『安西冬衛全集 第一巻 詩集』

「私は強ひて目をつむつた。
すると、妹の優しい骨盤――石灰質の蝶が苦(さ)えてくるのであつた。」

(安西冬衞 「堕ちた蝶」 より)


『安西冬衞全集 
第一卷 
詩集』


宝文館出版
昭和52年12月20日 第1刷発行
345p 口絵(モノクロ)1葉
A5判 丸背紙装上製本 貼函
定価3,200円
装釘: 濱田濱雄

月報 1 (12p):
江頭彦造「安西冬衛の詩の世界」/尾形亀之助「詩集 軍艦茉莉」(「詩神」6巻8号 1930年8月)/編集室から/図版2点



本書「後記」より:

「本卷には既刊詩集四冊を收めた。」


正字・正かな。全十巻・別巻一。

本全集はだいぶまえに近所の古書店で揃いで5,000円で売られていたのでついうっかり購入してしまいました。
安西冬衞はジュール・ルナールの愛読者であると同時にマルセル・シュオッブの愛読者であった、ということはたいへん重要なのではないでしょうか。後年は社会性にめざめて(というか社会性によって目をふさがれて)戦争協力詩やダム建設賞賛詩など愚劣な詩を書いてしまうものの、本質的に反社会的なインファンテリズムの詩人であり、アモラルなモラリストであり、彫心鏤骨の稚拙感をたたえたアウトサイダーアートであって、「てふてふが一匹韃靼海峽を渡つて行つた。」の一行が、壁にかけられた地図に止まった蝶が地図上の韃靼海峡をじわじわと歩いて移動していくようすから発想されていることを思えば、そこにはジョゼフ・コーネルに通じる想像力のマジックが感じられるではありませんか。


安西冬衛全集01 02


安西冬衛全集01 01


帯文:

「不滅の光芒を放つ安西詩業の全貌!
第一卷
「軍艦茉莉」「亜細亜の鹹湖」
「渇ける神」「大学の留守」」



安西冬衛全集01 03


帯背:

「詩集」


安西冬衛全集01 04


本書収録詩集:

『軍艦茉莉』 
 現代の藝術と批評叢書、第二編
 裝幀者 西脇マジョリー
 昭和四年四月十八日初版發行
 厚生閣書店
 
『亞細亞の鹹湖』
 三百部限定
 昭和八年一月十五日發行
 ボン書店

『渇ける神』
 三百部限定
 昭和八年四月十五日發行
 椎の木社

『大學の留守』
 二千五百部
 新詩叢書
 昭和十八年十二月二十日發行
 湯川弘文社


安西冬衛全集01 05


目次:

軍艦茉莉
  安西冬衞君について (北川冬彦)
 1
  軍艦茉莉
  閹人猧氏
  新疆の太陽
  勳章
  眞冬の書
  暮春の書
  庭
  誕生日
  再び誕生日
  澄める町
  戰役
  春
  春
  日食
  Khan
  退却
  掩護陣地
  十年
  物
  輪廻
  秤
 2
  德一家の lesson
  犬
  村
  シルクハットのある卓布
  あの道
  春
  海
  曇日と停車場
  蝙蝠傘のあるタブロー
  理髪師
  Call
  午餐會
  春
  自由亭
  開港場と一等運轉士と Jampoa
  普蘭店といふ驛で
  室
  德と法
 3
  肋子
  肋大佐の朱色な晩餐會
  黄河の仕事
  養狐會社の書記
  向日葵はもう黑い彈藥
  骰子
  百年
  途上
  曇日と停車場
  犬
  マルヌの紀念日
  騎兵
  門
  エスキース
 4
  タンポポ
  民國十五年の園遊會
  櫛比する街景と文明
  陸橋風景
  夜行列車
  門
  河口
  雪毬花
  藍刀
  石油
  土耳古
  興亡
  オダリスク
  犬
  狐
  猫
  晩春
  首夏
  翌日
  秋
 5
  易牙
  長髪賊
  菊
  地球儀
  遊戲
  文明
  松の花
  鶫
  無花果
  道
  Souvenir
  冬
  物集茉莉

亞細亞の鹹湖
 政治は家具に包圍されてゐる
  三つのもの
  二つの河の間
  政治は家具に包圍されてゐる
  平和と戰爭
  商賣敵
  畢生の冒險
 老いた亞細亞の若い鹽
  翼ある仕事
  ぱん屋の〓(漢字: 丘+ヽ)
  膠
  マラソン選手 〓(漢字: 丘+ノ)

