄(めいもう)のうちの迷妄こそは、死を喪失と考えることなのである。
 世の中に喪失というものはない。――喪失さるべき自我は一つもないからである。過去でどんなものであったにしても、われわれは存在していたのだ。また、現在どんなものであるにしても、われわれは存在しているのだ。未来でどんなものになるにしても、われわれはそうしたものにならねばならぬのだ。人格――個性――それは夢のなかの夢の幻影である。存在するものはただ無限の生命だけである。そして、あるらしく見えるのは、ただその生命の震動にすぎないのだ。――太陽も月も星も大地も空も海も、それから心も人間も空間も時間も――いっさいのものは影である。その影は現われては消える。――影をつくるものが、永遠にものを形づくるのである。」



「病理上のこと」より:

「わたしはたいへん猫が好きである。そして洋の東西にわたって、いろいろな土地でいろいろな時に飼っていたさまざまな猫について、大部な書物が書けるだろうと思う。だが、これは猫の本ではなくて、わたしはただ心理的な理由から、タマのことを書いているのである。タマはわたしの椅子のそばに寝て一種独特な鳴き声をだしているが、それを聞くと妙にほろりとさせられる。それは猫が子猫を呼ぶときだけ出す鳴き声で、クウクウとやさしく甘ったるく声をふるわせ、まったく愛撫の調子をおびている。それから、横に寝そべっている姿を見ると、何か掴えたばかりのものをしっかり持っているような恰好で、前足はものを掴むようにぐっと伸し、真珠のような爪はピクピク動いている。」

「日が暮れると、わたしはいつもタマが台所の屋根伝いに獲物(えもの)をあさりに出かけられるように、書斎に通ずる階段のうえの小窓を明けっぱなしにしてやった。すると、ある晩のこと、その窓から子猫たちの玩具に大きな草履を持ちこんできた。(中略)タマと子供たちとは、その草履を玩具にして朝まで大騒ぎをした。」

「いったい、動物の記憶というものは、他との関連によって生ずるある種の経験については、ふしぎなくらい弱くてぼんやりしているものである。ところが、動物が生れながらもっている記憶、つまり幾万億という数えきれないほどの生活を通して蓄積された経験の記憶は、ふつうの人間のおよばないほどはっきりしていて、誤ることはめったにない。(中略)小さい動物とその習性にかんする広い知識、薬草の医学的知識、獲物をあさる時かまたは闘うさいの戦術の才幹を考えてみるがよい! その知識はじっさい広い。しかも、それをすべて完全に、もしくはほとんど完全に知っているのだ。しかし、それは過去の生活の知識である。現在の生活の苦労については、その記憶はあわれなほど短いのである。

 タマは子猫たちが死んだことを、はっきり思い出せなかったが、なんでも自分に子供があるはずだということは覚えていた。それで、子供たちが庭に埋められてからずっとのちも、ほうぼうで探したり呼んだりした。自分の友達にもいろいろと愚痴をこぼした。そして、わたしには、戸棚や押入れを残らず何度も明けさせて、子猫は家のなかにいないことを確めさせた。こうして、ようやくのこと、このうえ探しても無駄だということに、自分でも納得がいくようになったが、それでもタマは夢のなかで子供たちとたわむれたり、鼻にかかった甘ったるい声で呼んだり、影のようにもうろうとした小さなものを捕えてやったりする。――いや、ことによると、記憶にぼんやり残っている窓をくぐって、幻の草履をさえ小猫たちのもとに持ちこんでいるだろう。」





こちらもご参照下さい:

『ラヴクラフト全集 6』 大瀧啓裕 訳 (創元推理文庫)





































































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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