渇ける神
  軍艦肋骨號遺聞
  八面城の念力
  怒る河
  蟻走痒感
  オルドスの幻術
  汗の亡靈
  幻
  黑き城
  三つの天幕
  毒

大學の留守
 大學の留守
  大學の留守
  下市口にて
  定六
  韃靼海峽と蝶
  再び韃靼海峽と蝶
  墮ちた蝶
  測量艦不知奈
  美しき日本の冬の夜の設計
  燕とアスファルト
  未だ冬
  約拿紀行
  土匪の出る列車
  赤と黑
  老いた鹽
  遊隋の城
  沼べり
  惡
  爐ぼこりに渇くわが神
  梅雨
  ブブの宇宙
  迷宮
  金と銀
  海
  臥せる拳鬪家 坐せる鬪牛士
  窯業と晝貌
  玄い石
  左袒
  轉經
  闕典
  鴉
  沙漠の行者が臥てゐると鴉が食物を運ぶ
 北
  偉大な料理人の一粒の鹽
  政治上多少の陷穽
  黄ろい急行列車で智利へ
  權謀と術數
  包圍
  廢語
  祖述
  活佛
  贋造の佛陀と四十一人の佛弟子
  契約の櫃
  蛙
  輕便鐵道
  畢生の冒險
  キニーネを喫む男
  一蝶類蒐集家の公理
  腎と肝
  赤い山
  黄ろい眼
  蝶と腸詰
  赤い圖星
  四行倉庫の抜穴は英吉利の陣地に續いてゐる
  北
  輯後

後記 (山田野理夫)



安西冬衛全集01 06



◆本書より◆


『軍艦茉莉』より:


「軍艦茉莉」:

「     一

「茉莉」と讀まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を投(い)れてゐる。岩鹽のやうにひつそりと白く。

私は艦長で大尉だつた。娉娉(すらり)とした白皙な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思はれた。私は艦長公室のモロッコ革のディワ゛ンに、夜となく晝となくうつうつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。さういふ私の裾には一匹の雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由をさへ喪つてゐた。私は監禁されてゐた。

     二

月の出がかすかに、私に妹のことを憶はせた。私はたつたひとりの妹が、其後どうなつてゐるかといふことをうすうす知つてゐた。妹はノルマンディ産れの質のよくないこの艦の機關長に夙うから犯されてゐた。しかしそれをどうすることも今の私には出來なかつた。それに「茉莉」も今では夜陰から夜陰の港へと錨地を變へてゆく、極惡な黄色賊艦隊の麾下の一隻になつてゐる――悲しいことに、私は又いつか眠りともつかない眠りに、他愛もなくおちてゐた。

     三

夜半、私はいやな滑車の音を耳にして醒めた。ああ又誰かが酷らしく、今夜も水に葬られる――私は陰氣な水面に下りて行く殘忍な木函を幻覺した。一瞬、私は屍體となつて横はる妹を、刃よりもはつきりと象(み)た。私は遽に起とうとした。けれど私の裾には私を張番するコリー種の雪白な犬が釦のやうに冷酷に私をディワ゛ンに留めてゐる――『噯喲(ああ)!』私はどうすることも出來ない身體を、空しく悶えさせ乍ら、そして次第にそれから昏倒していつた。

     四

月はずるずる巴旦杏のやうに墮ちた。夜陰がきた。そして「茉莉」が又錨地を變へるときがきた。「茉莉」は疫病のやうな夜色に、その艦首角(ラム)を廻しはじめた――」



「再び誕生日」:

「私は蝶をピンで壁に留めました――もう動けない。幸福もこのやうに。

食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を。

壜には水が壜の恰好を。

シュミズの中に彼女は彼女の美しさを。」



「澄める町」より:

「私はもう人情(ひとごゝろ)をたのまない。澄める町に、私は汝(おまへ)と住み古りやう。」


「春」:

「てふてふが一匹韃靼海峽を渡つて行つた。」


「德一家の lesson」より:

「蓋(かぶ)さる黑い毛繻子の蝙蝠傘。

映る「ポーシトロンの泊つた赤い赤ホテル」

その向ふに何がゐる? 躍る光の微粉末が、お前をやさしい幻燈の世界へつれてゆく。探究がつれてゆく未知の世界に、お前は身を委せるがいい。

――僕の妹!」

「流れてゆく、箱のやうなものが。

私があちらを向く、地球の外の方へ――。」



「犬」より:

「演舌

吾輩は曾て一オークワードなる少年に過ぎなかつた。然るに日月は、いつか吾輩を一箇の犬儒派にしてしまつた。吾輩は吾輩の日月に感謝する。」



「骰子」:

「春の月が地球儀の西洋を照してゐる。オイスターの上で、靑鬚を毟る極スケプティックな商賣。私はロイテルの特派員だ。

リスボン     私のカフスはよごれた

モンテ カルロ    玻璃製のダイスは指紋に曇つてゐる

忽焉として 北京

東京      薄氷(うすらひ)の下に慈姑はもう動いてゐる。」



「河口」:

「歪な太陽が屋根屋根の向ふへ又墮ちた。
乾いた屋根裏の床の上に、マニラ・ロープに縛られて、少女が監禁されてゐた。夜毎に支那人が來て、土足乍らに少女を犯していつた。さういふ蹂躪の下で彼女は、汪洋とした河を屋根屋根の向ふに想像して、黑い慰の中に、纔にかぼそい胸を堪へてゐた――


河は實際、さういふ屋根屋根の向ふを汪洋と流れてゐた。」



「興亡」:

「蕗の下(かげ)に靑い韃靼(タタール)が亡んでいつた。猫の尾の渦卷の中から埃つぽい囘囘教(フイフイ)が生れてきた。」


「オダリスク」:

「城門に月が出る 靑褪めた 靑褪めた


婦は犬に肢を委せてゐた。」



「狐」:

「遍く葡萄は地上に熟れてゐた

けだものは怜悧な眼彩(まなざし)して趨つてゐた

かすかに月はけぶつてゐた。」



「晩春」:

「街衢(まち)は病熱(ねつ)に魘されてゐる
pagoda


どこまでゆけばあの下に出られるか。」



「秋」:

「横町一杯の鰯雲


あの邸(いえ)の開(あ)いたことのない鎧扉(よろひど)。」



「菊」:

「私は明治の稚拙な空氣の中に最初の教育を受けた。
晝ふかく灯らぬ洋燈(ランプ)。デイワ゛ンの上の黑い猫。そして冷い皿のやうな菊。私はさういふ景物の代表する文明の中に、最初の少女に遭遇した。それは私にとつて、たつた一人の妹だつたのである。不思議にこの妹は突然私の前に現はれた。そして又遽にその姿を消したのである。私は短い日月をこの妹と一緒に過した寒い記憶をもつてゐる。しかしその記憶すらも、後年私が一人の少女に遭ふまでは、幾んどよびおこされなかつたほどの、不幸(ふしあはせ)な夢に過ぎないのである。この不幸な夢の中の彼女は、黑い猫を友として端正な容(かたち)を、曾てくずさなかつた。おして伯林の地圖を表紙裏(みかへし)に刷つた深い藍色の書物を携へて、彼女は獨乙語の稽古に通つた。私は今も覺えてゐる。妹を乘せて歸つてくる、人力車の高い金輪の響を。なぜか私は、その響に Academic なものを感じて、憎んだ。さういふ私の狹い料簡を、賢い彼女は固より知つてゐた。そして愚(おろか)な私を私(ひそか)に憫んでゐたのである。しかしそれを口に出していふ妹ではなかつた。私はさういふ彼女を二重に憎んだ。

私は又思ひ出す。到來の白雪糕を黑い猫に與へてゐる妹の樣子を。復、獨乙語では大佐をオベレストといふのですと教へてゐる風變りなけしきを。そして又私には多くを言はなかつた。斯樣にして妹は、遂に私に親しい口をきかなかつたであらうか。
『お兄樣、お兄樣、曇つた日でも夜になれば一緒ね』といふ不思議な言葉は、後年私が成長して經驗した、ある記憶の錯覺であらうか。
いづれにしても私は、たつた一人の妹をよそに、どの位、徒な日を曠しくしたことだらう。其後間もなく妹は、當時大阪に開かれた第五囘内國勸業博覽會の雜沓の中に行衞を喪つて了つたのである。それなり妹の記憶は私から消えた。そして後年、大佐(オベレスト)といふ獨乙語が、大佐(オベルスト)と訂正(たゞ)されるまで續いた。
私の謬つた記憶を、大佐(オベルスト)と正して呉れたのは後年の少女である。

寂しい輪廻の月日は、年毎に冷い皿のやうな菊を重ねた。さうして時代は移り變つた。」



「地球儀」:

「人生は胡同だ。どこまでもゴミゴミとつづいてゐる。昔、先生が私にさう教へた。

褪紅色の太陽は、燐寸(マツチ)會社の方に沈むのである。妹は稚(をさな)い齲齒をもつてゐる。それを見るにつけても、私は彼女の人生を美しくしてやりたいと思ふ。それだのに彼女の發育した足をつつむ、白い足袋のきのふけふなんと應揚なこと。いつか彼女の膝には、黑い猫に代る紅い毛絲の球がみえそめた。以前のやうにもう遊戲(あそ)ばないのである。お互の領分が、今では喰違つた。日暦が薄くなる。氷がきて二重窓(ど)を鎖す。壁炉(シユミネ)が開かれる。まるで花のやうに――さういふ樂しい日はどこへいつた? 地球儀だけが、昔のやうに靑い。
(私はこの地球儀のある室で、彼女に人生といふものを、最初に教へた。)

仕方がないことです。私は讀みさしの「ポアンカレー」に、再び目をおとすでせう。長い時間が經つ。時折、紅い毛絲の球が「一種ノ尨犬(プードル)」のやうに轉げてきて私の思ひ出に喚びかける。しかしすぐ、又逃げてゆく。妹が邪慳にもそれを膝によび戻すのである。
「なぜ?」
たまらなくなつて私は顏をあげるでせう。しかし彼女は答へすらしないのである。瞼が熱くなる。四邊(あたり)が曇る。みるみる世界が遠くなる。
白い足袋。」



「遊戲」:

「私はメリイ・ゴオ・ラウンドをメリゴランドだとばかり思つてゐた。
今でも、私はメリゴランドといふのを恥しいとは思はない。なぜなら、妹はそれを笑つて可笑しいといふからである。それほど妹も今では大きくなつたのである。少し上を向いた鼻なぞして。
けれどそんなことも、また昔。

冬ざれの公園には自動音樂(オルゴオル)が入つて、剥げた廻遊木馬(メリゴランド)がけふも廻つてゐた。日曜の兵隊だの、文明の少女だの、鳥打を冠つた實利主義の支那人だのが、幸福の上にしつかり跨つてゐた。私を乘せた俥は、阪を上つていつた。昔の道。この道を挾む茉莉花も今は冬枯れてゐる。昔、私はこの道を妹とつれだつて通つた。『これが茉莉(まり)』と彼女は私にさう教へた。さういふ春が、又甦つてくるであらうか?

妹は黑いリボンを愛した。そして私の爲には、誕生日にさへ喪のやうな裝(よそほひ)を粧した。それだのに或る秋の朝、この市(まち)へ入つてきた曲馬團(ヒツポドロム)の少女達は、さういふ二人の間の美しい節操を、考へもなく壞していつたのである。彼らは濃く化粧して恥もなく黑いリボンを飜へしてゐた。私は淺間しく思つた。妹は再び黑いリボンを、もうしようとはしなかつた。
又、彼女は地球儀を愛した。花開萬國春(はなはひらくばんこくのはる)。私はその下で、強大國に圍まれた弱小國のやうに醉ふた。
私は俥から下りた。そして曇つたベンチにきて腰を下した。自動音樂(オルゴオル)が再び古びた譜を奏しはじめた。それにつれて木馬がまた躍る――
日曜の兵隊・文明の少女・それから鳥打を冠つた實利主義の支那人。
日曜の兵隊・文明の少女・それから鳥打を冠つた實利主義の支那人。
木馬は前へ前へと廻る。そして私の手下(てもと)には最早昔の幸福は見られない。愛(かな)しい遊戲(あそび)。一日が微塵に夙く消える。」



「文明」より:

「私は空中飛行船を持つてゐる。馬德里(マドリイド)の叔母からの贈物だ。私は英語で「地球號」と書いて欲しい希望なのである。幸に茉莉も「さう、ね」といふ。このお嬢さんは誕生日にさへ、黑いリボンをするディレッタントである。それゆゑ

  CHQGO

書いて、「これでよろしいですわ」といふのである。」



『渇ける神』より:


「軍艦肋骨號遺聞」より:

「軍艦肋骨號第三分隊長紋大尉の日誌は、「肋骨」が獨乙郵船マーエステート號臨檢釋放の後、是より先マ號船長バッケンバルト氏の贈與に係る猫兒の姓名の質疑應答に始まる。
 當時「肋骨」は韃靼海峽の威力封鎖に從事中だつた。」



『大學の留守』より:


「韃靼海峽と蝶」:

 「木の椅子に膝を組んで銃口を鼻にする。蒼い腦髓で嗅ぐ煙硝の匂が、私を内部立體の世界へ導いた。

 私を乘せた俥は公園に沿うて坂を登つていつた。曇天の下でメリイゴオラウンドが將に出發しようとして、馬は革製の耳を揃へてゐた。しかし私を乘せた俥は、この時もう曇天を墮して坂を登り盡してゐた。
 私は遊離された進行に同意する。

 彼女は目を眠(つむ)つてゐた。壁に垂れた地圖に横顏をあてて。彼女の肩を辷つて靑褪めた韃靼海峽が肩掛のやうに流れてゐた。
 流れる彼女の眸子(まなざし)はいつも愠つてゐる。
 併し私は氣にしない。
 私は構はずレッスンをとる。
 レッスンをとるために歩きまはる。
 歩きまはるために、私はたちどまる。さういふ私を彼女は始めて笑ふのだ。
 微笑がいきなり彈道を誘致した。彈道が彼女を海峽に縫ひつけた。
 次の瞬間、彼女の組織が解體するだらう。穿たれたホールから海峽が落下奔騰するだらう。その氾濫の中で如何にして自分は、自分自身を收容すべきであらうか。
 私は決意した。
 銃の安全裝置を解(はづ)す音は田舎驛の改札に似てゐる。
 銃を擬して、私はピッタリと彼女をマークした。

 すると一匹の蝶がきて靜に銃口を覆うた。」



「再び韃靼海峽と蝶」:

 「妹の狹い胸に水銀が昂つてゐた。
 昂る水銀が彼女の eccentricity を息めて、眠に誘うた。
 夜は最早陰(ふか)かつた。
 私はゲーヂを措いて床に就いた。
 併し仕事は眠の中にまでつづくのである。
 夢の中でリダイト彈の重い輪郭と、彼女の柔い沿岸とが相交錯した。
 觸發をおそれ乍ら、しかし私は計量の手をやめなかつた。
 水壓の音と chain-rammer の響がきこえてきた。
 私は目を醒した。そして魘されてゐる妹を傍にみた。
 月がどこからか翳(さ)してゐた。
 私は月光を挑げて、壁に垂れた地圖に辿りついた。
 靑褪めた韃靼海峽に一匹の黑い蝶が駐つてゐた。
 私は私(ひそか)にそれを脱(はづ)した。
 この時妹の面(おもて)を蒼白なものが冷かに流れた。
 水壓の音はもうしなかつた。」



「墮ちた蝶」:

 「「私は空砲を放つて、面紗を被(かつ)いだ大氣に孔を穿つた。さうして行手に横はるであらう河身――沃土の發見に力(つと)めた。併し私の足下には苦蓬(にがよもぎ)さへ今はあとを絶つた空しい曹達地が、無限に移動をつづけるのみであつた。」

 磅礴するこのエーテルの中には、刻々歴史に改變されてゆく文明、(その胸の中に憲兵を伴つてゐるプロシア人。)苔の匂のするタブーを纏つてゐるユーイット。デカルトの解析幾何學。(樹の中にある代數學)。甘肅の宗教戰爭。成都の萬里橋。スミルナの無花果。妹の中に眠つてゐる蝶等一切の微粒子が、タピオカのプディングのやうに私を密封してゐるのである。
 にも拘はらず、この不毛の地から脱出して、それらの實體と和合する可能は、殆ど私の飢渇の前に竭き盡してゐた。

 私はしばしば火を燃した。「焰が蝶を招(よ)ぶといふ土人の傳説を憑んで……」

     *

 すべてが過ぎ去つた。
 そして今ではすべてが眠つてゐた。
 ただ、この夜陰――罪の堆積の下に、自分だけが目ざめてゐた。
 一年前に嘗めた韃靼行の苦(にが)さが容易に私を眠らせないのである。
 私は強ひて目をつむつた。
 すると、妹の優しい骨盤――石灰質の蝶が苦(さ)えてくるのであつた。」



「測量艦 不知奈」より:

「妹は併し微笑する。
柔い拒絶。
兵器は必ずしも重工業の同意を要しない。
微笑はその武器だ。

この時曙のやうに、天癸が新に妹に始まつた。」



「迷宮」:

 「大學の寄生虫學教室へ論文――寄生虫卵殊に蛔虫卵に於ける温熱及び調味料に對する抵抗に就いてといふ論文の確定實驗に初めて行つた時、彼女は歸りの出口を見失つて、地階から地下室への階段を半ば下りかけた。
 「そつちへ行つてもなんにもありませんよ」
 幽市(ネクロポリス)から吹いてくる黴びた氈(かも)のやうな臭が天井に木靈して、嗄れ聲を墮してきた。
 「屍體室ですよ……」

     *

 この話をして呉れたお嬢さんは、「大學つてそんなところよ」といつて、悲しげに笑つた。」


































































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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